第二十二話
撃退士が戦いを生業とする以上、どうしても怪我人は多くなる。
だから久遠ヶ原の総合病院は、島の外部にあるものと比べて規模が大きい。
その広大な病院の片隅にある、入院患者が泊まっている個室の扉の前にて、栞は立ち竦んでいた。
目の前にあるボタンを押せば自動で横に開くようになっている白い扉の向こうには、つい最近になって面会が許されるようになった一人の患者がいる。
とある人物の癖が移ってしまったのか、自分がいつの間にか無意識の内に亜麻色の髪を手で弄っていたことに、栞は気が付いた。
髪の色は以前よりも少しだけ薄くなっているものの、今は天使との戦いの時のような白色にはなっていない。両目も赤味こそ濃くなったが、色は瞳孔の中に収まっていた。
どうやら光纏していない時は、元の人間らしい姿に戻るようである。
あのザドキエルとの戦いの後、どうにか窮地を乗りきった栞達は、詳しい事情を知らないはずの理人という先輩が尽力してくれたお陰もあって、黒塚比奈を取り押えて帰還することに成功していた。
代わりに長々と説教された上、キッチリと学園に命令違反を報告されて、栞達は停学になったが。
ザドキエルが滅びると、徐々にだが奪われていた感情が比奈に戻っていき、今は状態が落ち着いて当初の予定通りノエルの庇護下に入っている。
栞が立っている扉の向こうには、その比奈がいるはずだった。
あれだけ会いたいと思っていたのに、栞は部屋の中に入る事が出来ずにいる。
先に彼女と面会を果たしていた友人達に、もう大丈夫だと教えられてはいたが、どうしてか比奈と顔を合わせる勇気がなかなか出なかったのだ。
だがいつまでも会わずにいることもできず……栞は唾を一つ飲み込むと、思い切って扉を開いた。
「……栞ちゃん?」
「あ……」
ベッドの上で体を起こしている比奈の姿を見て、言葉にならない声が漏れる。
引き寄せられるように栞は彼女の下へ進んだが、二人とも言葉を出すことができず、しばらく音のない静かな時間が流れた。
自分と目を合わせようとしない比奈に、栞の胸の中で不安が膨らんでいく。
やがて、どれくらい時間が流れただろうか?
重苦しい空気の影響で永遠とも思えるような長い沈黙が、とうとう破られた。
「もう、会いに来てくれないと思ってた」
「……え?」
ようやく比奈の口から出てきた声に栞が首を傾げると、彼女は何かを堪えるようにして、掛け布団の上に置いていた手を強く握り込んだ。
「ザドキエルの使徒になっていた時のこと、全部覚えてるんだよ。栞ちゃんに酷いこと沢山言ったのも……斬りつけた時の感触も」
手の甲の上に、ぽつぽつと雫が落ちる。
震えた声で話を続けながら、いつしか比奈の頬に止め処なく涙が流れていた。
「嫌な気持ちがいっぱい湧き出てきて……でも自分のことだから分かっちゃうの。その気持ちが、嘘じゃなくて本当だって。誤魔化していただけで、心のどこかで思っていたことだったんだって」
「比奈……」
「友達にいっぱい悪いことをして……醜い自分を思い知らされて……アウルの力がほとんど無くなって撃退士にもなれなくなって……もう、頭の中ぐちゃぐちゃだよ」
「……」
俯いて泣き続けている彼女にどう声を掛けるべきか、栞は逡巡した。
言われたことを気にしていないと言えば嘘になる。比奈を醜いとは思っていないが、それを伝えても彼女の気持ちは簡単には覆らないだろう。
だから、こういう時に自分が一番言われて安心するであろう言葉を栞は選んだ。
「比奈、私は大丈夫です。私は、今も比奈のことが大好きですよ」
「栞ちゃん……」
嫌なところも呑み込んで、相手を好きでいられるから友達でいられる。
かつて、フロリーヌに教えてもらったことだ。
自分は、例え浴びせられた罵声が全て本音で、彼女が言葉通りに醜くても、比奈が好きだし友達でいる。
栞の言葉はまっすぐに比奈の心に届いて、彼女はさらに涙を溢れさせた。
頬を濡らし続けるものを何度も手で拭いながら、比奈は以前から気になっていたことを尋ねる。
「これから、栞ちゃんはどうするの?」
「それは……」
「撃退士、続けるんだよね?」
