第ニ章 その者、治世の能臣そして乱世の奸雄。(2)
曹操の怒りが天を衝いてから3日が経ち、曹操軍の参謀が一人、郭嘉奉公は地元である豫州穎川群へ数人の供を引き連れ赴いた。
「荀彧殿も大変だよなあ。まあそんだけ曹操殿の信を得ているって事だし、良かったのやもなぁ…」
なにやら囃し立てるように独り言を繰り返している。
郭嘉は荀彧より曹操との事の一端を聞いていた。
曹操は兵法家として非常に優れており、陶謙との決戦では万が一にも負ける事はないだろう。
…が、それは冷静だった場合の曹操だ。
今の曹操は復讐に燃える鬼だ。
その僅かな心の隙に采配が狂わされる事もある。
恐らく自分は帯同するであろうからそこを荀彧殿に変わり、良く補佐し、損害を最小限に抑えつ、勝機を見出す。
「いててて……」
やるべき事の多さ、考えなければならない事の多さと国の左右を決するような判断の数々に郭嘉はここ数日、きりきりと哭くような胃痛を抱えていた。
郭嘉が穎川に凱旋したのは、とある人物に協力を願う為だった。
屋敷、というにはこじんまりとしている、だが民家と呼ぶには大きな建物の戸を郭嘉は叩く。
「おーい…穀潰し殿、生きておられますかな?」
「誰が穀潰しだ!先生…いま開けますのでお待ちを」
戸が開くと、髪を後ろに束ねた目鼻立ちの整った長身の美男子が書物を片手に出てくる。
「よく私だと分かったね。どうだい?人の家に借り受けてそこでタダ飯を食い続ける気分は。」
「願わくばこのまま悠々と暮らして死にたいものです。その為には郭嘉先生にはもっと働いてもらわねば…。」
「穀潰しめ…よくもそのような口が叩けるね。はたらくか死ぬか選んでみよう。」
郭嘉は腰に下げた剣の柄に手をかける。
「働きます。」
殺気を感じると男は笑みを崩さぬまま、即答した。
その様子を見て郭嘉は疲れた顔で溜息した。
「兪瑛、漸く決めてくれたのか。
手紙を三度も送らずに普通にこうやって圧力をかければ話は早かったとは…」
「先生のしつこさには恐れ入るというか、尊敬しますね。」
兪瑛と呼ばれたその男は、司州の山村での戦いのとき見せた姿とは顔に面影はあるものの大きく見違えていた。
その姿は身長もさながら手足は更に長く、目測で六尺はありそうな凛々しい偉丈夫であった。
もともと食が細い為身体の大きさは曹操軍の勇猛な将たちに比べれば細いが鍛錬をしているのか、引き締まっている。
あの戦いの後一年ほど村で過ごし、農民達からの僅かな出資で護衛の傭兵を雇い豫州に入ると、
穎川で郭嘉と出会い、郭嘉の智に感心を持つと暫く語り合っているうちに居候となり暮らしていた。
「君も齢18だ、曹操殿へ推挙するべく迎えに来た。
夜更けに書物を漁り、昼になれば放蕩し山の民と小競り合いする生活も終わりだ。
奥に息を殺して聴き耳を立てているお仲間も、良かったら一緒にどうかね?」
「よ、よろこんで……」
戸の奥から緊張した面で、男がひょこっと顔を出した。
「参ったな…。先生は多忙に渡りもう半年も家に帰られぬというのに、いつの間に私のそんな事を知っていたのですか。」
「君は智慧者なのにどこか雲の如し奔放さで、時に度を過ぎた悪戯に走る、君が私を知るように私も君を知っている。」
つまり先生はこんな感じの生活だという、予想から日常を当ててしまったというのか。
悪さはあまり出来ないな、と兪瑛は苦笑いする。
「しかしそんな君の能力を誰よりも買っているのは私だ。
すぐに支度をしたまえ。私の着物があるだろう、それを着ると良い。
曹操殿がお待ちだぞ。」
郭嘉は話を終えると兪瑛を戸の奥に押し込み、ぴしゃりと戸を閉めた。
兪瑛が正装に着替えると、郭嘉が舐めるように見回す。
三日会わねば男子は変わるというように、この半年で見違えたなと、
郭嘉が兪瑛の成長ぶりに兄のような喜ばしい感情を抱いていると、
見られていた兪瑛が不快な顔をして郭嘉を見ているのに気付く。
「見違えたものだと思ってな。では行こう。」
兪瑛と戸の奥に隠れていた男、郭嘉と護衛の数名は馬に乗り市街を街を出て、曹操のもとへ向かった。