2話「治療」
私がアーニャを産んだのは今から10年以上も前のこと。アーニャは産まれた頃から病弱な体だった。
生後間もなく高熱を出して命の危機に瀕したが、有り金をはたいて大きな町から高名な修道士様をお呼びし、なんとか一命を取り留めた。
その後も何度となく高熱を出したり病気を患ったりして床に臥すアーニャ。
農民であった私たち夫婦では修道士様を何度もお呼びするだけの蓄えもなく、家計がやりくりが苦しくなった。そこで夫がハイリスクハイリターンの冒険者稼業に転身する。
だが、元々農民であった夫には荷が重すぎた。アーニャがまだ4つの頃、夫は冒険者稼業で帰らぬ人となる。そして不幸は重なる。アーニャが病気で喋れなくなったのだ。
はじめは言葉が喋れなくても首を振ったり、ジェスチャーをしたりで意思疎通ができた。しかし病が進行すると、その意思疎通も困難になっていく。
声の次に奪われたのは聴力だった。耳が遠くなり、ついには私の声が届かなくなった。致し方なく簡単な日用単語を覚えさせ、文字を書かせた。
だが、所詮は延命措置に過ぎなかった。
聴力の次は視力だった。目が見えなければ文字を読むことは出来ない。ゆえにコミュニケーションは成立しない。辛うじて文字が書けても、こちらの言葉はアーニャに届かないのだ。
音も光もない真っ暗な闇の中に取り残されるような恐怖をアーニャは感じていたことだろう。
まだ小さいアーニャには耐えられるはずもなかった。アーニャは嗚咽をこらえきれず、されども声を出すこともできずに一人むせび泣いた。
アーニャは外界と隔絶されたように感じたはずだ。横になったアーニャはよく両手を上げ、何かを探す仕草をする。
足手まといな自分は置いて行かれるのではないか。母も父と同じようにどこかへ行ってしまうのではないかと恐怖にかられるアーニャは、両手で私を求めるように探すのだ。
次に病がアーニャに襲いかかったら彼女を助ける術はない。修道士様を呼ぶお金もなく、またお呼びしたところで病の進行を止めることも治すこともできない。
だから私はなるべくアーニャの傍にいようとした。
裁縫をする時は、アーニャのベッドに腰かけ糸を紡ぐ。
食事をする時は、アーニャに食べさせながら自分も食事をとる。
アーニャがトイレに行きたい時は、アーニャをおぶって行く。
夜は、同じベッドで一緒に眠る。
体は、毎日拭いてやる。
彼女から離れるのは、食事を作るときと木の実や食料を調達するときくらいだ。
――ある日――
私はアーニャが寝ている間を見計らって、今日も木の実を採取していた。そろそろ家に戻ろうかと考えていた頃。
「あら?」
家に戻ろうとしたところで、ふと人が倒れていることに気づく。
「だ、大丈夫?」
声を掛けるも返事はない。
顔はまだ10代後半くらいに見え、あまりこのあたりで見ないかわいい顔だなと思った。
「たぶん魔力の使い過ぎね。この分だとしばらく起きないかしら」
このまま倒れたままにしておくことはできない。私は彼を家まで運ぶと、居間のベッドに寝かせ、食事の準備に取り掛かる。
食事ができたところで彼は目を覚ました。
「あら早かったわね。起きられましたか?」
しばらくアーニャも目を覚まさないだろうと思い彼と談笑した。
最初は彼の常識に関する無知ぶりに驚いたが、言葉遣いもしっかりしているし、教養がある人なのだと思った。
しばらく話していると、彼がアーニャの容体を見たいと言ってきた。
彼からの好意は嬉しかったが、私は期待していない。高位の修道士様でも病を完治させるどころか、進行を止めることすらできなかったのだ。
彼が回復魔法をアーニャに使って何も変化がなければ、彼は気に病んでしまう。十中八区そうなるだろうと予想していた私は遠回しに断ろうかと思ったが、思いのほか彼の意思は固かった。
私は試すだけならと思い、彼をアーニャの部屋へ招く。
「この部屋がアーニャの部屋よ」
アーニャの部屋の前で止まると、彼も立ち止まって頷く。
「アーニャは今寝ているので、もし体に触れる必要があるならアーニャを起こすけれど」
彼は一瞬考えた仕草を見せてから頷き答えた。
「いえ、とりあえず寝かせたままで大丈夫です」
「分かったわ」
私はアーニャの部屋のドアを開け、彼を中に通す。
事前にアーニャの容体を説明していたが、彼は臆することもなく回復魔法を使おうとする。
途端、彼の周りが光り始めた。
まるで周りの光を吸収していくように。
「な、なに!?」
私は驚きのあまり、目を見張って立ち尽くしてしまった。
彼はブツブツ魔法の呪文を唱えているようだった。
「まずは治癒するための体力を……癌か? 転移している場合も……合併症を起こしている可能性もあるから……」
なにを言っているのかわからないが、アーニャを診断しているのだろうか。
「失声症はストレスによるものかそれとも脳が原因か……視神経を活性化させて……」
光が眩しすぎてもはや目を開けていられなかった。
「【回復魔法】:オールヒール!!」
部屋が溢れんばかりの光で満たされ、瞼を閉じていようとも眩しさで立ちくらんでしまう。
1分程度光り続けていただろうか。
光は次第に弱まり、次第に視界が開けていく。
そこに広がっていた光景は――
寝息を立てているアーニャと床にぶっ倒れている彼。
「あっ……。またなのね……。しょうがない人ね」
私はそう呟くと彼の傍まで歩み、居間に戻そうと肩に彼を背負った。
その時だった。
「ママ?」
「――っ!?」
私は声が出なかった。
何が起きたのか信じ切ることができず、動悸が早鐘を打っている。
奇跡?それとも夢?……もし夢なら覚めないで欲しい。
私はゆっくりと、声のしたアーニャの方へ振り返る。
「ママ……。ママーー!!」
涙で潤ませた目を見開いたアーニャはベッドから飛び出し、私に抱きついた。
私はその場に泣き崩れた。
口元を抑え、あまりの嬉しさに胸が締め付けられるような思いだった。
「ママ! アーニャね、喋れるよ!? ママが見えるし、音も聞こえるよ!? 体も痛くないよ!?」
「ーっ。ぅっ。ぅうぐぅっ。うんっ、よかった、本当によかった……」
私は嗚咽を漏らしながら涙で顔を濡らし、しっかりと我が子を抱きしめた。
絶対に手放すものかと、強く強く。
アーニャも泣きながら私を強く抱き返して来る。
もう何もいらない。
私には、この子がいればもう何もいらない。
しばらくの間、私とアーニャはお互いをかき抱きながら、赤子のように泣き続けた。