第二十一話
肌を刺すような寒さの中、栞達は天魔の襲来によってほとんど廃墟となってしまった街並みの中を走っていた。
辺りに強い風が吹き始め、空から降ってくる雪の量が増えて視界をどんどん白く染め上げていく。
普段なら、室内の窓から外の様子を窺った瞬間に外出する気が失せるような悪天候の中、四つの人影は足を止めることなく前へと進んでいた。
「視界が悪くなってきましたわね……栞さん、あまり先行しすぎないようにお願いしますの」
気がせいているのか、少し前に出すぎている彼女にフロリーヌが呼び掛ける。
「すいません、気を付けます」
意外にも素直に謝って走る速度を緩めた栞だったが、すぐにまた元の速さに戻っていく。
恐らくは無意識にやってしまっているのだろう。フロリーヌは小さく溜息をついた後、彼女を見失わないように自らもペースを上げた。
彼女に併走していた聡人も、慌てて追随する。
栞達が、今回の任務において前日の夜から企んでいたこと。
それは他の撃退士達よりもはやく比奈と接触し、力尽くで捕縛して久遠ヶ原学園へと連行するという単純なものだった。
強力な天使が近くに存在している可能性もある中、この少数で行動するのは普通の撃退士ならばあまりに危険である。
いくら成績上位者で固めた面子であっても、誰もが無謀だと考えるだろう。
だがそんな常識は、栞の召喚獣によって覆されていた。
普段から訓練を欠かさないフロリーヌや聡人でさえ、少し息が乱れそうになるペースだというのに、先行する栞の隣にいる存在は平然とした顔をしている。
恐らくカンヘルにとって彼女達の動きは、まだまだ鈍いのだろう。
天使や悪魔すら単独で屠れるほどの力を秘めた彼がいるからこそ、この無茶な企みが成立していた。
そもそも彼が敗れるような戦力と遭遇した場合、例え撃退士の部隊の中に残っていたとしても、あっさり全滅してしまう可能性が高い。
カンヘルという竜族の男は、それ程に反則的な戦闘能力を誇っていた。
そんな彼が、ふと何かに気が付いて後ろを振り返る。
「おい、誰か追ってきてるぞ」
足を止めないままに栞達が後ろを振り返ると、この任務に就いた際に顔を合わせていた天上院理人という男が、猛烈な勢いで追跡してくる姿が見えた。
「こ、高等部の先輩だよ! このままだと追いつかれる」
理人の顔は怒りのせいか壮絶に歪められており、聡人が悲鳴のような声を上げる。
栞達もかなりの速度で移動しているはずだが、向こうはそれを明らかに上回っていた。
流石は上級生と言うべきか、基礎体力に関しては完全に三人より彼が上である。
「これは厄介ですね……」
栞は背後に顔を向けながら、頭を悩ませた。
カンヘルが本気で走れば簡単に引き離せるだろうが、いくら彼でも三人を担いで走るのは無理がある。
誰かが残って足止めするしかない。
三人は同時にそう思い至って、栞とフロリーヌは聡人へ目を向けた。
二人の視線を受けた彼が、悲愴な表情を浮かべる。
短い時間で決意を固め、聡人が立ち止まろうとした所で……
「久しぶりだね、栞ちゃん」
唐突に横合いから栞に刃が振り下ろされ、咄嗟にカンヘルが彼女を突き飛ばした。
一瞬前まで栞の頭部があった場所を、アウルを纏った片手半剣が通過する。
地面を転がりながらも、声を聞いた時点で相手が誰なのかを察していた栞は、その名を口にした。
「比奈っ!」
別れた時と全く変わっていない姿を視界の中に認めて、すぐに立ち上がる。
と同時に、少し距離が空いてしまっていた栞とカンヘル達の間を遮るように、光が走った。
地面から天に向かって青色の半透明な膜が立ち上り、高さや横幅が人間の視認距離を越えるほどの巨大な壁が出現する。
使徒の接近に反応できなかったことや、目の前に張られた大規模で強力な結界が指し示す意味を悟って、カンヘルが忌々しそうに舌打ちをした。
「しまった、待ち伏せされたかっ!」
「ど、どういうことですの?」
「罠だったってことだよ!」
カンヘルの言葉が正しいことを証明するかのように、栞の前方に一人の天使……ザドキエルが姿を現わした。
