第八話
鈍すぎる。
視界を流れていく速度に、栞はどうしようもなく苛立った。
手に持っていた重い武器を【ヒヒイロカネ】と呼ばれる道具に収納して走っているが、それでも全然足りない。
思うように動いてくれない足に歯噛みし、簡単に悲鳴を上げる自分の肺に怒りを覚える。
気持ちばかりが逸って、遅い移動しか出来ない自分がもどかしすぎて、栞の目尻に涙が浮かんだ。
これならば、比奈のように走り込みぐらいはしておけば良かったと後悔する。
少しぐらい体力を付けた所で、自分が譲れなかったものは守れたのだ。
大切な親友を失うかもしれないという恐怖に駆られて、がむしゃらに足を動かし続ける。
やがて焦りのあまり、栞は足運びを乱して前へとつんのめった。
完全に体勢を崩してしまい、走っていた勢いのまま顔が地面へと向かう。
躓いたことを自覚した栞はすぐに覚悟を決め、痛みを堪えるべく目を瞑り……しかし、予想していた衝撃はいつまでも待っても来なかった。
代わりに、自分の服の襟が何者かに掴まれて持ち上げられる。
「ああもう、鈍くせーな!」
その聞き覚えのある声に目を開けると、栞の体が軽々と持ち上げられた。
「カンヘル!? お願いします、離して――」
「比奈を助けに行くんだろ? 俺が担いで行った方が速い」
そう言ってカンヘルは、戸惑う主を肩に担いで走り出す。
てっきり連れ戻されると思った栞は、少し意外そうな声を上げた。
「止めないのですか?」
「……俺様がいれば、お前ぐらい守れるさ」
本当は連れ戻しに来たのだが、今にも泣きそうになっている栞を見て気が変わった……とは、なんとなく言えずに顔を背ける。
どうしてか気恥ずかしくなって、カンヘルは誤魔化すように背後を指差した。
「あいつは止める気満々のようだけどな」
言われて何気なくカンヘルが指した方向に視線を向けると、栞の目に怒りの形相を浮かべて猛追してくるフロリーヌの姿が映る。
髪が逆風で乱れているせいか、今の彼女は妙に迫力があるように見えた。
「危険ですから、そこで止まりなさいっ!」
凄まじい勢いを保ったまま、声を張り上げて栞に呼び掛けてくる。
そんな彼女の言葉に、栞は頭を振った。
「フロリンは、先に撤退していて下さい!」
「何ふざけたこと言ってますの! というかフロリン言うなぁ!」
叫びながら、フロリーヌはどこまでも栞達を追ってくる。
そうしている内に、カンヘルは進行方向に二つの人影を視界に捉えた。
「栞、いたぞ! 比奈だ!」
「――っ!」
カンヘルの言葉に反応して、栞は彼の視線を追って目を凝らした。
桁違いな【アウル】のお陰で並の撃退士を越える視力を持っている栞だが、それでもカンヘルよりは劣る。
最初は小さな人影にしか見えなかったが、徐々に近づいて来るにつれて、栞にも比奈の姿がはっきりと見えるようになった。
「比奈ぁ!」
「て、天使が!?」
どうやら無事そうな親友の姿を見て栞が安堵の息をつき、その比奈の隣にいた存在にフロリーヌが悲鳴のような声を上げる。
栞達の声が聞こえたのか、比奈は天使に背を向けて此方へと歩き始めた。
彼女の背を天使が何もせずに見送ったことに、カンヘルとフロリーヌが違和感を覚えて立ち止まる。
だが比奈の無事を喜ぶあまり、栞は彼女の異変に気が付かなかった。
「あ、おい!」
足を止めたカンヘルに業を煮やしたのか、栞は彼の肩から飛び降りて、比奈の元へと駆け寄る。
もしも栞が冷静であれば、彼女もすぐに比奈の異常性に気が付いただろう。
彼女らしくない無表情と冷たい視線。
服はボロボロになっているというのに、傷一つ無い肌。
敵である天使に背を向けて、悠々と歩んでくる行為。
彼女の纏う雰囲気が激変し、さらには頭にあった髪留めが両方とも外れて髪型が変わっているせいか、もはやフロリーヌやカンヘルには別人のように見えていた。
そんな他人でも分かる変化さえ見えず、栞は比奈の前へと立って声を掛ける。
「比奈、無事で良かったです!」
「そう」
安心からか少し涙声になっている栞の言葉に、比奈は素っ気なく応えた。
そして無造作に、栞の頭上へと剣を振り上げる。
彼女が何をしているのか理解できず、栞は呆けた表情でその剣を見つめた。
