ハイエルフのアートです。(1~3)
白いカーテンが風に揺れる。その隙間に見える石畳が特徴的な街並みでは、まだ日が昇ったばかりだというのに多くの人々がひしめいている。もっとよく見ようと少年が立ち上がると、腰かけていた木製のベッドがぎしりと軋んだ。
窓のもとへ歩き、左手で布を払う。彼の目に飛び込んできたのは、世界最大の都市のひとつに数えられる街の日常風景。そして、これまで彼が見たこともない、多くの種族が共存する光景であった。
通りを見渡せば、最もよく目にする容姿のヒトだけではない。人間の耳や尻尾が獣のものに置き換わったような女性が露店で買い物をしているし、露店の主人は青い肌で屈強な肉体の男性だ。よく見ると、彼の手伝いをしている少女は他と比べてひときわ小さな背格好をしている。
その他にも聖職者の衣装に身を包んだ爬虫類を思わせる独特の容姿をした種族や、はたまた、剣と鎧で武装した二足歩行の大型獣と、ざっと見渡しただけでもバラエティに富んだ姿の人々で溢れかえっている。これまで一度も見たことがないような景色を目にした少年は、胸を躍らせずにはいられなかった。
すぐさま部屋を飛び出してあの人波に呑まれたい。そんな衝動に駆られて部屋の扉に手を伸ばそうとするが、あるものがふと視界に入り、少年は足を止めた。
(そういや、僕はどんな姿だっけ)
はやる気持ちを抑えて向かったのは、一枚の姿見の前。自分の身長よりも大きなそれを見つけた彼は、両眼をぎゅっと閉じ、傷や曇りのある鏡面の前に立った。意を決して目を開くと鏡に映っていたのは、顔の左右に長く尖った耳を持つ、いわゆるエルフと呼ばれる種族の、特に若い年齢の姿だった。
いずこかのファンタジー小説に倣ってか、輝かんばかりの長い金髪は首の後ろでおさげになっており、少し垂れ目気味の青い瞳は年齢相応にくりりとしている。衣服はごく一般的な麻の服と、ベットの脇に新緑色のローブが畳んで置いてあった。一見すると少女にも見えないことはないが、これでエルフの男の子の一般的な容姿だというのだから驚きだ。当の少年もどういうわけか、鏡に映った自分の姿を見て目を丸くしていた。
「これが……僕?」
と、思わず口にしてしまう程度にはびっくりしていた。
頬をつねったり引っ張ったりして感触を確かめる。特別痛いわけではなかったが、触ってみれば「触っている」「触られている」という感覚は確かにあった。声に関してだけは違和感がほとんどなかったが、やはりいつもよりも高い声が出ているなと感じる。容姿に引っ張られているのだろうか。いろいろ考えたところで、彼は息を吐きだした。
(……これが“アート”の身体なのか。まあ、そのうち慣れるよな)
手を開いたり閉じたり、その場ではねてみたり。違和感のある体の様子を確かめるような動きを何度か繰り返した後、彼は畳んであったローブを頭から被った。ぶかぶかの一枚布は足先までを覆い隠すほどの長い丈で、歩くと踏んづけて転んでしまいそうだ。
かといって寝間着同然の格好で街に出るわけにもいかず、諦めてローブ姿で移動することにして、ようやくドアノブに手をかける。鍵もかかっていない扉は音を立ててゆっくりと開き、日差しが差し込む廊下への道を空けるのだった。
廊下の途中には下の階への階段があり、少年はおぼつかない足取りで一段ずつ慎重にステップを降りていく。最下段、宿の一階の床に足を着け安心していると、見知らぬ女性に声を掛けられ彼はぎょっとする。
「ようやくお目覚めかい、旅人さん。若いエルフにしちゃ珍しいじゃないか」
「ど、どうも」
ふくよかな体系の見慣れた種族、ヒューマンのこの女性はおおきなエプロンを身に着けている。宿屋の女主人といったところだろうか。周りを見ると、宿の一角はカフェのような場所になっているようで、食事をとったり新聞を読んだりしている人物がちらほら見かけられた。
「身体は大丈夫かい?」
「え?」
「あんた、街の外で倒れてたんだよ。ボロボロでね。見た限りは平気そうだけど、どこか痛んだりはしないかい?」
「あの、えっと」
これはどういうことだろうかと目を白黒させていると、宿屋の女主人はふぅーっと息を吐きだした。
