駝鳥
特に、登場人物のモデルはありません。
鬼は云う。
そこまで自分は、鬼では無い、と。
だが、鬼は云う。
「換わりに、貴様のその右腕を頂こう」
――止むを得ない。飲まざるを得ない。
しかし、抗議した。
いや、哀願した。
鬼よ。
そなたが得るのは、只の右腕。
しかし私は、
人生の全てを失うことになる、と。
ふむ、と鬼は続きを促した。
私はこの腕で何でもしてきた。
物を造り、飯を食い、字をしたため、
そして我が妻を愛したのも、
全てはこの右腕。
この右腕こそ私そのもの。
鬼よ、そなたの得るものは僅か。
単なる、人の右腕。
だが、私は自分の半身、
いや、人生の全てを失うのだ、と。
鬼はぽりぽりと頭を掻いた。
そして、苦笑う。
だからこそ、その腕が欲しいのだがな……。
だが、鬼は折れる。
駆け引きに乗ってやるかと、
鬼は笑った。
「いいだろう。
ならば、別の者から頂こう。
お前の代わりに、その者の右腕を」
きゃあああああっ!
私は、はっと振り返った。
妻の悲鳴だ。何事か。
まさか、と慌てて奥の間へ駆け込んだ。
狼狽する妻の姿。
しかし傷つけられたのは、妻ではなかった。
「あ、あああ……」
私は想わず膝を着いた。
妻に抱かれる赤子の右腕が、
ぷっつりと無くなっていることを。
赤子は何も気付かず、
只、すやすやと眠っていた。
思わず、振り返る私の背後で、
小さな右腕を咥えた鬼が、
ゆっくりと姿を消した――。
「ああ、生まれつきなんですよ。これ」
彼は軽やかに頷いた。
左腕でトントンと書類を揃えながら。
そして、右肩から垂れ下がる袖。
そう、彼は右腕を持たなかった。
そのような障害について、
面と向かって尋ねる者はそう居ない。
しかし、彼は気を悪くしたようでもなく、
涼やかな笑顔で受け答える。
「不便? さあ、どうなんでしょうね。
皆さんもさぞ不便でしょう。
空を飛ぶための翼を失ったばっかりに。
――なんてね」
そんな軽口を述べながら、
慣れた手つきでメモ用紙を重しで押さえ、
サラサラと書き物をする。
更に、書物を広げてラインを引き、
果てはパソコンのキーボードに向かい、
軽やかにタイプし始めた。
片手でタッチタイプをこなす彼の指先は、
もはや神業の域だ。
無論、両手打ちと比べて、
せいぜい負けない程度だが。
「生まれつきだからなんとも思いませんよ。
……っていうのは、強がりなんですけどね。
やっぱり他の人と比較してしまう、
いろいろ、不利に感じた場面もありました。
だけど」
彼は立ち上がった。
外に出向くのか、上着を手に取り、
片手で器用に袖を通した。
「仕方ないですよ。これが私です。
みんなだってそうでしょう?
こんな自分に生まれたばっかりに、とね。
受け入れて生きていく他はないんですよ」
そう云いながら、
パソコンをシャットダウンして席を離れる、
その間際。
ビジネスソフトがクローズする、その間際に、
デスクトップの壁紙が露わとなった。
その壁紙に使われた画像。
それは、鬼に翼を折られながらも、
雄々しく大地を掛ける駝鳥の姿であった。
大空に逃げることも適わず、
危険な大地で生き抜くことを選んだ、
逞しい鳥達の姿が、そこにあった。
(完)
手塚治虫氏の作品に、体の部位を鬼に取られる「どろろ」という作品がありました。そのイメージをぱくっただけかも知れませんが、書いている途中で意識はしていませんでした。ただし、よくある話を持ち出した、という意識はあります。障害者の下りも、聴いたことがあるような話の組み合わせです。そう考えると、オリジナリティに欠けるといえば、そうなのですが。