第拾壱話 くらさん
翌日。
何事も無く学校を終えると、何時もなら直ぐに帰宅をして夕飯の準備をするところだけれど、今日は用事があり少し寄り道する。
晴明にも、何時もよりも少し起きるのが遅れるとは言っておいたので、要らぬ心配をかける事も無い。
あの後、少しだけ気まずい空気の中で話をし、その空気を引きずったまま現代に帰って来てしまった。
あの時、自分は晴明に何を言ってやれただろうか。どう、言葉をかけるべきだったのだろうか。
そんな事ばかり考えてしまい、遅れ気味の授業にも身が入らず上の空になってしまっていた。
雪緒は晴明が抱えている事情の一端すら知らない。
雪緒の事情ばかり話してしまい、晴明の事などまったく聞いていない。自分の事しか見えていなかった不出来な自分に苛立ちが募る。
かといって晴明が話をしてくれるかどうかはまた別の話だ。
晴明は、自分の事を話したがらない。
雪緒に完全に心を開いていないのもあるけれど、晴明自身が話したくないと思っているからだ。
だからこそ雪緒も踏み込まなかったし、触れても来なかった。
おんぶに抱っこでは格好も付かないし、良くしてくれる晴明に申し訳が無い。
さりとて、自分では何をすれば良いのかも分からない始末。
最早八方塞がりとなってしまっている現状。
というわけで、申し訳ないし情けない事だけれど、雪緒は知人の手を借りることにした。
呼び鈴を鳴らし、声をかける。
「くらさーん、居るー?」
「居るよー」
返事は扉の向こうからではなく、横から聞こえてきた。
見やれば、一人の女性が縁側に座って煙草を吸っていた。
視界に入る位置にいたにも関わらず、声をかけられるまでまったく気付かなかった。
「久しぶり、くらさん」
「どーも。息災で何より」
言って、気怠げに煙草の火を消す女性の名は藏本棗。雪緒と明乃の共通の知人だ。
友人と呼ぶにはおこがましく、知人と呼ぶにも余りにも接点の少ない彼女。
長い黒髪を腰辺りまで伸ばし、常に気怠そうに眉が下がっており、目の下には化粧では隠しきれない程の隈がある。
顔は整っているのに、纏う雰囲気と目の下の隈が台なしにしている。
服装はラフなもので、黒のタンクトップに、白のショートパンツ。足元を見てみればサンダルだ。お洒落のおの字も無い格好だけれど、何故だか彼女にはそれがとても似合っていた。
「お礼、持ってきました」
「お礼? …………あぁ、あの事か」
一瞬、本気で分からないという顔をするも、雪緒の言うことが思い当たったのか納得したような表情を浮かべる。
「その節はどうもありがとうございました。おかげで、無事生きてます」
「気にするな。たまたまだよ。ちょっと、待ってな。今お茶入れて来るから」
雪緒のお礼を軽く流しながら、立ち上がって家の中に入っていく棗。
雪緒は棗に言われた通りに待っていれば、数分も経たずに棗が戻って来る。
「ほら、座りなよ」
元居た場所に座り、自身の横をぽんぽんと叩く。
雪緒は棗の言葉に従い、棗の横に座る。
「これ、ケーキです」
「ありがと。ほら、お茶」
そう言って渡してきたのはペットボトルの炭酸飲料。
「お茶じゃなくてジュースですよね?」
「よく見てみ、お茶味だから」
「……本当だ……」
棗の言う通り、ラベルには宇治抹茶味と書かれていた。
「いや、結局炭酸飲料じゃないですか」
「お茶の味がすりゃあお茶なんだよ」
「暴論……」
「嫌なら呑まなきゃ良い」
言って、自分は普通のお茶を呑む。
雪緒は溜息を一つ吐き、渡された不思議飲料を呑む。
「まっず……」
「だろ?」
にっと少しだけ笑んで言う棗。どうやら、ただ呑ませたかっただけらしい。まぁ、分かりきっていた事ではあるけれど。
