第二十話
ふと目の前に、ひらひらと舞い下りてきた白い綿のような粒に気が付いて、栞は顔を上げた。
空の隅々までを灰色に染め上げた雲から剥がれ落ちるように、次々と降り注いでくるそれを見て、何気なく手の平を上に向ける。
彼女の手に幾つもの冷たい粒が落ち、温かい肌に触れてあっという間に融けていった。
「雪ですか……」
この冬に入ってから初めての雪に魅入られて空を見上げていると、期せずして此処から遠方に存在する【ゲート】も視界に入る。
天界からの侵襲を意味する、巨大な魔法陣。その下にいるであろう存在に思いを馳せて、栞は目を細めた。
此度の、ザドキエルと名乗った天使の討伐と【ゲート】の破壊を目的とした任務。
早朝から数多くの撃退士が、この地に集まって開始しようとしている作戦に、栞は参加していた。
彼女が配属された、高等部の天上院理人という名の男をリーダーとする部隊には、フロリーヌや聡人の姿もある。
天使を直接的に討伐することを目的としたこのチームには、希望者の中から成績上位者を優先的に選抜しており、Aクラスでも優秀な成績を収めていた三人もその中に入ったのだ。
既にカンヘルも召喚済みであり、今は栞の傍にいる。
【ゲート】を見つめ続けている彼女の瞳の中に、初任務の時に垣間見せた感情と同じものが宿っているのを悟って、カンヘルは栞以外の者には聞こえないよう声をひそませた。
「まーた、ビビってんのか? そんなに怖いなら俺様の後ろに隠れてたっていいんだぜ?」
「……」
「だがその代わり、帰ったらお前が俺様に味噌汁を振舞え。言って置くが俺様は味に厳しいからな? せいぜい精進しやがれよ」
「……」
「おい、聞いてんのか?」
挑発のつもりで話し掛けたのだが、栞は何も答えず黙り込んでしまう。
いつもの調子で辛辣な言葉を返してこなかった彼女に、カンヘルは少し考えた後、深々と溜息を付いた。
「何度も任務を受けてきたんだ。もう今さらだろうによ」
「……」
「……そんなに、自分のアウルが増えていくのが怖えーってのか?」
「……え?」
誰にも言っていなかったはずのことを言い当てられ、栞は驚いて大きく目を見開く。
この調子で戦い続ければ、いつか誰かに気取られるのではと思っていた。
「知っていたんですか? 一体、いつから……」
けれど、まだ誰にもばれてはいないと思っていたのに。
「あぁ? んなもん、一緒に戦ってきたんだから分かるっての。フロリーヌや聡人も、多分もう気が付いてるぞ。……まぁ、元から腑に落ちない点は沢山あったけど、お前が積極的に訓練や任務に参加するようになるまでは、俺様も単に比奈に遠慮してるだけだと思ってたんだけどな」
呆れた声でそう言うカンヘルに、栞は顔を俯かせた。
彼のフロリーヌや聡人も既に気が付いているという言葉に、体が震えそうになる。
心の奥深くに残っていたしこりが浮上し、彼女の口から弱音を吐き出させた。
「……怖いですよ」
自分が感じていた感情を、端的に言葉にする。
アウルの変化に初めて気が付いたのは、撃退士同士での模擬戦をした時だった。
目を閉じると思いだすのは、相手と直接打ち合う度に、自分の体がほんの少しずつ変わっていく感覚。
アウルの力を持つ存在に、自らのアウルを纏わせた武器で直接触れると、呼応するようにアウルが僅かに増える。
それはかつて、アウルに目覚めようとしている影響で髪や瞳の色が変化していった時に感じたものと、よく似ていたのだ。
「なんとなく分かるんです。このままアウルが増えていったら、何かが変わってしまうって……私は、それが怖かった」
子供の頃、自分に起こった体の変化のせいで、栞は周りにいた同年代の子供達の輪から外れてしまった。
親もほとんど家にはおらず、一人でいることが当たり前になってしまう程に、孤独になった。
子供同士の小さな社会の中で異端者になったことで、陰湿な攻撃を受けたこともある。