「よく覚えてないみたいだね。それだけ大変だったって事かい」
「はあ……」
なんだかよくわからないが、勝手に納得してくれたらしい。この街に入る直前で行き倒れた。そういうことになっているのかと、少年も少年で自分を納得させる。
「それじゃあ、ここがどこかわかるかい?」
「はい、それなら。お店の名前はわかりませんけど」
「じゃあ覚えていっておくれ。ここは最大の都市国家ラティーナで一番の隠れ家的宿屋、風のぼうし亭さね!」
まるで演劇でもやっているかのように両手を広げ、高々と声を上げる女主人。それを目にしていた客の何人かが、待ってましたといわんばかりに指笛を鳴らし、手を叩いている。
「わー」
少年もとりあえず流れに乗っかって手を叩くと、女主人は満足げに口の端を釣り上げた。
「と、そうだ」
正気に戻った彼女は、思い出したように店に裏側に引っ込むと、しばらくしてから何かを手にして少年の前に戻ってくる。宿の主人が持っているのは、革のベルト付きポーチと、鞘に納められた一振りの短剣だった。
「これ、あんたの荷物。盗まれても仕方ないからね、こっちで預かっといたんだ」
「ありがとうございます」
とはいえ、少年には身に覚えのない荷物。受け取るのも躊躇われたが、先立つものがなくてはどうしようもない。それに、自分のものだと言われているのだからきっとそうなのだろう。彼は荷物を受け取り、ローブの上からベルトを腰に回した。
「ちなみに宿代はサービスしといたから」
「えっ、ホントですか?」
「うん、二割引きね」
(……なんか微妙にケチだな)
「宿が必要ならぜひ風のぼうし亭へ! 色々見といで、エルフの坊や!」
勢いよく背中を叩かれ、つんのめるように一歩踏み出す。振り返ると、宿の主人は通常業務に戻ったらしく、せわしない足取りで店の裏へ姿を消していった。
(何が入ってるんだろ)
適当に空いている席に座り、ポーチの中から振るとジャラジャラと音のする小さな袋を取り出す。ほかに物もないし、きっとこれは財布だろう。
それなら中身はと紐を緩め、中の硬貨を一枚だけ取り出す。手に取っていたのは、ブロンズ色の不格好なコインだった。飾りや絵は描かれておらず、簡素なものだがこれがこの地域の通貨であるらしい。これが一体どのくらいの価値なのかは全く見当もつかないが。
袋の中には同じものが計26枚。半端な数なのは宿代が差し引かれているからだろう。つまり、この宿では一泊が銅のコイン5枚の値段だということだ。安いのやら高いのやら、他に比べるものがないから考えようもない。
(これから何をすればいいのかな……)
椅子にもたれかかり、木目が美しい天井を見上げる。
(なにはともあれ、やっぱりお金だ。自分にできる仕事を探そう)
ひとまずの目標を定め、エルフの少年は席を立つ。宿屋の扉の前で一瞬だけ足を止めた彼は、「よし」と呟くと思いっきり押し開けるのだった。
これがアートという名のハイエルフの、旅立ちであった。
○ ○ 〇
『大陸最大の都市国家、ラティーナ。亜大陸のちょうど中央に位置しており、最大級の河川であるエルトゥール河の恩恵を最大限に授かり、繁栄した歴史を持つ。その前身は「崩壊」以前に栄えた古代ラティーナ帝国であるとされており、都市国家の元首であるフラン家は、我が家こそがその血脈を継いでいると強く主張している。しかし、確実といえる証拠はいまだ発見しておらず――』
これは腰を据えてじっくり読むべき資料だと感じ、アートはぱたんと本を閉じた。
「……これを転写しろと?」
「ああ。簡単だろう?」
大陸最大の都市国家、ラティーナ。
平日の昼間から仕事を求めてやたらと広いこの石造りの街をふらふらしていたハイエルフの少年がふと目にとめたのは、立派な面構えをした巨大な建築物であった。
(なにかの施設だろうと踏んで入ってみたけれど、まさか大学だったなんて)
ハイエルフなら頭はいいだろうという偏見のもと割り振ってもらった日雇いの仕事を前に、アートはまさか嫌ですと言えるわけもなく。
「よ、よゆーですよ!」
と、長いローブの袖から細腕を出し、ぐっとガッツポーズをして見せた。
