言の葉の意(おもい)
ふと目を向けた部屋の窓から、欠け始めて数日が経過している月が見える。
あれはなんという形だったろう。
こういうことがサラリと答えられる女性は素敵だと思うけど、私には無理だ。
意識を月に奪われていると、軽く頭を小突かれた。
「こらっ、集中力切れてんぞ」
「勉強を始めたのは六時半……さぁ、今何時?」
出題する司会者のように問い掛けると、先輩はスマートフォンで時間を確認する。
「ただいまの時刻……午後八時ちょっと前」
「そう! 学校から帰って約二時間半ぶっ通し!」
おおげさに訴えるも、先輩は鼻で笑った。
「ちょこちょこ休んでるじゃないか。集中力が切れる言い訳にはならない」
「それは……そだけど」
素っ気なく言い返され、私は不機嫌に頬杖を突く。
大学受験を控えた今、今度の模試は進路を左右する大一番。
先輩と同じ大学に行きたい私は、無謀な挑戦の真っ最中だ。
分からないところを教えてほしいと頼んで来てもらっているけれど、小腹が減っては集中なんてできない。
「もーっ、お腹減ったー!」
飲み物は用意してあるけれど、食べるものがない。
食事の前が勉強するタイミングには最適だと、どこかの誰かが言っていたけれど、腹が減り過ぎては集中力なんて続かない。
適度な休憩は必要だ。
私がふてくされていると、先輩は盛大な溜め息を吐いた。
「まったく……文句が言いたいのは俺のほうだ。せっかく合コンに誘われてたのに、そっちを断ってここにいるんだぞ? 君がふてくされるのは、道理が違う」
「だって、古文なんて英語の日本語版じゃない! 入試が終わりさえすれば、この現代に古文は必要ないのに……なんで、こう悩ませるかな?」
和歌集だとか、なんたら日記だとか文学的に優れていると言われても、私には難解な文字の羅列でしかない。
変格活用とかサッパリだ。
「分かると面白いのにね~」
先輩はおもむろに国語の資料集を手に取り、パラパラとページをめくる。
「人間の本質や感性が変わらないと知るためにも、昔の人間の思考を辿ることは大事だよ」
先輩は開いた資料集を私の目の前に置く。
しぶしぶ目を向けると、そこは百人一首を紹介しているページだった。
三十一文字に込められた想いは、約束事や枕詞が分からなければ難解でしかない。
「百人一首に選ばれた和歌の意味だけど、おおよそ分かる?」
清少納言と紫式部、小野小町の名前だけは知っているけれど、この人達がどんな和歌を詠んだのか私は知らない。
それに読解はできなくても、この時代の人が詠む歌の内容は似通っている。
「百人一首の和歌なんて、恋しくて死にそうだとか、どうして私の所に来てくれないのとか、恋慕の執着心に満ちたものばかりじゃない。嫉妬とか凄そうで、面白くもなんともないよ」
和歌に限らず、不倫や許されない恋を題材にした歌や、どうして自分を振り向いてくれないのかといった妬みの感情を訴える現代の歌も私は苦手だ。
そんなドロドロとした感情に共感なんてしたくない。
たとえ、恋をしている自分の心境とシンクロする部分があったとしても、頑として認めたくないのだ。
「もったいない。偏見で見ていたら、人間が小さくなるよ。ちゃんとその奥にある本質と言うか……人間性を見ないと後悔する。この歌なんてその一つだ」
先輩がシャープペンシルの先で示した和歌に目を向ける。
《長らえば またこのごろや しのばれむ 憂しと見し世ぞ 今は恋しき》
「どんな意味だと思う?」
先輩は楽しそうに尋ねるけれど、私には全く理解不能だ。それでも、答えないという選択は許されない。
「今は恋しき……憂いて見る世の中でしょ? 偲んでるってことは……昔のことよね?」
和歌には恋の歌が多い。となれば、答えはこうだ。
「彼女にフラれて立ち直れない人!」
自信満々に答えれば、さげすむように笑われた。
「先輩……その顔、すっごいムカつく」
「見当違いな答えを馬鹿にして悪いか」
「精神的に落ち込みますー!」
唇を尖らせて屁理屈を述べれば、先輩はまた鼻で笑う。
スマートフォンを操作し、画面を見せられた。
「この歌を詠んだのは藤原清輔朝臣。平安時代後期の歌人で、歌学者。父親と不仲で、四十代半ばまで無位無官の状態だった人だ。和歌を披露する機会にも恵まれない時期が長くて、自分の力を発揮できたのは、父親が亡くなってからだった」
当時の寿命で考える四十代といえば、今でいう七十代くらいの感覚だろうか。その年齢まで親に抑圧されていたのかと思うと、わずかながら同情心が芽生えた。
「苦労したんだね……」
ポツリと感想を述べれば、先輩は柔らかに微笑む。
