第十八話
立ち上る湯気によってうっすらと視界が白く染まり、湿度の高い暖まった空気に満たされた空間。
ヒノキと呼ばれる木材で構成された、一般家庭では考えられないほど広い浴室で、湯船に浸かったカンヘルは心地よさそうに目を細めた。
「くは~、この風呂ってやつは本当に良いな。人間も中々やるじゃねーか」
木目の美しさや、十人以上は入れそうな開放感とゆとりのある広さ。清涼感を損なわない落ち着いた内装や絶妙な湯加減などもさることながら、ヒノキから発せられる独特の匂いは心を落ち着かせ、入浴の醍醐味を存分に発揮している。
まさに極楽という言葉が似合う空間に、カンヘルは何時に無く上機嫌になっていた。
「あいつらが毎日風呂に入ってたのって、こういうことだったのか」
栞や比奈が、朝晩にかけて頻繁に風呂に入っていた気持ちをようやく理解する。
(でも、あの二人が住んでるとこの風呂って狭かったよな。もしかして、あいつら貧乏なのか?)
毎日掃除していた寮の浴室を思い出して、カンヘルはこんな失礼な誤解をしてしまった。
人間社会に疎い所のある彼は、このような浴場を個人で持っていることが普通ではないことを理解していない。
人間界に来て日が浅いはずの堕天使が、何故かこれだけの浴室を抱える邸宅に住んでいたせいで、これが一般家庭の普通だと思ってしまったのだ。
どうやら人間にとってひもじい生活をしていたらしい栞に同情し、これからはもうちょっと優しく接してやろうとカンヘルが考えたところで……急に天井が、ガタッと音を鳴らして揺れた。
見上げると、ヒノキの一部が四角く外れて人間一人分が通れそうな穴が開いている。
そこから逆さまに頭を出してキョロキョロと視線を彷徨わせている堕天使に、カンヘルは呆れた様子で首を傾げた。
「何やってんだお前?」
「……どうして、聡人くんがいない」
浴室にいたのがカンヘル一人だったことに、ノエルは不服そうな様子だ。
「あいつなら、さっきシャワーだけ浴びて出て行ったぞ。流石に泊まるのは気が引けるから、こっそり帰るってよ」
「そ、そんな……」
ノエルは逆さまの体勢のまま、器用にうなだれた。
久遠ヶ原学園からノエルの家にやってきた栞とフロリーヌ、聡人の三人は、話の成り行きで泊まることになっていたのだ。
だが女性だらけの面子なので良識のある聡人は帰ってしまい、フロリーヌも一旦荷物を取りに寮に帰っている。
ちなみに栞の荷物は、寮の部屋にて連絡を受けたカンヘルが持ってきていた。
目的の人物がいないことを知らされると、ノエルは視線を自分の体へ落として残念そうに呟く。
「せっかく、可愛い水着を用意したのに……」
「何かを着たまま風呂に入るのは、マナー違反だと聞いたぞ」
カンヘルが聡人から聞いたにわか知識を口にすると、ノエルは微かに得意げな表情を浮かべた。
「そんなことはない。お風呂の中でも、混浴用なら水着が普通……らしい」
「ん? 此処って混浴だったのか?」
「男女別に分かれてないお風呂は、混浴用だと聞いた。うちには一つしか風呂がないから、混浴になるはず」
「へ~、そういうものか?」
「うん」
間違った知識を教えられ、カンヘルが感心した視線を向ける。
とそこで、彼女のドヤ顔を見て何かを思いだしたのか、カンヘルが挑発的な笑みを浮かべた。
「ああ、そうだ。今日の夕飯、楽しみしてっからな」
相手の表情で、それが言葉通りの意味でないことをノエルは悟る。
「うん、楽しみにしているといい」
だから彼女も負けじと目に力を込めて、カンヘルを見返した。
「俺様が直々に試食してやるから、今の内に首を洗っとけよ」
「そっちこそ、メイド服を洗って待ってる」
「……メイド服は持ってねーけどな」
持っていないが用意する必要もないだろう……と内心で思いながら、軽く肩を竦めた。
今朝のノエルの発言は、聡人に良いところを見せようと見栄を張っただけだとカンヘルは思っている。
彼も天魔の類が人間界の食文化に疎いことを十分に理解していたので、数年に渡って料理を作らされてきた自分が、つい最近人間界に来たような天魔に負ける気はしなかったのだ。
数時間後、職人による精緻な模様が天板全体に施されている豪華な机の上に、カンヘルは突っ伏していた。
彼の前に置かれてあるのは、大きな皿に盛られた白米に、濃い茶色をした液状のものを掛けた料理だ。
見た目の色こそ悪いが、それを補って余りある芳ばしい香りが食欲をそそる一品。