くくっと喉を鳴らして笑うと、棗はケーキの箱を開けて、手掴みでショートケーキを食べ始める。
「皿とか無いんですか?」
「あるけど、出すのも洗うのも面倒だ」
三口程でショートケーキを食べ終え、手に付いたクリームをぺろりと舐める。
「行儀悪いですよ」
「見せる相手も居ない。気にする事じゃない」
「俺が居るんですが?」
「今更気にする程の事でもないだろう?」
「今更と呼べるほど深い関わりはありませんけどね」
「どちらにしろ、君は気にしないだろ。もう一個食べて良いか?」
「どうぞ。全部くらさんに持ってきたものですから」
「それは有り難い。丁度甘いものが食べたかったところだ」
言いながら、チョコレートケーキを手に取り大口を開けて食べる棗。
ケーキを食べる棗から視線を外して、雪緒は口を開く。
「相談したい事があるのですが」
「言うと良い。適当に聞こう」
適当と言う単語に不安を覚えるけれど、雪緒がこんな事を相談できるのは棗しかいない。明乃は絶対に茶化して来るし、仄はそんな事を相談できる程親しくはないーーと、雪緒はまだ思ってしまっている。
繁治は論外だし、小梅もこの手の話には疎いだろう。
冬や園女は常に晴明の側にいるし、千鶴は忙しそうだ。
消去法で、棗しか相談が出来る人物に心当たりがなかったのだ。
致し方ないと割り切り、雪緒は話し始める。
「俺、色々ありまして、ある人にとても世話になってるんです。俺は、その人に世話になってるばかりで、その人の事何も分かってなくて……支える、とは違うと思うんですけど、力になりたくて」
「モンブランか。上の栗は君にあげよう」
「聞いてます?」
「聞いてるよ。甘酸っぱくも良くある青春物語だ」
面倒臭そうにそう言って、モンブランの頂点に乗っていた栗を雪緒の口に突っ込む棗。
時間遡航が良くあってたまるかと思いつつも、言っても意味が無いので栗と一緒に飲み込む。
「どうすれば良いですかね?」
「知らないね。私は君の事もよく知らなければ、君の思い人の事もよく知らない」
「ただの恩人です」
「どっちだって良い。どちらにせよ、私には関係の無い話だ」
相談をしているのに関係無いと言われ、少しだけ苛立つ。
「それに、君にとっても関係の無い話だ」
「は? いや、俺にとっては関係のある話ですけど……」
「無いよ。君の事情も心情も、君の思い人にとっては関係無い。また、君の思い人の事情も君にとっては関係の無い話だ」
「う、ん? 意味がよく……」
「君が思い人と出会ってどれくらい経つ?」
「一週間と少し」
「その程度で相手の何が分かる? 知らない事の方が多いに決まってる。まだそこまでの関係が出来てすらいないのに、関係者面なんておこがましいにも程がある」
辛辣でいて、的を射た棗の言葉に、雪緒は思わず口を噤む。
辛辣な言葉を発するのに、棗の表情は常と変わらず、怒りの色も、叱責する色も見えはしない。
「私に相談するよりも、思い人ともっと仲良くなった方が良い。そっちの方が近道だ」
話は終わりだと言わんばかりに、四つ目のケーキに手をつける棗。
数分で終わってしまった雪緒の相談。しかし、適当でも、投げやりでも無い棗の言葉は、しっかりと雪緒に届いており、それを考える事も出来ていた。
棗がケーキを食べる間、雪緒は棗に言われた事を考える。
確かに、一週間そこらでは晴明の事を何から何まで知る事など出来ないだろう。それに、短期間で完全に心を許してくれる程、晴明が無警戒な訳が無い。
逆に、職務上、晴明は常に周りを警戒している。魔に対しても、人に対してもそれは同じだ。
晴明が防がなくてはいけないのは、何も化生だけではない。