「そ。じゃあよろしく。休憩は適宜とってくれて構わない。3時間くらい後に様子を見に戻るから。講義があってね」
「は、は~い」
そういって少年一人を部屋に残し、立ち去るヒューマンの男性。アートが貸し与えられた机には書き写す書物の原本と、ペンとインクと、大量の羊皮紙があった。重なり積まれた紙の厚さは、アートの顔と同じくらいの物量だ。流石にこれは嫌になる……が、報酬は銀貨1枚分を約束してもらっている。それがどれほどの価値かは知らないが、約束した以上はやらねばなるまい。
「……よし、やるぞ」
意気込み、文字ばかりの書物を開く。文の導入はこの本を執筆するにあたっての筆者の考えがつらつらとつづられており、数ページに及ぶ説教のあとには目次。さらに本文への導入と続き、ようやく本題に移った。
○ ○ ○
どうして偉い人はこんなに長い前書きをしなければ気が済まないのだろうか。ここ数年感じていた疑問を思い出しながら、一字一句を間違えないよう羊皮紙に転写していく。元となっている本に比べたらずいぶんと拙い字になっているが、教授は読めれば何でもいいと言っていたので大丈夫だろう。もとの字が上手すぎるのだ。せめて書きなれた言語であればよかったものを。
一時間に届かないかというところで集中が途切れ、アートは一度大きく伸びをした。この部屋――なんとか教授の研究室には、椅子の背中側にある大窓を除いて風を取り入れる場所がない。窓を開けていてはいつ紙が吹き飛ばされるかわからないものだからずっと開けずにいたのだが、
(なんか薬品くさいんだよな)
普段は嗅ぐことのない匂いだからか、アートはインクのにおいがどうにも気になって仕方がなかった。おそらく、なんとか教授は普段から窓を開けることがないのだろう。部屋の隅にたまった埃がそれを物語っている。それほど汚れていないのは頻繁に使うであろう書棚くらいなものだ。
(印刷技術がない時代か……)
休憩する前にこれだけはやってしまおうと、現在手にかけている紙に文字を書き写していくアート。最初に比べればずいぶんペースが上がってきて、これでだいたい20枚目になるだろうか。右手首が辛くなってきたところでページが字で埋まり、余白以外が文字で埋め尽くされた紙の山にまた1枚仲間が加わった。
すこしだけ休憩しようと席を立ち、エルフの少年は窓から外を見下ろす。手前には大学の敷地。芝の上にいくつかベンチが並んでいて、学生らしき若者たちが座って読書したり食事をしたりしている。
高い塀を挟んで、奥には大通り。日がてっぺんに近づくにつれ増え続ける人の中には、耳と尻尾だけの半獣人や、大きな犬や猫が綺麗に2足歩行しているような完全な獣人といった人々もいる。前者はセリアン、後者はファーリィと呼ぶようだ。やたらと背の低いスプリガン族も、人陰に隠れて見つけにくいだけで、それなりの数が街に暮らしているらしかった。
街ゆく人の半数はヒューマン。髪や肌の色は様々だが、おおよその容姿は見慣れたものだ。耳は尖っておらず、いわゆるケモノっぽい要素がどこにもない。書き写したばかりのことだが、この街の歴史上、ラティーナにはヒューマンという種族がたくさんいるのだという。しかし、人間という言葉をわざわざヒューマンという固有名詞で置き換えて種族の名前にするというのも、わかりやすいがなんだかとても不思議だ。最初に思い付いたのはいったい誰なのだろう。
とりとめのないことを考えていると、アートは大学の敷地内から誰かが自分を見上げていることに気が付いた。少女はこちらと視線が合うと、右手を挙げて左右に大きく振った。大口を開けているから、なにか喋っているらしい。微かにも声が聞こえないなんて、部屋の窓はずいぶんと分厚いようだ。
(教授になにか用事だろうか)
腕や足を露出させ、とても学生とは思えない服装であったが、かといって大学関係者でないとは限らない。羊皮紙の束にその辺にあった書物を重しとして乗せてから、多少怪しみつつも、少女の声を聴くためにアートは大窓を押し開けた。
ぶわ、と突風が吹きこみ、少年の長い髪が巻き上げられる。容赦なく向かってくる風に片目を瞑りながらも、長耳の少年は窓から顔を出す。
「そこ、ラフマン先生の研究室だよねーー!」