でも当時は、知らなかったが故に耐えられたのだ。
親しい者と過ごす時間の温かさを。
辛い時に傍にいてくれる存在がどれだけ救いになるかを。
一緒に遊んで、話して、笑い合うことがどれだけ楽しいかを。
だが栞は、黒塚比奈と出会ったことで知ってしまった。
さらに今はフロリーヌやノエル、聡人らに支えてもらったことで、より強く実感してしまっている。
「だから私は、また一人になってしまうのが嫌でした。誰も知らない何かになって、皆が離れていってしまうのが堪らなく怖かったのです」
アウルに目覚める時の前兆は、数多くの前例から瞳や髪の色が変わることだと知られている。
しかし栞が踏み込もうとしている領域は、全くの未知だ。次は、何が変わってしまうのか見当がつかない。
彼女の思い過ごしで、何も変わらないかもしれない。肌の色が変わるかもしれないし、もっと明確に体の作りが変わってしまうかもしれない。天魔の類に時折見られる、全くの異形になる可能性すらあるだろう。
変化の結果次第で、自分の環境がまた激変するかもしれないのだ。
「何度か、撃退士を辞めることも考えましたが……私は、それすらも怖くて嫌でした」
撃退士を辞めるということは、久遠ヶ原学園から退学するということだ。
それに自分が撃退士の中でもさらに異端であることを公にすれば、栞は今度こそ完全に人の輪から外れてしまうかもしれない。
退学を選んで同類が集まる久遠ヶ原学園から出て、外へ一人で帰るのが恐ろしかった。
せっかく同じ撃退士を目指す立場に立ったのに、比奈と離ればなれになるのも嫌だった。
かつての経験によって根深く残ってしまったトラウマのせいで、自らの異常を比奈にすら打ち明けられなかった。
だから栞は、隠すことにしたのだ。
アウルをこれ以上増やさないために、模擬戦などの訓練をサボるようになった。
誰かに何かを隠していることを悟られないために、不真面目で怠惰な人間に見えるよう苦心した。
アウルの属性から選べる【ディバインナイト】や【アストラルヴァンガード】などといった適正ジョブの中で【バハムートテイマー】になったのも、選択肢の中で唯一の後衛であり、主の代わりに戦う存在が今の自分にとって都合が良かったからだ。
その際には、なるべく敵のアウルに直接攻撃しなくても役に立ちそうな武器を選んでいる。
ひたすら栞は、比奈の傍にいることに必死で……みっともなく、彼女に縋り付き続けてきたのだ。
愚かなことに、上手くやればずっと隠し通せると当時の栞は思っていた。比奈の日記を読んだことである程度悟られていたことを知り、今はそんな勘違いはしていないが。
「どこまでも臆病者で、自分のことしか考えていなかったと思います。私の態度が周囲の人にどういう影響を与えていたか……本当は分かっていたはずなのに、見て見ない振りをしていました」
自分と比奈の違いは、心の強さにあったのだと栞は思っている。
かつて自分と同じように髪や瞳の色が変化していき、異端であるはずだった比奈は、それでも人の輪の中にいたのだ。
自分が本当はどうするべきなのか、既に彼女は体現してくれていたはずだったのに――
「……そして私は、今も自分が変われたとは思っていません」
フロリーヌや聡人に、まだ自分の異常を話せていないことが良い証拠だろう。
どんなに痛い目を見ても、人が成長できるとは限らないのだ。
誰かに手を引いてもらわないと動けなくなるし、繋いでくれた手を失うのが凄まじく恐ろしい。
理想の自分になろうとはしているが、目標には全然届いていなかった。
「一人でいると、ちょっとしたことですぐに立ち止まって、前に進めなくなってしまって……それで、みんなに甘えて。そんな事じゃ駄目だって分かっているのに、でもやっぱり怖くて……」
「……そうか」
独白に近い栞の話に、カンヘルは少し迷った後、気恥ずかしそうに頬を指で掻いた。
「ま、俺様はお前がどう変わろうと関係ねーけどな。例えお前に何があっても、あくまで俺様はお前の召喚獣だ」