賊や魔に魅入られた邪な人間にも警戒をしなくてはいけない。実際の対処は別の者がするとは言え、警戒をし続けるというのは相当に根気のいることだ。
警戒をする事に慣れてしまった晴明に警戒を解いてもらう事がどれほど難しい事か、分からない訳ではない。
事を急いてはし損じる。
近道が地道と言うのも中々に矛盾しているように思えるけれど、確かに、棗の言う通りである。
「ありがとう、くらさん。くらさんの言う通り、ゆっくり仲良くなります」
「そうか。まぁ、頑張って青春したまえ」
「そうします。ありがとうございました」
答えが見つかれば、ゆっくりしていられない。
早く帰って、少しでも長く晴明と話をしなくてはいけない。
立ち上がり、リュックを背負い直す。
「また何かあったら来ても良いですか?」
「好きにすると良い。私は何時でも暇だから、何時でも来ると良い」
「それじゃあ、その時は遠慮なく」
「ケーキを忘れずにね」
言いながら、煙草に火を付ける。
そんな棗に一つお辞儀をしてから、雪緒は棗の家を後にーー
「あぁ、そう言えば」
ーーしようとして、棗に声をかけられる。
振り返り、棗を見れば、常より少し真面目な目で雪緒を見ていた。
「帰りは電車?」
「いえ、歩きですけど」
「そう。なら、良いよ」
雪緒の答えを聞いて満足したのか、棗は直ぐに雪緒から視線を外した。
いったい何だというのかと首を傾げつつも、棗が少し不思議な事は今に始まったことではない。
それに、今は早く帰って晴明に会いに行きたい。
雪緒は特に深く考えるでもなく、今度こそ棗の家を後にした。
棗の家を後にして、自宅に向かう最中。
少しだけ日の暮れてきた住宅街を歩く。
今日の夕御飯は非番である繁治が作ることになっている。
繁治は警察官だ。休みの日が休日ではなく平日になることはざらで、その上、家に居ない事の方が多い。
そんな忙しい繁治に変わって家事を明乃と分担してやっているのだけれど、非番の日には似合わないエプロンを着けて繁治がご飯を作ってくれる。
楸が生きている頃には家事を手伝ってあげられなかったからと言って、繁治は料理だけはするようになった。その他は雪緒と明乃がやっているので、ならば非番の日に料理だけはやらせてくれと言って、非番の日限定で料理を作っているのだ。
今日はそんな繁治が担当の日なので、早く帰らないと繁治が拗ねてしまう。
中年親父が拗ねているところを見るのは嫌だし、目付きの悪い繁治が拗ねてみても怖いだけだ。
どちらにせよ雪緒に余り得が無いので、繁治が拗ねる前に帰宅したい。
そう思って、帰る脚を早める。
が、丁度曲がり角から出て来た人と折り悪くぶつかってしまう。
少しよろけながらも、相手の顔を見て謝ろうとした。
「あ、すみませーー」
けれど、言葉が最後まで口をついて出てくる事は無かった。
ぶつかった相手の顔を見て、体中の血の気が引いていく。
ぶつかったのはただの通行人だ。そう思っていた。
ぶつかった相手と目が合う。
「あ、ぁ……」
言葉にならない声が漏れる。
しかし、それもしかたの無い事だと言えよう。
何せ、相手の頭は割れてひしゃげ、手足はちぎれて折れ曲がっているのだから。
全身血だらけで、血と元の色との斑点模様のようになっている。出来の悪いダルメシアンのようだと、どうでも良い考えが頭を過ぎる。
目の前の人、いや、目の前の存在はもう人では無いのだろう。
こんな怪我、こんな状態で、人が生きていられる筈が無い。
ならば、いったい何だと言うのか。
目の前の存在が手を伸ばして来る。
情けない事に、声も出せなければ身体も思うように動かせない。完全に、身体が目の前の存在に恐怖している。
徐々に、血塗られた手が雪緒に迫る。
雪緒はその手をただ見つめる事しか出来ない。
