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二話

 奈落は着物の(すそ)をたくし上げ、なりふり構わず走っていた。帽子を落としたことにも気付かないほど必死だった。だが、すぐに息が上がり心臓が苦しくなった。奈落は瞬発力はあるが、持久力はない。元々運動は苦手だが、長距離を走るのはその中でも一番苦手だった。だが、それでも胸を掻きむしりながら、辺家へと向かった。何度も足をもつれさせながら、それでも。


 しかし、辺家の門の前まで来て、奈落は途方に暮れた。自分は、ここに来て何がしたいのか。何をしようというのか。息が上がってまともな思考ができない。とにかく、呼吸を整えるのに必死になっていた。


「ちよ、さん」


 うわ言のように、息を切らせながら彼女の名前を呼ぶ。ここで、辺家に上り込むのは得策ではない。それではきっと余計に千代に迷惑がかかる。いや、いっそ本当に彼女を連れ去ってしまおうか。


 自分は、千代の何を見てきたのか。あの瞳の奥の哀しみに、きちんと向き合っていたのか。いや、きっと見ているようで見ていなかったのだ。私が彼女に重ねて見ていたのはきっと……


 「奈落先輩?」


 その時、洗濯物を持って干しに出た千代と出くわした。千代はたいそう驚いていたが、奈落は千代の姿を見て絶望的な気持ちになった。


 風吹が言っていたとおり、額の傷。いや、傷だけではなく、青痣が額に広がっていた。それだけではない。よく見ると体にもあちこち、痣が見え隠れしている。見られたことに気付いた千代は、慌ててたすき掛けを外して腕を隠した。


「これは、その、転んでしまって」

「千代さん、私は」


 その時、千代は家からの物音に反応して、奈落の腕を掴んだ。


「すみません! 先輩、こちらへ!」


 奈落は千代の手に引かれ、勝手口から辺家の台所に入り込んだ。そこは土間であったが、上がった息が戻らない奈落はその場に座り込んでしまった。千代は慌てて(かめ)の中から、汲み置きの飲用水を柄杓(ひしゃく)で掬って奈落に差し出した。


「すみません」


 奈落は手渡された柄杓(ひしゃく)から水を飲み干すと、ようやくひと息つく事ができた。すると、改めて今の状況の異様さに、何かとんでもないことをしてしまったのではないかと細かい震えが襲ってきた。


「ここは、うちの土間です。ここなら主人は入ってきません。義母も、今は不在にしていますので」


 そう言うと、千代は奈落に寄添い、その腕を首に回してきた。温かい千代の肌の感触。しかしその腕には、先程も見かけた痣が所々に広がっていた。


「千代さん」

「奈落先輩。会いたかった」


 その千代の言葉に胸を締め付けられた奈落は、千代を搔き抱いた。違う、そうじゃない。そんな事をしに来たわけではないのに。これではまるで、間男ではないか。


 そうは思っても、体が言う事をきかない。このまま、千代を抱いていたい。自分の中の激情に奈落は戸惑っていた。


「すみません、千代さん。本当に、ごめんなさい」


 奈落の目から、涙が溢れていた。自分の不甲斐なさを恥じるしかない。


「なんで、先輩が謝るんですか?」

「私は、貴女に酷い事を」


 自分がした事で、千代は明らかに傷付けられていた。それなのに千代は「会いたかった」と言ってくれたのだ。


 奈落の目からぽろぽろと涙がこぼれ落ちていた。


「先輩。ここ、土間ですよね」


 千代が、不意に預けていた体を離して、そんな事を呟いた。


「え?」


「百香は、ここで産まれたんですよ。出産は(けが)れですから、畳の部屋には上げて貰えません。大体の女性は、土間で子どもを産みます」


 淡々と、そんな事を語り始めた千代を、奈落は泣き腫らした目で見ていた。


 千代の言っている事は合っている。最近は医術も発達してきていて、部屋や病院で産むという事もあるらしいが、基本的には穢れとされて土間や離れで出産する事を強いられるのだ。


「それが、普通です。私もそうしました。でもね、奈落先輩。私、辛かったですよ。あの子、なかなか産まれてこなくて、出産もまるで初めてのことで、本当にあの子が五体満足で産まれてくるのか、ずっとずっと不安で」


 普段、声を荒げない千代が激昂していた。千代の告白は、深く深く、奈落の胸を抉った。


「だから、こんなのは辛いうちに入りません。大丈夫ですよ、奈落先輩」


 そう言って笑ってみせた千代の顔は、色んな事を諦めた目をしていた。奈落は堪らず、千代を力任せに抱き寄せた。奈落の中に、後悔と自省の念が渦巻いていた。


 千代は、自分には想像もつかないような苦労をしてきた。既に彼女は、女学生時代の彼女では無くなっていたのだ。それでも、自分と女学生のような関係を望んだのは、夫からの仕打ちに対して精神の安定を保つためだったのだろう。何故、そこまで思い至れなかったのか。


 いや、薄々気付いてはいたのだ。気付いていたのに、奈落はそれを「利用」した。自分の為に。


 何故、自分はあんなちっぽけな月長石に囚われていたのか。それさえ無ければ、きちんと千代に向かい合う事ができただろうに。


 奈落は手を緩めて、千代から体を離した。懐に入れていた巾着から、()の端切れに包まれた赤鉄鉱(せきてっこう)の細石と液体の入った小さな薬瓶を千代に渡した。


「薬瓶は桉樹(あんじゅ)の油です。この包みに染み込ませて患部に当てて下さい。傷の治りが早くなります」

「えっ。ありがとうございます」

「その可愛らしい顔に傷が残ったら大変です。傷が癒える前に油が無くなったらまた店に来て下さい。でも、もうエスごっこは終わりです」

「えっ」


 千代が奈落の真意を問う前に、奈落は立ち上がって勝手口の扉を開けた。


「友達に、戻りましょう?」


 奈落は振り返って千代と目を合わせると、ありったけの無理をして笑顔を作った。そして、千代が何か次の言葉を言い出す前に、その場を走り去った。

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