先ほどから叫んでいた、栗毛の少女が言う。よく見ると、彼女の耳はアートと同じで長く尖ったものだった。ハイエルフだ。
「ラフマン先生って誰ですかー!」
思い当たる節がなく、アートは聞き返した。そもそも、彼が知っている名前といえば自分と宿屋の名前くらいなものだ。もしかしてこの部屋の主人がそのラフマン先生なのかもしれないが、うろ覚えではっきりわからない。
「歴史のラフマン先生だよー! キミ、先生の関係者じゃないのー?」
「この部屋の教授の名前、知らないんですよー!」
「なーんーでーすーとーー??」
「僕、日雇いのバイトなんです!」
僕が叫ぶと、傍のベンチで食事中だったセリアンの女性がくすくす笑い始めた。彼女の隣にいたスプリガンがこちらを見上げ、
「ラフマン教授の部屋であってるよ、そこ!」
と、フォローを入れる。周囲の人にも聞かれていることにようやく思い至った少年は、長い耳の先を赤く染めた。
「……なるほど、わかったぞ!」
栗毛のハイエルフはなにか納得がいったようで、口に両手を当てて言う。
「じゃあいまからそっちいくからさー! ちょっと待っててくれるー?」
アートが返事をするよりも早く、エルフの少女は敷地内を駆けだす。息を弾ませた彼女が部屋に飛び込んでくるまで、それから5分とかからなかった。
窓を閉め、アートは埃が舞う部屋を眺める。貴重なはずの書籍や資料やメモ書きされた羊皮紙が無造作に積み上げられたり、棚に押し込められている部屋に、先ほどまではいなかった人物の姿があった。
「えーっと、とりあえず座ってください。汚いですけど」
「これはこれはご丁寧にどうも。……わぁ、すごい埃。ぶわぁってしたよ」
応接用の深い椅子に彼女をすわらせ(応接用でいいのだろうか。正面のローテーブルには紙が散乱している)、アートはそわそわしながら栗色の髪を持つ少女を見下ろす。
やはり耳が長い。そして尖っている。瞳は鮮やかな碧色で、アートとは色合いがずいぶん違うが彼女もまたハイエルフという希少種族だ。ヒューマンやセリアンならまだしも、自分と同じ種族の、しかも人口の少ないエルフと出会うなど、どのような偶然なのだろう。
思いもよらぬ出会いにアートが緊張していると、少女が口を開く。
「自己紹介しようか」
「ああ、はい」
彼女の提案に、アートは頷いた。
「ハイエルフのアートです。今日は日雇いでここに……だから、伝言くらいしかできませんが」
「ううん。いないなら直接会いに行くからいいよ、気にしないで」
「教授とは長いお付き合いなんですか?」
エルフやスプリガンといった、妖精の血を汲んでいるとされている種族がある。それらの大概は他の種族よりも長命で、特に妖精の血が濃いハイエルフは、少なくとも300年は生きるのだという。ヒューマンを基準とするならば、寿命は5倍とも10倍ともいわれるが、実際は多くが途中で歳を数えるのを止めてしまうようで、たしかなことはわずかな記録にしか残っていないのだ。
(ファンタジーの例に漏れず、歳をとってもなかなか老けないからな。見た目じゃいくつかわからない)
この人も実は結構な年齢なのではないか。彼の疑いを察して、エルフの少女は笑いをこぼした。
「わたし、まだ18だよ。そんな歳に見える?」
「えっ、あ、いや、そんなことないです!」
気まずくなって、アートはとっさに伸ばしかけて宙ぶらりんになった手を誤魔化すように自分の首元を撫でた。
「そうかなんだ、同世代か。……緊張して損した」
「紛らわしいのはわかるよ。わたしだって、わたし以外のハイエルフに会うのは初めてだしね」
「それって、僕の歳もわかってなかったってことですか」
「あはは、どうでしょう?」
お茶を濁され、エルフの少年は口をへの字に曲げる。手玉に取って遊ばれていたらしい。
「そうだ、わたしの名前言ってなかったね」
腰をおろしたばかりだというのに、少女はすくっと立ち上がり、右手を差し出した。
「わたしはフィオ。色は違うけどハイエルフです。よろしくね、アート君」
「よろしく、フィオさん」
フィオと名乗った少女の手を取り、互いに小さく上下に揺らす。すると、彼女は不意に呟いた。
「ようこそ、この世界へ」