スプーンで掬って口に入れると、まず独特で濃厚な味が口の中で広がり、咀嚼すると米や中に入っていた具材から別種の旨味が加わる。
さらに一拍遅れて辛みが舌を刺激することで、口に入れてから飲み込んだ後まで常に食べる者を飽きさせない。
後味には微塵もしつこさがなく、むしろ強く食欲をそそられて、手に持つスプーンは次を掬わずにはいられなかった。
ノエル曰く、これはカレーという料理らしい。
聡人の子供の頃の好物を覚えていた彼女は、このカレーだけは美味しいものが作れるようにと、ひたすら頑張ったのだそうだ。
カンヘルは彼女の出したカレーライスを口にした途端、培ってきた自信をあっさり打ち砕かれ、敗北を悟った。
同じく食卓に着いていたフロリーヌも、既に二杯目だというのに喋るのを忘れるほど夢中になって食べている。
ただ栞だけは、酷く落ち込んでいる自らの召喚獣の姿を見て、そっとスプーンを置いた。
「私は辛いのが苦手です。料理はやっぱり愛情……つまり、食べさせる相手の好みに合わせた味付けなどが重要だと思いますね。そういった点で、カンヘルの料理は私にとって優れていると思います」
「し、栞……」
彼女の言葉に感銘を受けて、カンヘルが目頭を熱くしながら顔を上げる。
しかしそこに置かれている皿は綺麗に空になっているし、コップに入った水はあまり減っていない。
「そう言うわりには、しっかり食ってんじゃねーか!」
「ご馳走になったものを残すなんて失礼だからです。それとこれは話が別です」
「……まぁ、それもそうだけどよ」
栞の言葉にカンヘルが納得すると、三人の食べっぷりを見守っていたノエルが、少し残念そうな声を掛ける。
「じゃあ、お代わりはいらない?」
「いえ、頂きます」
「しおりぃぃぃいいい!?」
普段は少食で自分の作った味噌汁はお代わりをしたことがない栞が、あっさりとノエルに皿を差し出したことに、カンヘルが絶叫した。
裏切り者を見るような視線を向けてくる彼に、栞は心外な気分で眉をひそめる。
「カンヘル、勘違いしないで下さい。私はただ、明日の任務に備えて沢山食べておきたいと思っただけです」
「……本当かよ?」
疑わしげな目をするカンヘルに、栞は頷いて応じた。
「本当です、信じて下さい。……あ、ノエル。ご飯は少なめ、ルーは多めでお願いします」
「がっつり堪能する気満々じゃねーか! 辛いのが苦手とか嘘だろお前!」
「安心して下さい、辛いのが苦手なのは本当です。ただカンヘルの料理と違って、ノエルのカレーは辛くても美味しく感じてしまっただけです」
「安心どころか余計に落ち込むわ!」
二人の応酬はやがて言い争いになり、部屋の中は騒がしくなっていく。
そんな、表面上はいつもの調子を取り戻しているかのような栞の様子に、フロリーヌはこっそり安堵の息を吐いていた。
心配事が一つ減り、丁度満腹になって食事を終えたことで、彼女は改めて今いる部屋の内装を見回す。
あの文芸部の部室と同じく国籍に統一感こそないものの、使っている食器や机、天井から吊り下げられているシャンデリアなど、辺りには一目で上級品だと分かる調度品が揃っていた。
ヒノキ風呂などの設備や外の庭園も含めて、豪邸と呼んで差し支えない邸宅。
それを人間界に来て日が浅い堕天使が所有していることに疑問を抱き、フロリーヌは饗応に徹していたノエルに尋ねた。
「それにしても、この家を買ったお金はどうやって手に入れましたの? てっきり貴方も、どこかの寮にお住まいになっているものと思っていましたわ」
「天界から離叛した時に、色々と便利そうな道具を掻っ払ってきてたから、それを売った」
「……そ、そうですの」
アウルに関しての技術は、近年になってようやく体系化した人類よりも、遥か昔から同じ力を扱ってきた天界や魔界のほうが進んでいる。
故に久遠ヶ原学園の研究職員などにとっては、天界にあったアウルに関係する物品は喉から手が出るほどに欲しいものだった。
さらには強力な神器のような、人間界で作ることが不可能な代物も存在するので、ものによっては一生遊んで暮らしていける値段が付く事もある。
だが人間界で高値が付くものほど、天界にとっても貴重品であることが多く……
「人間界で暮らすにはお金が必要なのは知っていたから、できるだけ高そうなものを沢山持ってきた。神殿にある格好良さそうな剣とか盾を持ち出したら、強そうな上位天使が沢山追い掛けてきて大変だった」
「よく無事に逃げ切りましたわね……」
普通の堕天使よりも気合を入れて狙われていそうだとフロリーヌは思った。