今もしんしんと降り続ける雪を含んだ風によって銀髪を揺らしながら、かの存在は形の良い唇を愉悦に歪ませる。
「相手が取るに足りない人間だとはいえ、こうも上手くいくとはな。君はもっと、自分がどれだけ有名なのかを自覚するべきだ」
天界を相手取って大いに暴れ回ったカンヘルの逸話は、人間にとっては歴史に埋もれて忘却してしまうほどに昔の話でも、寿命が長い天使達にとってはそれほど古い話では無かった。
いくら天使であるザドキエルといえども、カンヘルを直接相手取るのは難しい。
だが彼を滅するのではなく、人間界から追い出すだけであれば、召喚している者を消してしまえばいい話であり――
「狙いは栞か……」
「ご名答」
栞もいる結界の向こう側で、ザドキエルが軽く手を叩く。
「これは……一体何がどうなって?」
フロリーヌ達に追いついた理人がザドキエルと使徒の姿を見て、続けて自分達を包囲して襲いかかってきた無数の【サーバント】達を見回した。
予め、ザドキエルが罠と平行して伏せていたのだろう。
唐突に姿を現わした敵の大群に、既に【ヒヒイロカネ】から武器を取り出して応戦していたフロリーヌと聡人も、あまりの窮地に顔色を青くしていた。
「この程度の結界を、俺様が破れねぇと思ったのか!」
そう叫びながら爪を伸ばし、カンヘルは直ぐさま結界に攻撃を加えようとするも……彼の前に、使徒である比奈が立ちはだかる。
栞の思念に引っ張られて攻撃の威力を弱められたカンヘルは、彼女の片手半剣によって爪を受け止められてしまった。
その隙に、比奈だけでなく【サーバント】達もカンヘルへの攻撃に参加してくる。
こうなると比奈をどうにかするしかないが、【サーバント】を屠りつつ生きたまま彼女を取り押さえるのは、それなりに手間であり……カンヘルはもう一度、今度は焦りを含んだ舌打ちをした。
「くそっ、雑魚が! 鬱陶しいっ!」
ザドキエルに殺される前に栞の傍へ行くには、比奈や【サーバント】ごと結界を切り裂くしかないといった考えが頭を掠めるも、栞の思念が強くそれを拒絶した。
「栞、邪魔すんな! このままだと、お前が死ぬぞ!?」
カンヘルがそう叫ぶも、栞は首を横に振って【ヒヒイロカネ】から自らの武器を取り出す。
自らの命に危険が迫っても、まだ黒塚比奈を見捨てようとしない栞を見て……ザドキエルは、不快そうに眉を顰めた。
「決して友人を見捨てない姿……たしかに外面だけを見れば美しい構図ではある。だがお前の心は高潔でもなければ、力強くもない。ただ痛みを畏れて必死に藻掻いているだけだ」
予め使徒の比奈から引き出していた情報により彼女の傾向を知って、ザドキエルは罠の参考にすると共に少しばかり期待していたのだ。
だが彼の目には、栞の心はそこらへんの脆弱な人間と変わらないものにしか見えなかった。
「黒塚比奈と比べ、あまりにも弱く見所もない……何故お前のような者が、彼女の友人だったのだ?」
心底不思議そうに問い掛けてくるザドキエルを無視して、栞はハンマーに膨大なアウルを込めて結界に打ち付けた。
辺りに衝撃波がまき散らされるも、青く透き通った壁には亀裂一つ入らない。
「無駄だ。お前が人間にしては大きなアウルを持っていることも知っている。だから、特別強い結界を用意したのだ。その程度の攻撃では絶対に破れん」
忠告を無視して、繰り返し栞はハンマーを結界に打ち付けた。
何度も何度も結界に攻撃を加えて無駄な抵抗を続ける彼女の姿に、ザドキエルは不快さを通り越して怒りを滲ませた表情を浮かべる。
「もういい、目障りだ。醜い人間め」
アウルの光で剣を形成し、もはやザドキエルにとって塵以下にしか見えていない相手に向かって振り上げる。
だが彼にとって濁っているようにしか見えていなかった彼女の心に、ふと一筋の頼りない光を見つけて手を止めた。
ほんの僅かに仕留めるのを先延ばしにしたことが自分の運命を決定付けてしまったことも知らず、ザドキエルは首を傾げる。
