第十五話
「……これは、どういうことですか?」
寮の自室に帰ると、自分を待ち構えていたカンヘルから手渡されたものを見て、栞は彼を咎めるような声を上げた。
「私が彼に頼みましたのよ」
フロリーヌがそう言うと、肩を竦めたカンヘルから彼女に憤りを込めた視線を移す。
今、栞が手にしている黒い装丁をした分厚い本。
これは、黒塚比奈が使用していた十年分のページがある連用日記だった。
普通の日記と違って一日分のスペースが小さく数行ほどしか書けないが、各年の同じ日の記録が一ページに収まっているので、年を追うごとの変化が分かり易いといった代物である。
この日記は比奈が実家から離れて久遠ヶ原学園の寮に移ることになった際、彼女が父親からプレゼントされたものだった。そのせいか、どんなに疲れた日でも必ず毎日書き続けていたのを、栞は知っている。
実のところ、あわよくば自分から離れている間の娘の生活を後で知りたいといった父親の意図も込められているようなのだが、比奈はそれを知らない。
だからこの中には、数年分の比奈が体験したことや偽りのない思いが綴られているはずであった。
「これを私に渡して、何がしたいんですか?」
「比奈さんの真意が窺えるものならば、何でも良かったんですけれど……人に見せることのない日記ならば、恐らく彼女の本音に近いことが書いてあるはずですわ。それは今の貴方が、一番知りたかったことではなくて?」
「……」
フロリーヌが何を意図しているのかを理解し、栞は何かを言いかけて……沈黙する。
長い間使っていたせいか少し草臥れている日記の表紙を見つめて、栞はゴクリと唾を呑み込んだ。
勝手に人の私物を漁って、日記を覗き見る。
それは決して、褒められた行為ではないだろう。
だがこの中には、本当は比奈が栞をどう思っていたのかが記されている可能性が高いのだ。
いつも一緒にいて、些細なことで笑い合った親友としての彼女の姿。
嫉妬と憎しみの言葉を口にして、怨敵としての視線を向けてきた彼女の姿。
相反するように思える二つのどちらを信じるべきなのか、知ることができる。
それは、抗いがたい誘惑だった。
「比奈……」
罪悪感はある。
彼女の真意を知って後悔するかもしれない。
このことを知られれば、ますます彼女から嫌われることになるだろう。
でも、どうしても知りたい。
胸の中を締め付ける様々な感情に煽られて手を震わせながらも、いつしか栞は比奈の日記を開いていた。
日記は二人で久遠ヶ原学園に来た時の前日から始まっており、その最初の日から目を通していく。
四月二日(月)
【お父さんが、日記ちょうをくれた。お母さんもお父さんも毎日かいてほしいと言っていたから、今日からがんばってかいてみようとおもう。明日はしおりちゃんとゲキタイシの学校に行く日だ。楽しみであまりねむくならない】
四月三日(火)
【今日は、しおりちゃんとゲキタイシの学校のある島に来た。アウルの力を使える人は、みんなここに通っているらしい。しおりちゃんと一緒に誰よりも強くなって、弱い人を守れるゲキタイシなれるよう、がんばろう】
四月四日(水)
【入学式の前に、能力測定をした。わたしは、みんなよりアウルが小さいらしい……ざんねん。でもしおりちゃんは、たくさんの人の中で一番だった。うれしくて、ちょっとうらやましいな】
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読み進めていく内に栞は、ほぼ毎日のように自分の名前が出てくることに気が付いた。
同じの部屋に住んで同じクラスになり、二人でずっと一緒にいたのだから、名前が頻繁に出ることぐらい当然なのかもしれない。
でも――
六月二十日(水)
【今日は最初のクラス分けがあった。わたしは一番下のEクラスだった。分ってたけど、かなりくやしい。でも、しおりちゃんもEクラスだった。同じクラスなのはうれしいけど、しおりちゃんなら一番上のクラスに入ると思ってた。どうしたんだろう?】
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七月十三日(金)
【栞ちゃんがよく練習をサボるようになった。なまけているだけのように見えるけど、何かをこわがってるみたい。もしかして、戦うのがイヤなのかな? 心配になって聞いてみたけど、教えてくれなかった。残念】
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彼女の日記に自分の名前が出る度に、嬉しくなった。
