第十七話
人の気配が無くなり、廃墟と化した街の一角。
かつては頻繁に自動車が行き交っていたであろうひび割れた灰色の道路の上に、その存在は佇んでいた。
精緻な人形のように整った容姿の、銀髪碧眼の偉丈夫。背中にある純白の翼が彼の正体を示しており、身に纏う強大なアウルが彼の力を敵対者に知らしめている。
空を覆う分厚い雲によって辺り一帯が薄暗くなっている中、頭上に輝く光輪が演劇の舞台にて浴びせられるスポットライトの如く、男の存在感を際立たせていた。
並の撃退士が相対すれば、平伏してしまうであろう圧倒的な威圧感を放つ天使。
そんな存在に対して、横合いから怯懦の欠片もない刀が振り下ろされた。
撃退士として人間を超越した膂力に加えて、達人の域に達した太刀筋での一撃。
標的との間にある大気すら斬り裂き、一切の音が立たない静かな攻撃は……しかし、天使には届かない。
相手が【サーバント】程度であれば反応すら許さずに真っ二つに出来る斬撃に対し、天使は人差し指と親指にて刀身を挟んで受け止めた。
まるで動きの鈍い羽虫を軽く摘んだかのような所作で、刀の動きを止めてしまう。
「うげっ」
刀を手にしていた女性が、奇妙な呻き声を上げながら大きく飛び退いた。
最悪、武器を手放して距離を取るつもりでいたが、意外にもあっさりと掴まれていた刀身が解放される。
「今のを指で止めるか。これは生きて帰れんかもしれんな」
長い黒髪に紫の瞳をした女性が、刀を構え直しながらぼやく。
すると彼女の後方にて控えている、黒髪を後ろの高い位置で括った童顔の少女が、状況にそぐわない朗らかな声を上げた。
「なら明日の校内放送は悲報だね。久遠ヶ原学園の美少女、栗原ひなこ散るっ! ……なんちゃって」
「いや、自分で美少女って言って虚しくないか?」
「そう? じゃあ和風美女、木田原斎に変更で――ってこっちに刀向けないで!? 敵! 敵の前だから!」
ひなこと自称した少女が、焦った声で刀を向けかけた斎を制止する。
既の所で思い止まった斎は、眉を顰めながらも少し頬を赤くしていた。
「び、美人とか言うな馬鹿者」
「相変わらず褒め言葉に弱いんだね……」
「お二方、本当に死にたくなければ無駄口を謹んで下さい。つまらない漫才をやっている場合ではありませんよ」
この窮地に対して緊張感が感じられない二人に、両刃の片手剣を右手に構えている淡い茶色の髪をした男が、苦言を呈する。
彼の言葉を受けて、隣に立っていた斎は素直に口を閉じて表情を引き締め、後ろにいるひなこが不服そうに唇を尖らせた。
「ぶ~。理人くんって、何でいつもそう偉そうなのかなぁ」
「僕は当然のことを言っているだけなのですが……」
理人と呼ばれた男は、縁なしの眼鏡の位置を左手で直しながら、その奥にある碧眼の双眸を細める。
彼の視線の先にはザドキエルと名乗った天使と、その後方に控えて動きを見せない使徒らしき存在がいた。
虚ろな目をして佇んでいる、栗色の髪をした少女である。彼女が動きを全く見せないことに、理人は怪訝そうに首を傾げた。
「それにしても、妙ですね」
「ん? 何が?」
「僕達が、未だに生きて立っていることがですよ」
油断無く相手から目を離さないまま、理人がひなこの疑問に応じる。
隣で刀を構えている斎も同じことを思っていたらしく、彼の言葉に同意した。
「相手が本気で仕掛けてきていたら……恐らく簡単にやられていただろうな」
強力な天使の出現を受けて、此度の任務に従事していた他の撃退士達は撤退している。
今この場にいる三人は、他の撃退士達が無事に久遠ヶ原学園へ帰還できるよう、時間稼ぎに残った者達であった。
いずれも久遠ヶ原学園高等部の生徒の中で、トップクラスの力を持っている生徒である。
理人としては、もし相手がザドキエルだけであれば、三人揃って防戦に徹することで生還する自信があった。それぐらいの実力があると自負しているし、他の二人の力も信じている。
だがザドキエルの後方に控えている使徒が参戦してくると、話は別だった。
今の三人ではザドキエル一人の対処だけで手一杯であり、他の戦力を相手取る余裕はないのだ。このことは、相手も理解しているだろう。
だというのに使徒が動く気配はない。さらにはザドキエル自身も戦いに積極的ではなく、手を抜いているような感覚があった。
何を企んでそうしているかが読めず、理人は不快そうに表情を歪める。
「……何にせよ、今の僕達にとっては僥倖です。もう殿としての役割は十分に果たしたはずですし、そろそろ僕達も撤退しましょう」
「そうだな」
理人の提案に、斎とひなこが首肯した。
相手の動きを注視しながらジリジリと後退を始めるも、ザドキエルはそんな三人を眺めるだけで特に何かを仕掛けてくる様子はない。
理人の中でますます疑念が膨らむも、ある程度の距離を取れた所で背中を向けた。
背後に注意を向けながら駆け出し、ザドキエルが追ってこないのを確認してから、理人は二人に話し掛ける。
「これから、改めて久遠ヶ原学園に天使討伐の任務が出されるでしょうが……何かしらの罠の可能性も伝えておくべきですね。いくら何でも不自然すぎる」
「ん~、じゃあこれも資料として提出するべきかな? できれば次の放送のネタにしようと思ったんだけど、何か分かるかもしれないし……」
そう言って、ひなこが懐に仕込んでいた小型のビデオカメラを取り出した。
どうやら三人で天使と対峙していた時、相手の姿をずっと撮っていたらしい。
