第七話
「あはは、……これは死んだかな?」
コンクリートの瓦礫の山の上に立ち、比奈は疲労の濃い声でそうぼやいた。
辺りを包む鉄の錆びたような臭いに吐き気を催しそうになるも、肺がより多くの酸素を要求してくるせいで、呼吸を抑えることができない。
彼女の周囲には至る所に撃退士達の骸が転がり、流れ出る血によって地面を赤く染め上げていた。
目の届く所にある建築物も全て崩れており、既にこの場で立って息をしている人間は比奈だけである。
他の者は、例外なく絶命していた。
誰もが比奈よりも強い撃退士であったのに、誰もがあっさりと死んでいったのだ。
最弱であった比奈が生き残っているのは、ある意味で奇跡である。
そして一人残った比奈も満身創痍であり、どうにか立ってているだけの状態であった。
今の状態では、次に攻撃された時に彼女は為す術もなく死ぬだろう。
まして彼女が相対している敵は、万全の状態の比奈が百人いても勝てるかどうか分からないような相手なのだ。
まともに歩けるかどうかも怪しい今の比奈では、万が一にも勝ちを拾えることはないと容易に判断できる。
誰が見ても、もう助かる見込みが無い状況。
比奈本人も、既に自分が助かるとは僅かにも考えていなかった。
戦いの敗北を悟り、死を覚悟するが……それでも彼女は剣を手放さず、決して俯くこともなかった。
力では負けたが、心では絶対に負けないといった意志を込めて、目の前の敵を鋭く睨み据える。
そんな比奈の瞳には、背中に純白の翼を生やした碧眼の偉丈夫の姿が映っていた。
精緻な人形のように整った顔立ちに、光を反射して輝く銀髪も相俟ってか、天使の名に恥じない神々しい印象を受ける男だ。
並の精神力ならば思わずその場で跪いてしまいそうな威圧感を放っており、比奈は目の前の天使がかなり上位の存在でることを悟る。
初めての実戦でいきなり大物と遭遇してしまった自分の運の無さに、比奈は思わず自嘲の笑みを浮かべた。
そんな比奈の反応を見てか、天使が不思議そうに小首を傾げる。
今すぐにでも、その右手に持つ剣を軽く振るうだけで比奈を殺せるだろうに、天使は比奈の顔を眺めるだけで動こうとしなかった。
比奈のほうから仕掛けようにも、彼女に攻撃を行えるだけの余力はない。
しばらく無言の対峙が続き、比奈が内心で違和感を覚え始めた頃になって、ようやく天使が小さく唇を動かした。
「……面白い」
「……?」
そのぽつりと呟かれた言葉がうまく聞き取れず、比奈が首を傾げる。
すると天使は、今度は先程よりも大きな声で言葉を続けた。
「君に興味を持ったのだ。その類い希な意志に強さ、不屈の魂……実に魅力的で私の好みだ」
「……それはどうも」
まるで口説き文句のような内容に、比奈は眉を顰める。
美形と言って差し支えない男にそう言われるのは光栄なのかもしれないが、相手が人間でないせいか全然嬉しく思わない。
敵として対峙している今のような状況では、むしろ侮られているように感じて不快でもあった。
「だが、高潔ではない。君の精神からは天界の戦士と遜色ない力強さを感じるのに、奇妙な濁りがある。その歪さが、とても面白い」
「……」
返す言葉が見つからず、戸惑いながら沈黙してしまう。
比奈には、天使の言っていることがよく理解できなかった。
しかしどうしてか、胸の内に得体の知れない不安を感じてしまう。
自分を見つめ続ける天使の双眸が、まるで自らの内面まで見透かしているかのように思え、剣を持つ手が僅かに震えた。
「私の名は、ザドキエル。君の名前を、私に教えてくれないか?」
「……黒塚比奈」
律儀に応じた比奈に、ザドキエルと名乗った天使は満足そうに頷く。