「栞さん! 離れてっ!」
「え?」
フロリーヌによる警告の声が響いた直後、比奈が手にしている剣が振り下ろされる。
追いついたカンヘルが間一髪で栞の服を後ろに引っ張ったものの、比奈の剣は標的の肩を掠めた。
小さくない裂傷を負い、尻餅をついた栞の肩から激痛と共に血が溢れ出る。
彼女と感覚を共有しているカンヘルも同様の痛みを感じ取り、二人揃って顔を顰めることになった。
「……どう、して?」
痛みから上手く口を動かせず、喘ぐような声を漏らす。
その声を無視して比奈が剣を構えると、彼女に向かって一瞬で距離を詰めてきたフロリーヌがランスを突き込んだ。
並の撃退士では目視も叶わない神速の一撃に……しかし比奈は、あっさりとそれを捌いてみせる。
本来の彼女の力量では絶対に無理だったはずの対応を見て、フロリーヌは自らの推測に確信を得た。
「その力……やはり、使徒に!?」
信じられないといった声を上げながらも、小さく後ろに飛んで距離を取る。
そうして再度、比奈を見据えて槍を構えるも、彼女の目はフロリーヌを見てはいなかった。
フロリーヌに対して警戒はしているものの、その視線は愕然とした面持ちを浮かべている栞へと向けられている。
そして、比奈はいつもと変わらない声色で彼女に話し掛けた。
「私ね、ずっと羨ましかったんだよ?」
何の感情も窺えない無表情で、ただ口を動かす比奈。
その彼女の双眸を見て、栞は思わず身を竦ませた。
「羨ましくて、憧れて、悔しくて、そして――」
ピクリとも崩れない表情は、一見比奈が何も感じていないように見える。
だが、彼女の双眸の奥には……
「憎かった」
確かな激情があったのだ。
「比奈……」
「――っ、気安く呼ばないでっ!」
栞の呼び掛けに、比奈が癇癪を起こして捲し立てる。
長い時間をかけて、ずっと胸の奥で溜め込んでいたものが決壊し、彼女の口から容赦なく漏れ出した。
「私を見下してバカにしてたんでしょ? 本当ならとっくにAクラスに入ってたろうに、わざと試験で手を抜いて……私がやっとの思いでクラスを上げたら、見せつけるように自分もクラスを上げて。必死になる私を隣で嘲笑って、優越感を得たかったんでしょ?」
大切な人から負の感情をぶつけられ、肩の痛みも忘れて震える。
比奈から聞かされる辛辣な言葉に、栞はまるで体がバラバラになったかと思うほどの衝撃を受けた。
「違う……私は、ただ……一緒に……」
比奈に拒絶される恐怖に喉が痙攣し、上手く言葉を繋ぐことができない。
誤解だと伝えたいのに、目から涙だけが溢れ、肝心の声は口から出てくれなかった。
「何でお前なんかに……私じゃなくて、お前に! 何で私じゃなくてお前に!」
比奈は声を荒らげながら栞に斬り掛かるも、その攻撃はカンヘルの爪によって防がれる。
いつものカンヘルならば使徒になった比奈相手でも勝てる自信があるが、今の彼は栞の意志に引っ張られて攻撃を仕掛けられなくなっていた。
故に反撃することはできず、カンヘルの爪と比奈の剣がギリギリと押し合う形になる。
「ごめん……なさい」
「謝るぐらいなら私に殺されろ!」
そう叫ぶ比奈に、フロリーヌが横合いから攻撃を仕掛ける。
彼女の突きを後ろに跳ぶことでやり過ごすと、離れた場所で傍観していた天使が、いつの間にか比奈のすぐ背後にまで移動していた。
天使の碧眼が、栞を庇うように立つカンヘルへと向けられる。
その彼の正体を看破し、天使は不快そうに眉を顰めた。
「黒塚比奈、帰るぞ。少々、厄介そうなのがいる」
「……っ、はい」
比奈は不服そうに天使を睨むも、使徒であるが故に命令には逆らえず、頷かされる。
天使が自らの翼で比奈を包むようにして隠すと、彼らから眩いほどの白く輝く光が放たれた。
それが【ゲート】へと帰還する前兆だと知識で知っていた栞は、慌てて立ち上がろうとして失敗し、体を前へと倒れ込ませる。
地面に伏した状態で手を伸ばすも、当然比奈には届かなかった。
「ま、待っ……」
栞の言葉が発せられる前に、二人の姿が光の粒子をまき散らして消える。
こうして、栞の撃退士としての初任務は幕を閉じたのだった。