「流石は放送部の部長だな。抜け目のない」
「えへへ~」
斎の感心した声にひなこが照れた様子を見せるも、理人は怒りから痙攣しそうになるこめかみを指で押さえた。
「そういうものは、最初から学園に提出するべき情報でしょうが」
「え~、だって情報は鮮度が命なんだよ? 学園に行き渡ってから放送しても意味無いし!」
「あの下らない放送と、任務の生存率のどっちが大切だと思っているのですか?」
理人に問われ、ひなこは顎に手を添えて真剣に悩むような素振りを見せた。
「……ひなこさん?」
「いやいや、冗談だよ! 本気で悩んだ訳じゃないから!」
声が低くなった理人に、ひなこが慌てて弁明する。
普段の彼女の素行を思うとあまり冗談には聞こえなかったのだが、理人は嘆息しつつもこれ以上は言及しないことにした。
「まあいいでしょう……今はまず、帰還と報告ですね」
こっそりと安堵の息を吐いているひなこを尻目に、ふと理人は斎の様子が少しおかしいことに気が付いた。
移動の足は止めないまま、鞘に収めた刀の柄尻を名残惜しそうに手で弄んでいる彼女に、声を掛ける。
「斎さん、どうかしましたか?」
「必要なこととは言え、やはり敵に背を向けて逃げるのは屈辱だ」
「……そうですね」
悔しそうに表情を歪める斎に、理人は心から同意した。
何か企みがあるにせよ、自分達を相手にして余裕の態度を崩さなかった天使。
あのザドキエルと名乗った男の双眸に宿っていた感情に、理人は表情には出さないながらも腑が煮えくり返る思いを抱いていた。
これが任務ではなく個人的な私闘であれば、死んでも逃げるという選択はしなかっただろう。
「だから屈辱を受けた分、次に相対した時には確実に狩ってやりましょう。……あの天使の背後にいた使徒も含めてね」
次こそは、あの傲慢な態度を……完全に人間を見下した思想を、自らの手でへし折ってやる。
人間を裏切って天界側に付いた使徒も、絶対に許しはしない。
そんな思いを胸に、理人は嗜虐的な笑みを浮かべた。
その日の夕方、久遠ヶ原学園から一件の緊急依頼が出された。
ゲートの破壊だけでなく、ザドキエルという名の天使と一人の使徒の討伐も目的に含まれているため、通常よりも多くの撃退士を募った任務である。
明日の早朝からすぐに作戦を決行するべく、久遠ヶ原学園の生徒達の間には現場にいた撃退士が撮ったという映像資料が出回っていた。
天使や使徒に関わる依頼には必ず目を通していた栞も、放課後のAクラスの教室にて件の映像を目にし……そこに映っていた少女の姿に、手にしていた携帯端末を取り落としそうになる程動揺した。
「比奈……」
ようやく見つけ出した親友の姿に……しかし栞は、凄まじい焦燥感に駆られる。
Aクラスに上がったことで同じ教室にいた聡人が、今にも泣き出してしまいそうな彼女の顔を心配そうに覗き込んだ。
「栞さん、大丈夫?」
「……」
返事をする余裕もなく黙り込んでしまった栞に、聡人の隣にいたフロリーヌが宥めるような声を上げる。
「少し落ち着きなさいな。高い確率でこうなることは、前々から予想していたことでしょうに」
彼女の言った通り、こういった事態になることは栞も予想していた。
だが実際に討伐対象に指定され、比奈が大勢の撃退士に命を狙われる任務を目の当たりにすると、どうしても不安になってしまう。
現地に繋がる【ディメンションサークル】は任務が始まるまで開かれることはない。
別の手段で現地に赴こうにも、久遠ヶ原学園の生徒が無断で島外へと出ることは許されていなかった。
今からでも外出許可の申請はできるが、認められるまである程度の時間が掛かってしまうので、それなら明日の任務に参加して【ディメンションサークル】を使用したほうが速く現地に着くだろう。
いくら気を焦らせても、今は何も出来ることはないのだ。
頭ではそれを理解していても、栞は胸に燻る不安をどうしても抑えられなかった。
「この任務を受けるのは当然として、現場で他の撃退士達よりも先に比奈さんの元へ辿り着く必要がありますわね」
「上手く先遣隊に入れればいいんだけど……」
明日のことで二人が相談していると、やがて教室の入り口から一人の堕天使が姿を現した。
幾人かの生徒が、彼女にあまり友好的でない視線を向けるも、構わず目的の人物の元へと歩み寄る。
「聡人くん、迎えに来た。……栞はどうしたの?」
「ノエルちゃん……」
泣きそうな顔のまま俯いて携帯端末の映像から目を離さない栞に、ノエルが首を傾げる。
聡人が、つい先程出された任務について説明すると、彼女は納得したように頷いた。
「そう、とうとう黒塚比奈が見つかったのね」
ノエルは、しばらく消沈した様子の栞を見つめ……やがて何を思ったのか、唐突に彼女の体を抱き上げた。
アウルの力を持っているのだから当然なのだが、ノエルは細身である外見とは裏腹に、軽々と栞の体を持ち上げてしまう。
「い、一体何を――」
「気が落ち着くまで、誰かと一緒にいたほうがいい。じゃないと栞の性格からして、余計なことを沢山考えてしまうと思うから」
「……」
担がれたままの栞が沈黙すると、ノエルは呆気に取られた表情で自分を見つめている二人を振り返った。
「みんな、今日は私の家で作戦会議をする。カンヘルとの勝負もあるから、夕飯もご馳走する」
そう言って、栞を強引に運んで教室から連れ出そうとするノエルに、フロリーヌと聡人は一度顔を見合わせた後、慌てて彼女の背中を追ったのだった。