そして、すぐに気が付いた。
「これは……アウルが増えている?」
結界にハンマーを打ち付ける度に、栞のアウルが量を増やしていく。
やがてアウルが増加する幅も加速度的に広がり始め、総量が恐ろしい速さで上昇していった。
彼女の周囲の空間が、信じられない大きさのアウルの光で埋め尽くされる。
あまりのことにザドキエルはしばしの間呆然としていたが、急激に膨れあがった危機感から我に返り、慌てて光の剣で攻撃した。
だが彼の剣は、振り返り様に迎撃してきた栞のハンマーによって簡単に打ち砕かれてしまう。
自分の速度に易々とついてきたことや、剣を破壊されたことに驚く暇もなく、次の瞬間に起こった栞の変化に、ザドキエルは再び目を見張って戦慄した。
かつては黒かった亜麻色の髪がさらに色を失い、白色に。瞳から色が漏れ出したかのようにして目の全てが真っ赤に染まり、纏っていたアウルの色もそれに合わせて同じ色に変化する。
目や唇以外の色が失われていき、肌も人間味のない石灰のような色になっていた。
彼女の存在感に気圧され、ザドキエルはよろよろと後退る。
魂が放つ光の強さや色、大きさを見る能力があるが故に、相手の存在の格が天使や悪魔以上のものに昇華したことを察知したのだ。
濁りや弱々しさは人間のそれと同じままに、ただひたすら巨大になっている。
かつて人類は、天界と魔界からの脅威に晒されたことでアウルに目覚める者が頻出した。
これは種の絶滅の危機から、人間が見せた明確な進化だろう。しかし人類はそれでも強大な異世界の存在達に対抗しきれなかった。
そして天界と魔界が、互いの陣営を警戒するあまり緩やかな侵略を続けている内に……やがて呼び込んでしまったのだ。追い詰められた人類の、二度目の進化を。
恐らく今の自分が目にしているものはソレなのだと、ザドキエルは理解した。
進化した人間の、最初の一人目が彼女だったのだ。
このまま人類を放置しておけば、他にも次々と彼女と同じように戦えば戦うほどアウルを増やしていく存在が生まれるだろう。
人間が、自分達と同じ……いや、それ以上の次元にのし上がろうとしている。
この恐るべき事実は、何としても天界に伝えなければならない。
ザドキエルはそう考えたものの、栞が信じられないほど凄まじいアウルをハンマーに込め始めたのを見て、無理であることを悟った。
あまりに膨大すぎるアウルに反応して、V兵器と呼ばれる特殊な金属のハンマーの質量が急激に膨れあがっていく。
やがて武器を持つ彼女が小さく見えるほどに巨大化したハンマーを眺めて、ザドキエルは頬を引き攣らせて呟いた。
「その外見と魂、内包するアウル。自覚はあるか? もはやお前は、人間とは呼べない……化け物め」
「かもしれませんね……でも、カンヘルは傍に居てくれると言いました」
結局、一人では踏み出せなかった領域。
誰かに繋がりを保障してもらって、背中を押してもらって尚、窮地に陥るまで前には進めなかった。
そんな自分の弱さを恥じつつ、栞は巨大になったハンマーを野球に使うバットのように構える。
「……ところで、汚いだの醜いだの、人のことを散々馬鹿にしてくれましたね。本当のことかもしれませんが、滅茶苦茶傷つきました」
「ま、待て」
思わず制止の声を上げた相手に構わず、栞は全力でハンマーを振る。
ザドキエルですら反応できない猛烈な速度で、狙った相手をハンマーの巨大な質量に巻き込み、そのまま回転して張ってあった結界に叩き付けた。
「ぴぐぅ」っと、どこか間抜けな奇声と共にガラスの割れるような音が響き、結界が粉々に打ち砕かれる。
強力だった結界のせいで勢いが削がれ、ザドキエルの体はごろごろと転がり、丁度カンヘルの足先に辿り着いた。
生きてはいるが色々と台無しになってしまった彼の姿を見て、カンヘルはハンマーの真の恐ろしさを思い知らされる。
かつての色男に少しだけ同情しながらも、やってきた好機を逃す手はない。
カンヘルは爪を振り下ろし、こうして黒塚比奈を使徒にした天使は滅されたのである。




