第十九話
空では満月が真上に昇り、光の消えた街を淡く照らし出す時間。
意外に明るい外の景色をカーテンによって遮り、深い暗闇を作りだしていた部屋の中央にて、ふと栞は目を見開いた。
季節柄、気温は肌寒いぐらいだというのに、いつまでも解れない緊張から首筋にうっすらと汗を張り付かせている。
不快感に負けて横になっていたベッドから体を起き上がらせると、胸にわだかまる強い不安を吐き出すようにして溜息を付いた。
そんな彼女の様子に気が付いたフロリーヌが、顔だけを向けて声を掛ける。
「……眠れませんの?」
「……」
力なく半分閉じた目を向けるだけで何も応えない栞に、フロリーヌは彼女の胸中を察して目を伏せた。
「そう、比奈さんのことが心配ですのね」
「……いや、私が眠れないのはその人形のせいですから」
そう言いながら栞は、すぐ隣で寝転んでいたフロリーヌから、彼女が抱いている柔らかそうな物体へと視線を移した。
人型等身大のぬいぐるみで、手足の先と頭部だけは人間ではなく牛を模した作りになっている代物だ。
体の部分が筋肉質なのと牛の頭が妙にリアルなせいで、作り物だというのに重苦しい威圧感を放っている。
しかも夜の暗闇のせいで、より面妖な雰囲気が際立っていた。
「何ですか、その不気味な人形は?」
「牛頭鬼ちゃんのことですの? 可愛いじゃありませんの」
「……かわ……いい?」
「お父様に少し似ていて、ホームシックになっていた時につい買ってしまいましたの」
それはフロリーヌが久遠ヶ原学園に来た最初の年から、ずっと大切にし続けてきた思い出深いぬいぐるみなのだそうだ。
昔に阿傍という撃退士が気紛れに数体だけ作った限定品で、今はもう手に入らないらしい。
といった余話を聞いていると突然、フロリーヌが牛頭鬼ちゃんと呼んだ人形がブルブルと振動し始めた。
牛の頭にある白い双眸が真っ赤に染まり、胴体から血管のようなものが次々と浮き出すと、最後に口の部分がパカリと開く。
『グモォォオオオオオオオオ』
「失礼、目覚ましが鳴る時間の設定を間違えていたようですわ」
「今のが目覚ましですか!? 夢に出そうなぐらい怖いんですがっ!」
栞が目を剥いてそう言うと、フロリーヌは憐れんだような表情で苦笑した。
「栞さんは、最近の流行に疎いですのね。これは、キモ可愛いと言って――」
「可愛い要素が全くないんですがっ! キモ可愛いんじゃなくて、キモさしかないですっ!」
栞の暴言に、憤慨したフロリーヌも起き上がって抗議する。
「まあ、失礼ですわっ! 牛頭鬼ちゃんを悪く言わないで下さいません!?」
先程の目覚ましの音に加えて二人が言い争いを始めたことで、フロリーヌとは栞を挟んで反対側で寝ていたノエルが、目を覚ましてしまった。
眠そうに右手で目を擦りながら、彼女ものそりと起き上がる。
「二人とも、うるさい。一体、何を騒いでいる?」
「……ノエルは、よくこの醜悪な人形が近くにいて寝られますね」
「だから失礼ですわ! この目とか蹄の部分の愛らしさが理解できませんの!?」
「……下らない」
また口喧嘩を再開させた二人を尻目に、ノエルは興味がなさそうに欠伸をしている。
そんな彼女に、栞はこの家について抱いていた疑問を質問するべく声を掛けた。
「そもそも部屋は沢山あるのに、何でベッドは一つしかないんですか?」
この豪勢な屋敷の中で、寝床は五人ぐらいが余裕で寝られそうな大きさの特注ベッド一つしか置いていないらしい。
だからこそ、今夜は三人同じベッドで寝る羽目になったのだ。
「……将来、聡人くんが泊まりに来た時に、一緒のベッドで寝られる口実になるから」
ノエルがそう答えると、何を想像したのかフロリーヌが急に顔を赤くした。
「ど、どどど同衾だなんて……は、破廉恥ですわ。まだお二人とも、お付き合いを始めたばかりですのに……いえ、愛に時間は関係ないということですの?」