そして、彼女に向かって自らの右手を差し出した。
「では黒塚比奈よ、私の使徒になれ」
「お断りします」
考えるまでもなく、即答する。
いや、正確には考えて迷ってしまう前に答えた。
使徒とは、天使から様々な加護を授かる代わりに、天界の手駒として働く人間のことだ。
主の命令には絶対服従するよう天使としての機構に巻き込まれるが、自我と記憶は消されずにある程度の自由はあるため、人間の中でも加護欲しさに立候補する者もいたりする。
命令に逆らわない手駒になるのだから、滅多に殺されるようなことはない。
つまり使徒になれば、比奈は生き延びられるのである。
しかし彼女は、人類の敵に回ることだけは避けたかった。
人類の敵になるということは、自分の大切な人達をも殺す側に回るということなのだ。
比奈が使徒になってしまえば、いずれ顔見知りの撃退士や民間人をも手に掛けてしまうかもしれない。
それだけは、絶対に嫌だった。
だがそれでも、まだ年若い比奈に死への恐怖がない訳もなく……その中で生き延びられるかもしれない可能性を提示されれば、どうしても誘惑されてしまう。
「絶対に、お前らの手先になんかならないもんね!」
誘いに乗ってしまいそうになる心への叱咤を兼ねて、そう宣言した。
虚勢で不敵な笑みを浮かべて見せる比奈に、しかし天使は首を横に振る。
「いいや、君は自分から望んで使徒になるのだ」
そのザドキエルの言葉に誇りを傷つけられた気がして、比奈の胸に怒りが湧き上がった。
「何を根拠に――」
「根拠は君の心だ。今からそれを、証明してあげよう」
「――っ!」
ザドキエルが差し出していた右手がさらに伸び、比奈の頭を掴んだ。
額に感じるひやりとした冷たい感触に、怖気が走る。
本能で危険を察知するも、今の比奈では彼の腕を振り払うこともできず、燻っていた不安が一気に大きく膨れあがった。
恐怖から思わず叫びだしてしまいそうになる比奈に、ザドキエルが優しく宥めるような声を掛ける。
「心配することはない。君が自分自身に対して素直になれるよう、君の感情から【親愛】を抜くだけだ」
比奈がザドキエルの言葉を理解する前に、それは始まった。
頭を掴んだ手の平から、体温だけでなく別の何かを吸われていく感覚が彼女を襲う。
中に溜まっていた大切な何かが急速に減っていき、筆舌に尽くしがたい喪失感を感じて、比奈は絶叫のような悲鳴を上げた。
剣を手放して相手の腕を掴み、自分の頭からザドキエルの手を引き剥がそうと藻掻く。
だが並の撃退士をも超越した天使の腕力に、比奈の力が通じるはずもなく……彼女の双眸から涙が溢れ出した。
だがそれでも、懇願の言葉だけは言うまいと唇を噛む。
比奈の心は、最後まで折れることは無かった。
しかし、ザドキエルの処置が終わる頃には、彼女の抱える何かが変質していた。
不屈の精神はそのままに、彼女の世界観が姿を変える。
培ってきた記憶はそのままに、今まで心の奥底に抑えてきたものが溢れ、比奈の中で荒れ狂った。
やがてザドキエルが手を離すと、比奈はその場に崩れ落ちる。
俯いた彼女の双眸に浮かぶ感情を読み取って、どうやら目論み通りの変化を遂げたらしいことを確信した。
「気分はどうだ?」
「……最悪だよ」
「それはよかった」
どこか楽しげな声を上げるザドキエルを、比奈は顔を上げて睨む。
視線に込められた感情は敵意であったが、先程までとは意味が変わっていた。
そんな比奈を、改めてザドキエルは勧誘する。
「私の使徒になれば、おそらく君の望みは全て叶うだろう……さて、どうする?」
再度、差し出される右手。
その手を、比奈は――