第十四話
何か特別な経緯や理由があって、彼を好きになったわけじゃなかった。
私が純粋な興味から秘密裏にゲートを抜けて人間界に来ていた時、ただ偶然出会って遊んだだけの間柄である。
当時、天使の寿命からすると産まれて間もないと言っても過言ではなかった私は、天界と人間界の関係など、まだあまり教えられてはいなかった。
ただ、大人の天使達が人間をどう思っているかぐらいは、肌で感じ取っていた。
だから最初は私も人間を見下していたが、いつの間にか自分の中で形になりかけていた価値観は、人間の子供達に混じって遊ぶことを経験したことで、簡単に崩れてしまったのである。
人間で言うと、女の子よりも男の子の趣向に近かった私は、彼らの様々な遊びに魅了されてしまったのだ。
皆で集まって賑やかに遊ぶのは楽しく、私は度々こっそりとゲートを抜けては、人間の男の子達に混ざって遊び回った。
外でやる追いかけっこや隠れんぼ。ボール等の道具を使ってのサッカーや、野球、ドッジボール。雨の日には、室内に集まってテレビゲームもした。
相手の子供達も私と同じく、天使に対する価値観がまだ確立されいなかったのだろう。
彼らは背中に翼のある私の姿を見ても、まるで物怖じしなかった。
人間の大人達の目がある時は翼だけ隠していたものの、子供達だけで遊ぶ時はそのままの姿でいても、何も言われなかったのだ。
ともすれば同族よりも長い時間を人間の子供達と過ごしていく内、やがて気になる男の子ができた。
人間であれば、どこにでも転がっていそうな初恋。
ただそれだけの話。
お互いに幼かったし、細かい心の機微など望むべくもない。
自分の気持ちが何なのかを知らないまま、多くの時間を彼と共有して……やがて度重なるゲートの使用を管理者に見咎められた私は、人間界に渡れなくなってしまった。
会えなくなってようやく私は、彼といた時間がどれだけ貴重だったかを思い知らされたのだ。
天界は刺激が少なく退屈で、ひたすらゆったりとした時間が流れている。
そのせいか私の中に培った思い出はどんどん美化されていき、彼に会いたいという気持ちが膨れあがっていった。
胸の中に残る幸せな記憶と感情は、数年という時間が経過しても全く色褪せることなく……あれから成長してゲートの使用を認められた私は、あっさりと天界を離叛して人間界に渡ったのである。
そして最初に保護を求めた久遠ヶ原学園にて、私は彼を探しに行くまでもなく見つけてしまったのだった。まさか学園に来ていたとは知らず、この時は運命を感じてしまった。
いざ会いに行ってみると相手は私を覚えていなかったものの、心のどこかで彼との未来を勝手に信じてしまったのだ。
でもやっぱり、こんな思いは一方的な錯覚だったようで――
ノエルは盛大に泣きじゃくりながら、久遠ヶ原学園の上空を疾走していた。
ポツポツと目尻から流れ出した滴を地上へと散らしながら、背中の翼を羽ばたかせて空を真っ直ぐに突き進む。
建物の屋根から屋根へと飛ぶことでノエルを追跡していた栞は、彼女がこのまま島外まで逃げて行くつもりであることを悟って舌打ちをした。
「まずいです。このままノエルが学園に無断で島外へと逃亡したら……」
「天使や悪魔だけでなく、撃退士からも追われることになりますわね」
フロリーヌが切迫した表情で、栞の言葉を継ぐ。
数年以上を人間界で過ごし、学園から素行に問題ないと判断された堕天使ならともかく、ノエルはまだ此方に来て間もないのだ。それが何の連絡もなしに島外へと行方を眩ませれば、学園が彼女を不穏分子だと見なしても不思議ではない。
学園としては基本的に捕らえることを優先して追うだろうが、別組織である国が運営している撃退庁はそうもいかなかった。
もしも彼らに発見されれば、ノエルは容赦なく殺されるだろう。天界から離叛したことで普通の撃退士並に力を落としている彼女では、簡単にやられてしまうのが分かりきっている。
例え先に学園から派遣された撃退士に見つかったとしても、彼女が抵抗の意志を見せれば仕留められてしまうかもしれなかった。
当然、天使や悪魔といった存在にも以前と同じように命を狙われることになるだろう。
だから今止めなければ、もう二度と彼女とは会えない可能性が高かった。ごく短い時間の付き合いながらも自らが友達だと言った相手を、栞は失うのだ。
この状況は奇しくも、栞が比奈を失った時とよく似ていた。相手と培った時間も絆の強さも違うが、誤解から彼女を追い込んでしまった事実は一緒である。
――私ね、ずっと羨ましかったんだよ?
――謝るぐらいなら私に殺されろ!
