第二章 その者、治世の能臣そして乱世の奸雄。
馬超・兪瑛の山村での戦いより3年が経ち、一時は反董卓を掲げ互いに援助し合い集まった群雄も、解散してというものの、互いの利権や領土の拡大のため、或いは己が天下を統べんと私闘を繰り広げていた。
そんな諸侯らも未だ忘れ得ぬ光景が頭の片隅にあった。
冬のしんしんと降り積もる雪に似合わない、炎と炭だけになり果てた古都・洛陽。
この漢という国に於いて、それだけ象徴的な都市であり、多くの群雄達が幼少時代を過ごしたり、或いは過ごしていなくとも訪れた街。
曹操孟徳という男もまた、そんな洛陽で過ごしてきた者の一人だ。
曹操は現在豫州にて軍備における徴兵、練武、編制を
終え、父や母を殺した陶謙を討つべく、徐州へ侵攻する為の兵を起こそうとしていた。
切れ長の目ながら人を見透かすような大きな瞳が特徴的な男である。
「曹操殿、お聞き下さい!
我々曹軍が確かに全力を出せば簡単に斬れる相手かと思います。
ですが些か時期尚早というものであります。
先の徐州遠征で徐州の民は我が方率いる青州兵の荒い気質に虐殺され尽くしております。
これを曹操殿が不問とされたが故に、青州兵はまた同じように城を落とした際城下の民を略奪し、殺す事は目に見えています!
これでは陶謙を斬ったところで地に禍根が残る上、徐州の民はますます疲弊の度を増すかと思われます。
深慮の上、再度ご検討下さい!曹操殿!」
男は城内を速歩きで闊歩する曹操を引き止めようと必死に喋り続ける。
だが当の曹操は耳を傾ける素振りを見せない、かと思えば急に立ち止まり、前を向きつも背後に立つ男へ声をかけた。
「荀彧よ、物事を広く見るが良い。
青州兵はお前が先に言ったとおり荒い気性だが、強靭にして豪胆。
陶謙を討つにしろ呂布を討つにしろ必要であるのだ。
今はまだ兵になりきれていない俺に従う暴徒であれど、必ずや最強の野戦兵団となり得る、犠牲は付き物だ。
そして今出兵する理由だが、徐州は前述の通りこの曹操との戦で傷つき荒れている。
これにつけ込む輩が居れば反曹操の温床となり得る。
徐州の回復には手を打つとしても陶謙を討たねば回す手もない。
これらを以って徐州親征は止むなしである。
いい加減飲み込むが良い、荀彧。
お前ならば分かっていように。」
「この荀彧、先程は地に禍根が残ると申しました。
ですが悪名は天を駆け巡ります。
今、敵対勢力の出現を良しとしてはならない!」
「曹操の名が如何に天下に於いて駆け巡ろうともそれは天意である。それも良し。」
曹操は荀彧に爽やかな曇りのない笑みを向ける
あぁ、こういう時の曹操殿の目は悍ましいものを感じる。
何故だかは分からない、だが本能がそう感じているような、そんな気がする。
一見、端正な顔立ちの男の、人懐っこい飾りのない笑みであるのだが。
いつの間にかさっきまで晴れていた空には雲が立ち込め、辺りが暗くなっていく。
そして曹操はゆっくりと荀彧に振り向く。
「だが………俺が如何に人を裏切ろうとも、人が曹操を裏切る事を許さじッ!!!」
曹操が壁を殴りつけると破壊音と共に穴が開き、蜘蛛の巣の様に一面にヒビが入る。
「曹操殿……あなたは……」
荀彧は曹操がこれ程の怒りを覚えていた事に驚愕していた。
普段曹操は神秘的な程に腹の底の見えない人物で、即ち感情的になる事も少なかった。
自ら軍を率いた戦闘中以外では声を荒げる事を荀彧は見た事がなかった。
そんな曹操の天をも焦がさんばかりの怒りに触れたように、突如夏の曇り空に遠雷が大きく鳴り響く。
だがこの荀彧という男は王佐の才とも呼ばれ、類稀なる才士である。
瞬時に曹操の挙兵を止められなかった事を受け止め、考えていた上策を捨て次なる策を考え始める。
必ず曹操が自ら徐州に親征するとなると背後を突こうと群雄たちは動くだろう。
では本拠地に残すべく者は誰か、例えば計略を使うとして誘い込む天険は、兵力は、兵糧は。
そこまで考えてハッとする。
「どうした?荀彧よ、背後を突かれるやも知れぬ恐怖に我を忘れていたか」
曹操は荀彧の考えを見破ったかのように、先ほどの怒りの爆発とは変わって、荀彧を茶化す。
そして重みのある言葉でもあった。
まるで…その背後を死守するのが、お前の役目だ、と語っているように荀彧は聞こえた。
苦笑いし、とんでもないと精一杯の返答。
それを見届けた曹操は薄く笑みを浮かべて、城内から兵舎へ向かって行った。
今新たなる戦いが、幕を開ける。