第九話
押し潰されそうな不安に苛まれ、苦しさのあまりか栞は閉じていた瞼を見開いた。
視界に映るのは、見慣れた寮の天井。
背中に感じる柔らかいベッドの感触に、自分が今まで寝ていたことを理解する。
もう思い出せないが、どうやら酷い悪夢を見ていたらしい。
呼吸が上手く整わないほどの哀情の残滓がまだ胸の中にあり、全身におびただしい量の汗をかいていた。
どうしてか体に疲れが残っているのを感じるが、不快感が強すぎて、とてもではないが二度寝をする気にはなれない。
ふと首だけを動かして部屋の壁に掛けてある時計を見ると、二つの針は思ったよりもずっと遅い時間を指し示していた。
いつもなら、もっと早い時間に目を覚まして久遠ヶ原学園へと行く支度をしているはずである。
今の時間から起きていては、どう足掻いても遅刻してしまうだろう。
栞は閉じてしまいそうに瞼を手で擦りながら、少し気怠げな声を上げた。
「比奈、どうして起こしてくれなかったんですか? これでは遅刻してしまいますよ」
とっくに走り込みを終えて、帰ってきているはずの友人へ向けた言葉。
それの返事が聞こえてこないことに、栞は首を傾げる。
ある程度大きな声を出したので、浴室以外の部屋にいるのなら相手に聞こえているはずだった。
(……シャワーでも浴びているんでしょうか?)
朝の走り込みを終えると、いつも比奈は浴室で汗を流す。
彼女がいつも通りのサイクルで動いているのなら、もしかすると時計の針の方がズレているのかもしれない。
そんなことを思いながら上半身を起こして……瞬間、肩に鋭い痛みを感じた。
思わず手を当てると、何か硬い感触のものを服の下に感じる。
「痛ぅ……あれ?」
視線をやると、乱れていた寝巻きの隙間から僅かに白い包帯が見えた。
それを切っ掛けに、栞は昨日の出来事を連鎖的に思い出していく。
自分に向けられた冷たい視線や最後に聞いた言葉まで、全ての記憶が鮮明に蘇った。
「あ……」
比奈は、もういない。
この部屋には、二度と帰って来ない。
理性がそう理解すると、急速に世界から現実感が薄れ、自分が未だ悪夢の中にいるかのような錯覚に陥ってしまう。
どこか呆けたような表情を浮かべながら、栞は視線を彷徨わせた。
洗濯を終え、室内で乾かしてある体操着。
机の上に転がっている、開かれたままのノートと筆記用具。
あまり可愛くは見えない、犬のぬいぐるみ。
自分のものでないマグカップや、床に落ちて放置された鞄。
ベッドの傍らに置かれた、二つの髪留め。
そういった比奈の私物を眺めて、彼女がいた名残を拾い集めていく内……いつの間にか、栞の頬を涙が伝っていた。
「比奈ぁ……」
呼び掛けても、当然のように返事はない。
今もっとも聞きたい人の声は、絶対に聞こえてはこない。
でも彼女の声を思いだそうとすると、昨日ぶつけられた辛辣な言葉ばかりが頭の中に浮かんだ。
――ずっと憎かった。
――気安く呼ばないで!
――私を見下してバカにしてたんでしょ?
――何で私じゃなくてお前に!
言葉の一つ一つが深く胸に刺さり、後悔と自責の念ばかりが頭を埋め尽くしていく。
胸が実際に痛く感じるほどの激しい寂寥感に襲われ、口から止め処ない嗚咽が漏れた。
「一人にしないで……一人にしないでよぉ……」
心は簡単に折れて、ただひたすらに湧き上がる感情の責め苦に打ちのめされ続ける。
涙を絞り上げるように疼く目尻を手で押さえ、いつしか栞は子供のように泣き喚いていた。
一人では広すぎる部屋の中で、虚しく栞の声だけがこだまする。
そうして時間感覚さえをも忘れて泣き続けていると……突然、部屋の扉がけたたましい音を立てて開いた。
続けて、栞のよく知る声が響く。
「学園に来ないから、様子を見に来てみれば……貴方はまだウジウジしてますの!」
「ふえ?」
見ると、どこか怒ったような表情を浮かべたフロリーヌが、玄関で仁王立ちしていた。
そして栞と目が合うなり、ズカズカと無遠慮に部屋の中へと入ってくる。
「泣いてる暇なんてありませんわ。比奈さんを助けたくありませんの?」
そう言いながら自分へと詰め寄ってきたフロリーヌに、栞はどうにか声を出して言葉を紡いだ。
「で、でも……一度、使徒になってしまったら……もう――」
絶対に人間には戻れない。
そう言おうとした栞の声を、フロリーヌは彼女の頬を両側から押さえることで潰した。
二つの手に頬を挟まれ、栞は戸惑ったように瞼を瞬かせる。
「非常識の塊のような貴方が、なに常識的なことを仰ってますの?」
どこか呆れた声を上げながらも、フロリーヌは相手の双眸を真っ直ぐに見据えて逸らすことをしない。
彼女の力強い意志の籠もった視線を浴びて、微かにだが寂寥感を溶かす熱い何かが栞の胸に湧き上がった。
「過去に前例がないなら、貴方が最初に為せばいい話ですわ。貴方の才能は、それだけの可能性を秘めていますのよ……それとも、諦めますの?」
聞かれ、栞は瞳を大きく揺らす。
脳裏に比奈の姿を思い描き、それが消えることを拒んで小さく首を横に振った。
「……愚問でしたわね。どうせ貴方は、例え本当に全く可能性が無かったとしても、諦められないはずですわ」
栞の双眸に浮かんだ反応を見て、フロリーヌはそう理解する。
悲しみから身動き出来なくなることはあっても、二人が生きている限り栞から彼女を断ち切ることはできない。
何らかの手段を使って無理矢理記憶を消さない限り、どこまでも比奈を影を追い続けるだろう。
絆というよりは、まるで呪いのような依存。
しかし皮肉にも、今はそれが崩れそうな彼女の唯一の支えになっていた。
「私も、協力しますわ。一緒に、比奈さんを取り戻しますのよ」
「……うん」
未だ、頬を流れる涙は止まったわけではない。
それでも、栞はフロリーヌの言葉にしっかりと頷いたのだった。