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五話

「さて、そうなると残る問題は辺壮吉さんですね」

「えっ、何故名前を?」

「だって彼、うちのお得意さんですから」

「ああ」


 そうだった。そういえばこの男はこのカフヱの女給だったのだ。


「奥さんに手を上げるのは頂けませんね。とは言え元々彼が此処へ通い始めたのは五年前、奥さんがご懐妊されている時だったんですよ」


 奈落は、胸をぎゅっと締め付けられるような感覚に陥った。先ほどの千代の出産の話を思い出したのだ。妻が苦痛に耐えて子をその身に抱えていた時に、カフヱで女給遊びとは。そんな奈落の憤りには気付かず、利一はそのまま言葉を続けた。


「これは想像ですけど、壮吉さんは壮吉さんなりに奥さんを気遣ったんじゃないかと思うんです。妊娠中に褥を共にするのはお腹の子に良くないという話がありますからね。だから外で解消しようとして、そのままカフヱに入り浸るようになってしまったのではないでしょうか?」


 利一の言葉に、奈落ははっとした。辺氏に対して嫌な印象しか抱いていなかったが、そう言われると納得できる。奈落は自分の視野が狭くなっていた事を恥じた。


「そうか、そういう事も考えられるな」

「ですから、壮吉さんが此処に来なくなれば、意外と全て解決するのかもしれません。壮吉さんは外遊びが減って奥さんに目を向けるようになるでしょうし、そうなれば貴女の事も誤解であると言い張ればまるく収まるでしょう」


 その言葉に、奈落はすがるような目で利一を見た。


「そうすれば! そうすれば、彼の千代さんに対する仕打ちも、無くなるだろうか?」

「必ずとは言い切れませんが、可能性はあります。一応、策が無いわけではありません。店的にはお得意さんを一人失う事になりますが、まぁお客には困ってませんから大丈夫でしょう」


 途端、奈落は利一にしがみ付いて訴えていた。


「頼む! 私は、千代さんを助けたい! 可能性が少しでもあるなら、どうか。私にできる事なら何でも!」

「何でも?」


 利一に聞き返されて、奈落ははっと利一から手を離した。だが、その離した手をすぐに利一に掴まれて、奈落は怯んだ。


 しかし、奈落は一度目を(つむ)って呼吸を整えた。背筋を正して利一を見据えると、はっきりと言い放った。


「ああ。何でもだ」

「この場所で、何でも……と言うことは、わかって仰っているんですよね?」


 奈落は、ちらりと奥の布団に目をやる。それはつまり、そういうことだ。奈落は躊躇(ちゅうちょ)するようにごくりと一瞬喉を鳴らしたが、また利一の方に目を向けて深く頷いた。


「私の身から出た(さび)だ。その私がこのぐらいの事出来ないでどうする」


 奈落の目には迷いはなかった。利一は奈落の片手を掴んだまま、もう片手で奈落の頬を撫でる。一瞬、奈落の体がびくりと動き、その目が固く閉じられた。そのまま、奈落の耳元に唇を落とす。利一は片手を頬から奈落の腰に回した。奈落の体は震えながらも、その場から逃げぬようにしっかりと足を踏ん張っている。


「ふふ、気丈ですね。そして、とても健気だ」


 そう呟くと、利一は奈落から手を離して解放し、彼女の側を離れた。突然体が自由になり、奈落は恐る恐る目を開けると、利一は奈落の汚れた着物を畳んでいた。


「経験も無いのに、滅多な事を言うものではないですよ。そんな粗相でもしそうな程震えてる女性を抱けるわけ無いじゃないですか」

「んなっ⁉︎」

「そんな事をしなくても、俺は貴女の為ならなんだってできますよ。安心してください。そして、出来ればもう少し胸元を隠してください。男物の着物ではないんですよ?」


 言われて奈落は、自分の胸元が相当はだけていた事に気付いた。普段から男物の着物を着ていたので、無意識にゆったりとしていた着方をしていたようだ。


「すまない」


 奈落はそそくさと胸元を隠すと、途端にその場に崩れ落ちた。恥ずかしさと緊張の糸が切れたのとで、腰が抜けてしまっていた。


 利一は苦笑いしながら、奈落の着物を風呂敷に包んだ。


「貴女にそこまでさせる千代さんが羨ましいですね。本当に貴女は、千代さんの事を想っている。貴女は、別に千代さんを月長石の君の代わりにした訳じゃない。ただそれがきっかけだっただけです」


 そう言って、風呂敷包みを奈落に手渡す。そして、今度は本当に真剣な顔をした。


「だから、これは肝に命じてください。壮吉さんが千代さんのもとに戻れば、残念ながら貴女とエスの関係を続ける理由は無くなります。それでも、構わないんですね?」


 奈落は風呂敷包みをぎゅっと握り締め、絞り出すような声で言った。


「ああ。そもそも私は、さっき千代さんとのエスの関係を解消してきたんだ。もう、私に何かとやかく言う権利は無い。千代さんが幸せになるなら……」


 そこで、奈落は一瞬言い淀んだ。しかし、一瞬の間の後にはっきりとこういった。


「それで、いい」


 そのまま俯いた奈落の髪を、利一はぽんぽんと撫でた。


 内心、利一は自分の自制心を大変に褒めたが、それは奈落の知らないところである。

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