血塗られた手が、ついに雪緒の肩を掴む。
「大丈夫? 怪我してない?」
「は?」
しかし、事もあろうに目の前の存在は、気さくに声をかけてきた。
「よかった、怪我はしてないみたいだね」
「…………は!?」
頭の処理が追い付かず、雪緒は思わず大仰に驚いた。
「いやぁ、ごめんね? 久し振りに僕を見える人がいたから、つい声をかけちゃったよ」
そう言ってあははと笑い、ちぎれた腕で頭をかく仕種をする。
「あの、グロいんで手下げて貰って良いすか?」
「おっと、これは失敬」
正直、人の肉と骨が見えているという状況はかなり胃に来る光景だ。あえて彼からは視線を外して話しているけれど、血濡れの彼はどうにも見たくないところばかり目立ってしまう。
場所を移して、雪緒は今近くの公園に居る。
あの場所だと何時人が来るかも分からないので、血濡れの彼を伴って移動したのだ。
公園のベンチに、高校生と血濡れの男。完全に事案である。
「えっと、あなたは幽霊、で、合ってます?」
「合ってる合ってる。僕、幽霊」
「……やっぱりか」
確認のために聞いてみれば、笑顔で頷く血濡れの男。
見える見えないの件で大体分かっていた事だけれど、いざ本人に言われると納得するよりも面倒な事になったと溜息が出て来てしまう。
「あれ、もしかして幽霊を見るのは初めて?」
「えぇ、まぁ」
厳密に言えば、化生の類を見るのは初めてではない。けれど、幽霊となると話は別だ。
雪緒は生まれてこの方幽霊なんて見たことが無い。だから、幽霊を見るのは初めてであり、また、見ることが出来るとは思っていなかったので、見えてしまった事に驚いていたし、自分がどんどん前のような生活をしづらくなってる事に気付き、落胆しているのだ。
「ごめんね、君の初めてを奪ってしまって」
「気色悪いしグロいんでやめてもらって良いですか?」
「わーお、辛辣ー」
言いながら、嬉しそうに笑う血濡れの男。
「まあ、確かに、久し振りに話をするのに、こんな格好というのも失礼な話か。よいしょっと」
重い腰を上げるような、そんな掛け声の後、一瞬にして血濡れの男の姿が変わる。
変わると言っても、衣服や顔が変わるわけではない。
頭の割れとへこみが綺麗に直り、ちぎれて折れ曲がった手足が元に戻り、衣服に付いた血や破けた部分が元に戻っただけだ。
たったそれだけだけれど、元の見るに堪えない姿から考えれば大きな変化だ。
血濡れの男は、爽やかな優男に変化した。
「これなら大丈夫かな?」
「そんな事が出来るなら最初からしてくださいよ……」
「はは、ごめんごめん。あっちの姿の方が慣れていてね」
「それもどうかと思うんですが」
「仕方無いだろう? 誰に見られる訳でもないんだから。見た目なんてまったく気にしなくなっちゃったよ。感覚としては部屋着に近いかな?」
「いや、言いたいことは分かりますけど、さっきの姿と部屋着を同列に扱うのは部屋着に失礼です」
部屋着感覚でグロテスクな姿にならないでほしい。
「はは、君、良いツッコミをするねぇ」
「あなたも中々にボケますけどね……って、こんな事をしてる場合じゃない!」
相手の姿が見られるものになり、急速に冷静さを取り戻した雪緒は、帰宅途中だった事を思い出した。
「用事かな?」
「いえ、急いで帰らないと父さんが煩いんで」
「なるほど。それなら、早く帰ってあげると良い。あまりご家族を心配させるものでもないからね」
「えと、じゃあ、さようならということで!」
また、とは言えない。次回があるとは限らないからだ。
「ああ、さようなら。気を付けて帰るんだよ」
走って公園を去っていく雪緒を、手を振って見送る優男。
奇妙な幽霊だなと思いながら、雪緒は帰路を急いだ。