「……はい」
栞の力のことは既に学園にも伝わっており、これから彼女を取り巻く環境は激変していくだろう。恐らくは個人的な理由で、簡単に撃退士を辞めて退学できる立場ではなくなっていく。
久遠ヶ原学園から離れられないノエルとの約束もあり、栞は撃退士を続けるつもりでいた。
「私はもう、撃退士にはなれないけど……応援してる。私が、栞ちゃんのファン一号になるよ。だから学園を卒業して一人前の撃退士になれたら、まず最初にサインを頂戴ね」
かつて一緒に久遠ヶ原学園に向かう電車に乗った時に、栞が言ったものと似た言葉。
だが比奈が力を失ってしまった今、あの時のように一緒にとは言えない。
だからそれは、二人の決別を意味していた。
これからは、別々の道を歩むという宣言。
栞は言い知れない寂しさを感じて顔を俯かせたが、比奈の言葉には続きがあった。
「それでさ、私が超有名なアウルの研究者になったら、最初にサインをあげる」
「……え?」
栞が顔を上げると比奈は腕を伸ばして、彼女に握った手を添えた。
「テレビでもあったでしょ? 悪と戦う正義のヒーローの影には、彼らをサポートする天才科学者がいるんだよ。いっぱいいっぱい勉強して、私が栞ちゃんをサポートするの」
比奈は涙を流しながら、気丈に笑ってみせる。
それに釣られて、栞も笑う。
「そうですか。なら私は、その正義のヒーローになります。貧しい民間の人でも分け隔て無く守れる撃退士に」
誰もがあまり入りたがらない、薄給である国家所属の撃退士。
かつて比奈が目指した場所に行くと、栞が誓う。
「そしたら一緒に、悪い奴らを沢山やっつけましょう」
「うん……だから今は、お別れ」
これから分かれ道でも、未来にまた同じ道に帰ってくる約束をして、二人は笑い合った。
と、二人がせっかく厚い友情を確かめ合っているというのに、病室の扉が開いて雰囲気をぶち壊すような声が響いた。
「栞~、水とタオルを持ってきたぞ」
比奈の体を拭こうと思って自分が頼んでいたことだったが、タイミングが悪いカンヘルに栞は責めるような視線を向ける。
「ええっと……何でメイド服?」
比奈は彼の服装を見て、思わず頬を引き攣らせた。
「……放って置いてくれ」
ノエルが科したバツゲームの真っ最中であるカンヘルは、苦渋に顔を歪めながら持ってきたタオルを水で濡らすと、比奈の前に立つ。
「じゃあ、拭いてやるから脱げ」
カンヘルがそう言い終わると同時に、彼の顔に栞の手の平が打ち付けられた。
パンッと小気味の良い音が響き、頬に赤い手形が綺麗に付く。
「いきなり何しやがんだっ!」
「何さりげなくセクハラみたいなことしてるんですか。私が拭きます、さっさと女装趣味の変態は出て行って下さい」
「あ? 何を今さら――」
「ごちゃごちゃ言ってないで、はやく行って下さい」
カンヘルが何かを言いかけるも、召喚獣であるが故に強制力が働いて、強引に退室させられてしまう。
一連の栞が見せた反応に、比奈は驚愕の表情のまま固まっていた。
「……どうかしましたか?」
「栞ちゃん、もしかして自分じゃ気が付いてないの?」
「? 何をですか?」
人間の女性は、本能的にカンヘルのことを異性とは見られない。
魂の格が高すぎるのだとか、人に使役されて制御下にある影響だとか、様々な仮説はあったものの、何が正しいのか誰も分かっていなかった。
しかし――
魂が変質してしまった影響なのか。
それとも、何か心境の変化があったのか。
かつてカンヘルの近くで比奈が体操着を脱ぎ散らかしても何も言わなかった栞が、今は明確に彼を異性として扱っている。
このことを比奈は栞に教えようとして……ふと途中で思い止まり、首を横に振った。
「……ううん、何でもない」
「??」
友達を取られてしまったかのような気がして、面白くなかったのだ。
これからも傍にいるであろうカンヘルが羨ましくて――
「どうにかして学園に残れないかなぁ」
不思議そうに首を傾げる栞の顔はやっぱりどうしても愛おしくて、比奈は大切な友達と一緒にいる方法はないか、長らく悩み続けたのだった。