「え?」
ここではない世界を知っているかのようにもとれる発言に、アートは呆気にとられる。
(ああ、そういうことか)
希少種族であるはずのハイエルフにこうも簡単に出会えたことに納得がいった彼は、そうとわかった途端、胸に穏やかな気持ちが広がるのを感じていた。もしかしたら、すれ違った人々の中に自分と“同じ”人間がいたのかもしれない。それくらい、彼らはこの世界に馴染んでいるのだ。
「先輩プレイヤーとして、いろいろ教えてあげようじゃありませんか!」
「まあ、それはそれとして」
「ありゃ?」
手を放すと、フィオは間の抜けた声をだした。自分が頼られるのを期待していたのだろう。先輩面がしたかったのだ。しかし、現実に年下なのだと知ってしまった以上、アートのちっぽけなプライドがそれを許さなかった。
「僕、仕事残ってるからさ」
「相手してる時間はないってこと? ドライだねえ。さっきと態度違くない? お客さんだよ?」
「先輩ならご自分でどうぞ。当店はセルフサービスとなっております。……わかるでしょ、終わらないんだよこの量だよ!」
アートは教授に指定されている本をつかみ、フィオの前でぱらぱらとページをめくって見せた。エルフの少女は目を白黒させて滝のように流れる分厚いページを見送ったあと、「もうわかった!」と両目を手で覆い隠した。
「これ全部写さなきゃいけないんだ。銀貨1枚のためにも、休んでる時間なんて――」
「ばっくれよう!」
「は?」
それはアートにとって、思いもよらぬ提案だった。彼はまじめな人間だ。一度受けた仕事を途中で放棄する発想は、頭の端にもなかったのだろう。
「これ全部でたったの銀貨1枚? 法外だよ! 労働法違反!」
「基準がよくわからないんだけど、そんなに安いの?」
「安いよ! 詐欺だよ! 学術への貢献とかいって言いくるめる気だよ、絶対!」
「……悪いことじゃないと思うけど」
この世界で学術に貢献することにどんな意味があるのかわからないが、その点に関してアートは疑問を抱いていないようだった。このままじゃ靡いてくれないと思ったのか、フィオはアプローチの方向性を変えてきた。
「世の中金だよ! キミは馬小屋で2週間寝泊まりしたいのか!? やわらかいベッドで寝たくないの? そんなに藁とキスがしたいのか!」
馬小屋がどんな場所なのか、アートは知らない。そんなところに入る機会なんて、生まれてこの方一度だってなかったからだ。しかし、知識としては知っていた。そこが飼料の匂いと排せつ物の臭いで、非常にクサくて息苦しいことを。
おそらく、どれだけ拒もうとしてもこの子はしつこく説得を試みるのだろう。それは時間の無駄だと悟ったのか、アートはため息交じりに言った。
「……君の言いたいことはわかったから。それで、僕にどうしてほしいの?」
「交渉に行くよ! いざ、センセイのもとへ!」
自分でしゃべっているうちにヒートアップしたのだろうか。フィオはアートの手首をつかむと、力任せに彼を引っ張って歩き出した。研究室のドアを開け、講義中で人の少ない絨毯が敷かれた廊下を行進し、吹き抜けになっている階段を我が物顔で進んでいく。
なんて物怖じしない人なんだろう。わかりやすく呆れつつも、逆らうことすら無駄のように感じ始めた少年は、いまはただ彼女に身を任せることにするのだった。
フィオに引っ張られてとある場所へ向かうと、ラフマン教授はあっさり見つかった。
「おや、休憩かい。エルフがもう一人増えているようだが」
「子供ひとり騙しといて優雅なもんじゃないですか、センセイ?」
教授は食堂の端っこの席で、本を片手にランチを楽しんでいた。テーブル上には野菜がぎっしり詰め込まれたサンドイッチと、ティーカップに淹れられた紅茶らしき飲み物が並んでいる。
「なんだ、君たちは知り合いなのか?」
ラフマン教授は眠そうな目でアートのほうを見る。
「教授こそ、この子と顔見知りですか?」
「ん……顔見知りといえばそうだが、赤の他人と言ってほしいな」
視線を流し、目を細める。とても迷惑だ、と教授の表情が語っている。
「この人ケチなの。この前お仕事してあげても、たいしてお金くれなかったし」
