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四話

「まぁ、あれですよね。一言で言えば、阿呆なのかな? と」

「うぐ」


 事の顛末を聞いた利一は、こともなげに「阿呆」の一言で言い切ってしまった。その手には長い(かつら)を持って、毛先を(くしけず)っている。


「それで罪の意識に耐えかねて、勢い任せに『お別れ』して来ちゃったんですか? 本当に阿呆ですね。相手の方も可哀想……」

「勢いなどでは」


 ない、と言いかけたが、利一の眼鏡の奥の切れ長の目に見据えられて奈落はぐっと口を(つぐ)んだ。よく考えれば、事の発端がそもそも勢い任せだ。風吹から話を聞いて、衝動的に店を飛び出した。この行動に、そもそも始めから思慮(しりょ)などなかったではないか。


「だけど、あのままでは私のせいで、彼女が傷付くばかりだ」

「それは貴女が上手くやれば良かったものを、余計な行動をとったからですよね? それさえ無ければ、貴女はまだ彼女を影で支えることができたはずじゃないですか」


 奈落は言葉を続けようとしたが、視線を彷徨(さまよ)わせた後にまた口を噤んでしまった。利一はそんな奈落を見て、わかりやすいな、と思いながら、小さく溜息をついた。


「まだ、言っていないことがあるでしょう」


 その利一の言葉に、奈落はぴくりと反応して、不安げな目を利一に向けた。利一は多少劣情を催したが、言わないでおくことにした。


 多少の躊躇(とまど)いを見せた後、奈落はぽつりと、口を開いた。


「私は、恐らく、結婚している女性に対して……憎しみがある」


 利一は、奈落の口からこぼれた「憎しみ」という言葉に(かつら)を梳る手を止めた。


 迷いながら、言葉を選ぶように。奈落は自身の心の底の(おり)吐露(とろ)し始めた。



****************



 奈落が女学生であった頃に、想いを寄せる上級生がいた。髪の長い、整った顔立ちの、凛とした声を持つ美しい女性だった。


 女学校ではエスの姉妹関係を結ぶ上級生と下級生が多く、彼女もまた下級生の憧れの的であり、彼女の妹になる事を望む下級生は多かった。


 奈落もまた、そんな女学生の一人だった。奈落は帰り道が同じだと偽り、彼女の下校を待ち伏せてはよく一緒に歩いていた。実際には大変な遠回りだったのだが、彼女と別れた後の帰り道は少し遠くなっても、浮き足立っていたので少しも苦にはならなかった。


 それは、朝露に濡れた紫陽花が(しと)やかに咲き誇る季節だった。奈落は意を決して、彼女に何故誰ともエスの関係を結ばないのかと聞いた事があった。


 彼女は穏やかな微笑みを見せながら、奈落に自身の持つ月長石の首飾りを見せた。それは、彼女が愛しい男性から貰った約束の品。卒業と同時に嫁ぎ先が決められていた彼女は、密かに愛しい相手との駆け落ちを心に決めていたのだ。


「そんな私の妹になっても、辛くなるだけよ」


 しかしその後、彼女は奈落の耳元に口を寄せてこう言ったのだ。


「それでも良ければ、だけど」


 奈落は彼女が駆け落ちを敢行するその日までの、秘密の「妹」になった。


 その関係は誰にも明かせず、おおっぴらに会うことも出来なくなったので、共に下校できることも少なくなっていった。


 奈落は祖父の店にあった月長石を使って、自分用の首飾りを作った。せめて彼女と近いものを身につけていたかった。それがたとえ、彼女が自分以外の愛し人から貰ったものだとしても。奈落は何度も涙を零しながら、月長石を磨いた。


 彼女は奈落と会っている時だけは、とても奈落に良くしてくれた。奈落の首飾りを見て、またあの笑顔で「素敵ね」と言った。それだけでいいと思った。


 そして彼女は、ある日突然姿を消した。その時が来たのだ。


 彼女は何もかもを捨てて、愛する男性と知らない土地で添い遂げる事を選んだ。いや、初めから奈落は選択肢ですらなかった。周囲は大いに騒いだが、誰も奈落に何かを聞いてくることもなかった。奈落と彼女は表向き、初めから何もなかったのだから。


 奈落に残されたのは、自分で作った首飾りだけだった。



****************



「自分が男であれば、彼女は愛してくれたんだろうかと、何度も考えたよ」


 全てを吐露した奈落は、もう涙も枯れ果てているようだった。淡々と、自嘲気味に嗤いさえ浮かべていた。


「多分、それは違います。彼女はただ、自分の恋人しか愛していなかったんでしょう」

「わかっているよ。わかっていても、そう思わずにはいられなかった。自分が女でさえなければ、こんなに苦しくはなかったのではないかと」


 奈落の虚ろな瞳が、空を見つめていた。まるであの時のような目だと利一は思った。


 鉱石薬に携わっていると、鉱石特有の「香り」に鼻が利くようになる。普通の香りとはまた違い、それは鉱石自身が放つ波動のようなものだ。それは、記憶と強烈に結び付けられる。奈落が月長石を調合したがらないのはそのせいだ。月長石の香りは、泣きながら石を磨いたあの時のことを思い起こさせる。鉱石の香りは男性よりも女性の方が敏感に察知する傾向があるのは、皮肉な話だ。


「女であっても、男であっても、きっと辛いのは同じです。そこに男女の差異なんかありませんよ」

「お前が、それを言うか」


 奈落が目を細めて、少し正気に戻った顔で利一に言い捨てた。だが、利一はさも楽しそうににこにこと笑った。


「おや? 今ここに、中身と外見が一致しない人間は居ませんよ?」


 うぐ、と奈落はまた口を(つぐ)んだ。少し頬も赤らめていた。


 奈落は利一の持ってきた女物の着物に着替えていた。黒地に大輪の赤い菊が散らされた小紋。臙脂(えんじ)色の半幅帯で簡単に結んでいたが、普段の奈落に比べると随分(ずいぶん)女性らしい装いになっていた。


「お前は、よくこんな派手な柄の着物が着られるな」

「よくお似合いです。貴女は紅が似合うと思っていたんですよ」


 恥ずかげもなくそんな事を言う利一は、してやったりと言わんばかりの顔をしている。奈落はますます顔を赤くした。


「俺は、貴女が女性で良かったです。女性の貴女を好きになったのですから。俺は貴女がどんなに他の女性を好きでいても、何人の姉や妹がいても構いませんよ。俺が貴女のただ一人の男になれればいいです」

「もういい、わかった、やめてくれ。もう充分だ」


 利一は更に畳みかけようとしたが、耳まで真っ赤にした奈落を見て言葉を飲み込んだ。


 きっと、今の彼女ならこのまま(しとね)に誘い込むのはそう難しくない。どちらかと言えば、これはもう「据え膳」であると言えるだろう。だが、今の彼女にはもう少し整理すべき問題がある。それを片付けてからでも遅くはない。焦らずとも、これからじっくりと間合いを詰めていけば良いのだ。恐らく彼女は、自分が火に入ってしまった夏の虫であることすら気付いていないのだから。


 敢えて言う必要はない事だってある。そう、この(かつら)のように。恭助に頼み込んで手に入れた、奈落の髪で仕立てたこの(かつら)。彼女が捨てたと言う女の証がここにあるなど、奈落は思いもよらないだろう。


 楽しみはとっておくものだ。心の中で利一はそう呟いた。

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