耳年増ぶりを存分に発揮して一人悶えはじめたフロリーヌを眺めて、ノエルが不思議そうに首を傾げる。
「フロリーヌは、何をそこまで狼狽えている?」
「いえ、こればかりはフロリンの気持ちも分かります。ノエルがそこまで積極的だとは思いませんでした」
「そう?」
栞としてもノエルはもっと初心だと思っていたので、複雑な気分になった。
身近に感じていた人物が、知らない内に遥か遠くに行ってしまったように思えて、奇妙な焦りと寂しさを覚える。
フロリーヌだけでなく栞までソワソワし始めたのを見て、ノエルはますます頭の疑問符を増やした。
「好きな人との子供が欲しいと思うのは、変じゃないはず」
「それはそうかもしれませんが……」
「ま、まだ早いですわ! 子供の命を与るのですから、もっと責任の持てる歳になってから……あ、でも貴方には子を養う経済力は十分にありますわね」
そう言って頭を悩ませるフロリーヌに、ノエルは怪訝そうに眉をひそめる。
「きっと二人の方が変なだけ。このベッドを特注した時も聡人のことを話したら、親切な人が上手く子供を授かれると言われている特別な機能を付けてくれた。だから、繁殖は人間の社会でも推奨されているはず」
「特別な機能?」
「なんですのそれ?」
二人揃ってキョトンとした表情を浮かべると、ノエルはベッドの上部に寄って、そこに備え付けられていたスイッチを入れた。
すると三人が乗っていたベッドが、緩やかに回り始める。
「?? ……これって、何の意味があるんですか?」
「詳しい原理と効果までは知らない。けど、円を描いているから錬金術の類だと思う」
「か、回転ベッド……」
栞とノエルがベッドの機能の意味を理解できていない中、フロリーヌだけは耳の先まで真っ赤になった。
とそこで栞は、此までノエルの言葉のニュアンスにあった違和感に気が付く。
ふと頭に浮かんだ一つの疑惑を確かめるべく、彼女に尋ねてみた。
「ちなみにノエルは、人はどうやって子供を作るか知っていますか?」
「一緒のベッドに寄り添って寝て朝を迎えると、コウノトリという鳥人族から子供を授かる……と天界で教えて貰った」
「……聡人は、これからが大変そうですね」
「……?」
別に、天使と人間とで生殖方法に違いがあるわけではない。
ただ平均年齢が人間を遥かに越えている天界の基準では、生まれて十五年目であるノエルはまだまだ幼子に等しい年齢でしかなく、また天使達は穢れを嫌う傾向があるせいか、そういった知識からは遠ざけられて無縁だったのだ。
さらには、久遠ヶ原学園は未成年が大半を占めるせいで風俗関係の規制は外部よりも厳しく、結果ノエルの知識が歪に偏ってしまったようだった。
だが自分が事細かに教えるのも恥ずかしく、ひとまず栞はノエルの問題を聡人に丸投げすることに決めて、寝ることにした。
しかし安眠の為に解決しなくてはならない問題が残っている。
「とにかく、その変な人形を遠くにやって下さい。寝られません」
「私、抱き枕(牛頭鬼ちゃん)がないと寝られませんの」
ぬいぐるみを一際強く抱きしめて、フロリーヌがそう主張する。
彼女の態度に頑ななものを感じて、栞は溜息を付いて折れた。
「なら、私が離れます」
「……え?」
何やら、あからさまに寂しそうな目をしたフロリーヌを放置して、自分の枕を持った栞はベッドの端の方に寄って寝転ぶ。
そうして改めて瞼を閉じると……しばらくしてから、短い間隔でズリズリと何かが這い寄ってくる音が耳に聞こえてきた。
「……?」
気になって目を開けてみると、フロリーヌがぬいぐるみを抱いたまま、さり気なさを装って近づいてきている様子が視界に映る。
「いやだから、その気持ち悪い怪物を抱いたまま寄ってこない下さい!」
「き、気持ち悪いって……いくら何でも酷いですわ!」
またフロリーヌとの口論が始まり、どんどん時間だけが過ぎていく。
こうして栞は、余計なことを考えて塞ぎ込む暇もなく、次の日の朝を迎えたのだった。