空のコップに少しずつ水滴が落ちていくように、心に空いていた隙間が埋まっていくのを感じる。
二月二十六日(火)
【栞ちゃんがカンヘルを召喚した。よく分らないけど、かなり凄くて強いらしい。やっぱり羨ましいなぁ。試験の時に彼を召喚すれば、簡単にAクラスになれると思うのに……やっぱり戦うのが恐いのかな? 一緒のクラスになってくれるのは嬉しいけど、理由を教えてくれないのがちょっと寂しい】
二月二十七日(水)
【栞ちゃんとカンヘルの仲が良いみたい。喧嘩しているように見えるけど、なんとなく二人とも楽しそう。栞ちゃんの性格から考えると、こんなに早く相手と打ち解けるって珍しいと思う。良いことなんだけど、なんとなく面白くない】
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想定していた恨み言など、一つもなかった。
ただ彼女がどれだけ自分を大切に思ってくれていたのかを知り、満たされすぎて心のコップから水が溢れ出す。
それは止め処なく、栞の頬を伝って流れ落ちた。
時折、視界がぼやけて文字を追えなくなるものの、服の裾で何度も目を拭いながら読み続ける。
八月二十六日(日)
【明日から二学期だ。Cクラスに上がってるといいなぁ。凄く頑張ったし自信はあるけど、ちょっとだけ……いや、かなり不安。多分、栞ちゃんは私がCクラスに上がると信じて、自分もクラスを上げてくると思うから。次も一緒のクラスになれますように】
八月二十七日(月)
【今日は奮発してお祝いをした。Cクラスに上がれて、もの凄く嬉しい。でも、明日からすぐに実戦に行かされるみたい。栞ちゃんは大丈夫かな? 戦うのは苦手みたいだし……理由は分らないけど、本当は撃退士になりたくないのかもしれないなんて思った。それでも久遠ヶ原学園にいるのは、私と離れたくないからとか? もしそうだとしたら、私はどうしたらいいんだろう? 明日の任務が終わったら、一度きちんと話し合ってみようと思う】
長い時間を掛けて最後まで読み終え、栞はゆっくりと日記を閉じた。
そのまま自分の胸に抱え込んで、歓喜と悔恨から涙を流す。
比奈の暖かい優しさを知れて嬉しく思うのと同時に、たしかにあった絆を疑ってしまったことを栞は後悔した。
泣きながらも大切に日記を抱く栞の様子を見て、中の内容をなんとなく悟ったフロリーヌは、彼女の肩に手を置く。
「……たしかに、あの時に比奈さんが口にした嫉妬は、心のどこかにあった本音だったのかもしれませんわ。私だって、貴方の才能には嫉妬していまいますもの」
そのフロリーヌの言葉に、栞は顔を上げて彼女を見つめた。
「でも、誰だって相手の全てを好きであり続けるなんてありえないと思いますの。長い時間を掛けて相手を知れば、嫌なところの一つや二つ、必ずあるものですわ。でも嫌いな所があっても、それを上回る親愛があるから共にいる……友達とは、そういうものだと私は思いますのよ」
穏やかな声で話すフロリーヌに、栞は目を丸くして瞬かせ……ふと、口元に手を当てて小さく笑い出した。
「……? どうしましたの?」
「だって私ぐらいしか友達がいないフロリンに、友達について諭されるとは思いませんでしたから」
「あ、貴方という人は――」
フロリーヌは額に青筋を立てて怒りかけるも……そこでふと、「私ぐらいしか」という部分が指し示す意味に気が付く。
栞の様子を見る限り、恐らく彼女にとってはいつもの軽口のつもりで、無意識の言葉だったのだろう。それの意味している所を悟って、フロリーヌは大いに照れて顔を赤くした。
急にそわそわと髪を弄りだした彼女に、栞は不思議そうに首を傾げながらも、言葉を続ける。
「フロリン、ありがとうございます。貴方のお陰で、目が覚めました」
「え、ええ……」
「私は、もう疑いません」
栞は、そう自分に言い聞かせるようにして呟く。
日記の内容と、違いすぎる比奈の態度。
冷静になって考えれば、あの時の彼女の被害妄想とも取れる誤解は、明らかに異常だったように思う。
元から内心では栞を嫌っていたとなれば話は別かもしれないが、それは彼女の日記が否定してくれた。
自らの親友との絆を確信したことで栞の心から迷いが消え、代わりに強い怒りが宿る。
恐らくは比奈に何かをしたであろう天使に、ふつふつと敵意を滾らせて手を握った。
「私は絶対に、比奈を救ってみせます」
力強い光を瞳に宿らせ、栞は自らの決意を改めて宣言したのだった。