「銀貨3枚はそれなりに大金だと思うが」
うんうんとアートが頷く。僕の3倍ももらってるじゃないかと口を挟むと、フィオは「事情を知ったらそうも言ってられなくなる」と反論した。
「あの本探すのにどれだけ苦労したと思ってるんですか!」
「ああ……そういえば随分時間がかかったじゃないか。1週間で済むと思っていたのだが」
「ええ、貴重な本でしたから。そりゃもう厳重に守られてましたとも。おかげで死にかけました。武器も防具もボロボロです。治療薬だって使いきっちゃいました」
「それはご苦労」
「経費で落ちませんか?」
「断る。契約外だ」
助けと同意を求めるように、フィオは隣の少年を見る。徐々に彼女が気の毒に思えてきたエルフの少年は、しかしどうしても気になったことを少女に尋ねるのだった。
「いくらかかったの?」
「……装備修繕費に銀貨1枚、消耗品に銀1と銅貨60」
それっていくらなんだろう。銀と銅のレートによって大分変わってくると思うが……。
「銅貨40枚分の利益はでているじゃないか」
「2日分の生活費しか残らなかったんですよ!」
(ああ、これは文句言いたくなるのもわかる……)
彼女の言う通り、自分に与えられた仕事も実は割に合わないのではないか。命がけでない分まだましかもしれないと思いつつ、アートの気持ちは仕事を中断する方向へ少しづつ傾いていくのだった。
「それがどうした。目先の利益にばかり気を取られるな、学術の世界ではよくあることだ」
「わたし、学術の人間じゃないですし!」
「こっちの少年を連れてきた理由は?」
ラフマン教授はお金に関する話題をこれ以上続けるつもりがないようだ。フィオも埒が明かないと理解したのか、一度息を整えてから言葉を返す。
「アート君の仕事はキャンセルです。同族がぼったくられるのを見過ごせません」
「そうか。止めはしない」
「ぼったくりは否定しないんだ……」
「一冊で済ませるつもりはなかったからな。いい助手ができると思ったのだが」
天秤が振り切れた瞬間だった。たしかに、あのまま文章を写し続けていたところで、いつ終わりがやってく来たのかわかったものではなくなってしまった。その瞬間、アートにはフィオがちょっと強引な天使に見えてきた。
「アート君はわたしの相棒として頑張ってもらいますから」
「えっ」
「ね!」
エルフの少女が、少年の手を取り顔を近づける。傍から見れば仲睦まじい光景に見えないこともないかもしれないが、アートには彼女が天使から一転して別の存在であるように見えた。
「ねっ!」
フィオがさらに顔を近づける。流石エルフだけあって、彼女の顔立ちは整っている。西洋人形のようだという喩えは使い古されているが、なにか大きな存在による被造物だと言われても疑いようがない。それくらい美しく、可愛らしいものである。
しかし。これは脅迫に近い何かである。見た目に騙されてはいけないぞと、アートの心の奥で誰かが叫んだ。そもそも、お互いに借り物の身体じゃないか。本人が美人あるいは美少女であるかの確信へつながるものではない。
(流されるな。落ち着け。押し切られちゃダメだ)
ここで仕事を失えば、生活が成り立たない可能性が生まれる。彼女についていっても、きちんとした生活が送れるとは限らない。しかし、ラフマン教授にアートを使い潰すつもりがあったのもまた事実。
(ああ、世知辛い。あっちでもこっちでも世知辛い)
わかりやすい成果を期待されるあっちの日々。金と仕事に苦労しそうなこっちの日々。どちらが楽と比較するようなものではないが、いずれも避けられそうにない。であれば、一つの判断基準に頼ろうではないか。同じような生活をしていては、そもそも意味がないのだから。
「わ、わかった。フィオについていく」
「ほんと? やった!」
表情を明るくして、エルフの少女は小さく跳ねる。それから教授に向き直り、
「そういうことで、経費については不問にしてあげます!」
「……そりゃどーも」
上から目線で捨て台詞を吐き、アートの手を引いて、食堂を軽い足取りで後にした。
「……嵐みたいだ」
残された教授は大きくため息をつくと、乾いた喉を潤すために、お茶を口に含むのだった。