「そう、この百人一首に選ばれた和歌は、苦労をしていた三十代を懐かしんで詠んだ歌だ」
「恋の歌じゃ……ないの?」
先輩は、サイトに書いてある現代語訳を読み上げる。
「この先、生きながらえるならば、今のつらいことなども懐かしく思い出されるのだろうか。昔は辛いと思っていたことが、今では恋しく思い出されるのだから。さあ、君はどう解釈する?」
勝ち誇った顔をする先輩に、私は肩を竦める。
「偏見だった。ごめんなさい」
「分かれば宜しい」
先輩は自分のカバンに手を伸ばし、中から飴が入っている袋を取り出す。個別包装されている飴を一つ手にして、上機嫌で袋を破り飴玉を取り出した。
私は先輩が示した和歌に目を遣り、意味を頭の中で反芻する。
歌の意味を理解して自分の中に落とし込んだ私は、飴玉を口に含んだ先輩の二の腕を軽く叩いた。
「ねぇ先輩! もしかして、和歌で励ましてくれた?」
「受験勉強がツライのは当たり前。だけどその苦労を乗り越えれば、苦しく楽しい大学ライフが待っている!」
拳を天井に向かって突き上げた先輩に、私は苦笑する。
「苦しいのと楽しいの、どっち?」
「自分で入って実感するといい」
苦しかろうと楽しかろうと、先輩と一緒なら私は十分やっていけると思う。
なぜなら私は、優しいのか淡泊なのか分からない先輩に、心を奪われているのだから。
先輩と同じ大学に行きたい理由だって、心の奥底にある本音はとても利己的。
中学や高校と同じように、共通する行事や先生の癖なんかで笑いたいだけなのだ。
しかしそのためには、クリアしなければならない難関がある。
「あぁ、もぅ泣きそう……」
弱音を吐いて机に突っ伏すと、溜め息が聞こえた。
「俺が通ってる大学に行きたいって言い出したのは君だろう? 諦めずに頑張れよ」
「なんとかなると思ったけど、現実問題学力が追い付かない……」
模試を受けても、点数が上がらない。判定もAには程遠い。
「秋の夜長と言うけれど、時間は大事にしないとさ。遅くまで起きて勉強してればいいってもんじゃないし。スケジュール立ては、大事だよ」
飴の袋を破る音がする。
先輩は飴を噛むタイプだろかと思いながら、私は上体を起こした。突っ伏したままでいたら、睡魔がやって来てしまう。
資料集に掲載されている一首をシャーペンの先で突っつき、先輩は歌を口にする。
「忍ぶれど 色に出にけり わが恋は 物や思ふと 人の問うまで、ってね」
「それは、どんな意味?」
「知りたかったら、自分で調べてごらん」
不敵に笑った先輩の手が私の頬に触れ、思わず緊張が走る。
「俺は、できないなりに最善を尽くす子が好きなんだ」
ゆっくりと近付いて来る先輩の顔に、私の心臓は早鐘を打つ。
思わずギュッと目を閉じると、冷たく固い物が唇に触れた。
「っなに?」
驚いて目を開ければ、悪戯が成功した子供のような笑みが眼前にある。
わずかに開いた口元から、コロリと飴玉が転がり込んだ。
グレープの味と共に、ふわりと香りが広がっていく。
「びっくりした?」
先輩がニコリと笑えば、瞬時に私の頬は熱を持つ。
当たり前じゃない! と言いたかったけれど、舌の上を転がる飴玉が邪魔をする。
勘違いした自分が恥ずかしい。
ふてくされてそっぽを向けば、またクスクスと笑い声が聞こえる。
「昔も今も、人の感性は同じだよ。上っ面だけ読まないで、ちゃーんと知ってあげないとね」
先輩は椅子から立ち上がり、カバンを肩に掛けた。
「もう帰っちゃうの?」
まだ勉強を頑張るから、もう少し一緒にいてほしい。
「今日は帰るよ。ありがたいことに、君のお蔭で合コンの誘いも断れたし。俺も課題を仕上げちゃわないと……」
見上げる私の頭に手を置き、先輩は微笑んだ。
「自分がやれるところまで挑戦してごらん。分からなかったら、また教えてあげるから」
とりあえず、と先輩は和歌を指差す。
「意味は宿題ね」
じゃあ、と言って先輩が部屋をあとにすると、私はすかさずスマートフォンで検索画面を表示した。
和歌を覚えている間に検索しなくては、忘れてしまっては意味がない。
詠んだのは、三十六歌仙の一人である平兼盛。
現代語訳を読んだ私は、またもや熱くなった頬を両手で挟む。
これは素直に、そういう意味で受け取っていいのだろうか。
口角が自然と上がり、がぜんやる気も出てきた。
「よし、頑張ろう」
だけど、腹ごなしをしてからだ。
母親に夜ご飯の催促をするため、熱を持ったままの顔を手の平で扇ぎながら、私は台所へ向かうのだった。
仲間内で書いているお題作品です。
今回のお題が『ながい夜』でした。