「……」
顔を上げて目を向けてきた栞の表情を見て、カンヘルが思わず苦笑する。
「何があっても召喚する限りは傍にいるって言ってんだよ。んな親からはぐれた迷子みたいな顔すんな」
「……そんな顔してません」
そう言って顔を背けた彼女の頭に、カンヘルは何気なく手をおいた。
すると栞は、不満そうな声を上げる。
「なんですかこの手は?」
「慰めてやってんだよ。喜んで感謝しろ」
「何を勘違いしているのですか? 馬鹿にされているみたいで不快なだけです。気持ち悪いのでやめて下さい。貴方にそんなことされても全然嬉しくありません」
一息に文句を並べ立てた後、どうしてか相手が何も言い返してこないことが気になって、カンヘルに目を向けた。
彼がニヤニヤと笑みを浮かべている姿に、栞は眉をひそめる。
「……なんですか? その不愉快な顔は?」
いかにも不服そうにしている彼女に、カンヘルは勿体振るようにして理由を教えた。
「そうそう、一応言っておくとだな。……召喚主であるお前が本気で嫌がってるなら、俺様は動きが阻害されて手が出せないんだぜ?」
「――っ!」
栞は慌ててカンヘルの手から離れると、かすかに頬を赤く染めながら愉快そうに笑っている顔を睨みつける。
「最低です、もう知りません! 二度と私に触らないで下さいっ!」
命令とは裏腹に、使役している召喚獣の体には全く強制力が働かない。
そのことに、カンヘルは笑みの種類を苦笑に変えた。
人一倍寂しがりやで甘えたがりのくせに、天の邪鬼。
わざと憎まれ口をきいて、どこまで許されるのかで距離を測っているような、実に難儀な性格に育った少女。
こういう歪なところが、彼女の友人達も放っておけなかったのだろうと今さらながらにカンヘルは理解した。
笑みを収めようとしないカンヘルの様子に、尚も栞が何かを言い募ろうとするも、その前にフロリーヌの声が割り込んだ。
「また痴話喧嘩してますの?」
「痴話じゃないですっ! ただの喧嘩です!」
「え、ええ……」
普段以上の剣幕で捲し立てる栞に、フロリーヌが若干身を引いた。
興奮した相手が落ち着くのを待ってから、改めて彼女は言葉を続ける。
「もうすぐ作戦が始りますわ。……だから、そろそろ私達も動きますわよ」
フロリーヌの言葉に、栞は表情を引き締めて頷いた。
数人の撃退士が勝手に部隊を離れて先に進んで行ったという報告を聞いて、栗原ひなこは片手で頭を抱えた。
「あちゃー……いきなり命令違反者が多数とか、前途多難だね~」
「どうする? まだ人数的には問題ないぞ」
木田原斎が、暫定的なリーダーである天上院理人に顔を向けて指示を仰いだ。
彼女の問いは任務を続けるか中止するかの選択であり、命令に背いた者達を既に切り捨てたものである。
例え勝手に行動を起こした撃退士達が死んだとしても自業自得であるし、一部隊を率いる者としては正しい考えだろう。
だが理人はそれを理解しつつも、あえて無視した。
「……これは力尽くで連れ戻して説教と厳罰ですね。下級生の教育は教師だけでなく、先輩の役割でもありますから」
「くふふ、相変わらずのツンデレぶりだね」
「怒りますよ?」
理人に目を向けられ、ひなこは慌てて明後日の方角を向くと、わざとらしく口笛を吹く。
そんな彼女に溜息をついてから、斎に視線を移した。
「リーダーは斎さんが引き継いで下さい。もしもの時は、私のほうが生還率が高いでしょうから」
理人は【ディバインナイト】と呼ばれる防御性能に特化した力を持つ撃退士だ。
もし敵に襲われたとしても、防戦に徹すれば他の者よりも持ちこたえられる……という理由を付けて、彼は副リーダーであった斎に権限を渡して愚かな後輩達を追い掛けていく。
「ほんと、何だかんだで甘いというか、面倒見いいんだから」
理人の背中が見えなくなった所で、ひなこは人知れずぽつりと呟いたのだった。