ふと比奈から拒絶された時の言葉が脳裏を過ぎり、栞は身を震わせた。
思わず足が止まってしまいそうになるも……今度は、歯を食いしばって無理矢理感情を抑え込む。
此処で泣いて塞ぎ込んでも、何も取り戻せないのだ。
あの時、自分が動けていれば……せめてカンヘルの動きを阻害しない程度には気を強く持っていれば、比奈を取り戻せていたかもしれない。
そんな後悔を二度としないよう、今はやれることをやろうと決意した。
「フロリンっ! あのランスの技を!」
「……彼女の真上あたりを狙いますわ」
短い言葉で栞が何を企んでいるのかを察し、フロリーヌは片手を彼女に差し出す。
二人が互いの手をしっかり握り合うと、それぞれ空いた手で同時に【ヒヒイロカネ】から武器を取り出した。
栞がハンマーを肩に担ぎ、フロリーヌがランスを斜め上空に向けて構える。
「行きますわよ!」
彼女の宣言に栞が手を強く握り返すことで応じると、フロリーヌは【アウル】にて背後に昆虫の羽根に酷似したものを形成し、そこからオーラを噴出させた。
寸前に地を蹴ったことでさらに推進力を加え、空気の壁を破るほどの猛烈な勢いで彼女の体を空へと押し上げる。
手を繋いでいる栞を巻き込みながら、フロリーヌの構えたランスは一直線に、空を行くノエルの頭上を通り過ぎた。
「っ!?」
吹き荒れる衝撃波に煽られ、ノエルが空中にて体勢を崩す。
これには彼女も、一時的に動きを止めざる得なかった。
余力を宙での姿勢制御に費やすことで、何とか墜落の危機を切り抜け……ふと、自らの体に影が差したことに気が付く。
ノエルが慌てて背後を振り返ると、栞がハンマーを今にも振り下ろさんと構えている姿が目に映った。
彼女はフロリーヌに捕まることで空へと運んでもらい、途中で手を離すことで自らの体をノエルと同じ高さまで持ってきたのである。
「ちょっと痛いですが我慢して下さい!」
「――っ」
ノエルは攻撃の気配を感じ取り、背後に向けて咄嗟に【アウル】による障壁を張った。
流石は堕天使といった所か、【アストラルヴァンガード】と呼ばれる光の加護によって守りに特化した能力を有していた彼女の障壁は、並の攻撃ならばビクともしない程の強度を発揮する。
このままハンマーを打ち付けても、恐らくは障壁を破れないだろう。
そう悟った栞は、手にしていたハンマーに持ちうる全力で【アウル】を込めた。
膨大な【アウル】を注ぎ込まれて眩い程に輝くハンマーを見て、ノエルは驚愕から目を大きく見開く。
「その【アウル】の量は一体っ!?」
人間ではありえないはずの力を目の当たりにして、ノエルが思わずそう叫んだ。
栞は彼女の疑問には応じずに、容赦なくハンマーを振り下ろす。
バリンッっとガラスを割ったような音と共に、ノエルの構築した障壁が粉々に砕け散った。
強固な壁を破壊して威力を削がれたハンマーが、彼女の背中へと到達する。
本来の威力の大半が失われているというのに、尚も凄まじく重い衝撃を受けた彼女は、為す術もなく地上へと落下していった。
いくら堕天使とはいえ、この高度から何もせずに落ちれば多少の怪我は免れないだろう。
しかし先程の攻撃で意識を朦朧とさせていたノエルには、来るべき衝撃に備えて目を閉じることしか出来なかった。
地面に衝突することで感じるであろう痛みを覚悟し……しかし、想定していたような衝撃は来ない。
瞼を閉じたことで真っ暗になった視界の中、ノエルは落下の途中で何者かに抱き留められたのを感じ取った。
予想外の柔らかい感触に、ノエルは閉じていた目を開く。
すると彼女の目に、自分の体を両腕で横に抱えている男の子の顔が映った。
「……聡人くん?」
「ああ、やっぱりノエルちゃんだ」
胸の奥がくすぐったくなるような懐かしい響きを耳にして、瞳が揺れる。
昔と同じ呼び方をした彼に、ノエルは驚いた声を上げた。
「覚えてくれていたの?」
「うん、久しぶり」
ずっと聞きたかった言葉の一つを聞いて、ノエルは体が浮き上がってしまいそうな程の喜びを感じつつ、ふと小首を傾げた。
「でも、最初に再会した時は……」
「いや、だって髪とか目の色も変わってたし、昔よりも成長して背も伸びてたし、背中の翼まで隠されてたし……なのに名前も言わずに逃げられたら、流石に分かんないよ」
「……あっ」
言われてようやく、ノエルは自分が失敗していたことを自覚する。
聡人との再会に気合いを入れるあまり、ほぼ別人のような姿になってしまっていたせいで、彼はノエルのことに気が付かなかったのだ。
と、彼女が自らの間抜けさを思い知らされた所で、ノエルとは離れた場所に空から落ちていた栞とフロリーヌが姿を現した。
恐らくは何らかの手段で落下の衝撃を和らげたのだろう。二人とも無傷ではあったが、制服がボロボロになっている。
新しい友人で恋敵だった相手を見て、ノエルが複雑そうな声を上げた。
「あの、栞は――」
「ノエル、誤解です」
相手が何かを言う前に、栞は声を被せて話した。
「私はゲーム上ではずっと男のキャラクターを使っていたのです。そもそもカレリンという名前も男性のものですし、彼は今日私と会うまでずっと私のことを男だと思っていたはずですよ」
栞が弁明をしながら聡人に視線を向けると、彼は困ったように眉を潜めて苦笑する。
「まあね。ネットではよくあることとは言え、実際に目の当たりすると驚いたよ」
聡人が相手の話を肯定すると、ノエルはあからさまにホッとしたような表情を浮かべた。
「じゃあ一体、聡人くんが好きな人って……あっ」
気が抜けてしまったせいだろうか?
聞いてから、とんでもない言葉を口にしたことに気が付いて、慌ててノエルが自分の口を手で塞ぐ。
迂闊な自分の発言に後悔して……しかし、聡人が顔を真っ赤にしてノエルから視線を逸らしたことで、焦慮とした気分は全て吹き飛んだ。
「まさか……」
「――っ」
恥ずかしさから何も言えなくなってしまった彼の横顔を見て、ノエルは彼の気持ちを悟り……
つい先程まで流していたものとは、真逆の意味の涙を溢れさせた。
「わっ、何で泣いてるの?」
「だって……嬉しくて……」
自分の抱えていた気持ちは、一方通行ではなかった。
自分がいつまでも思いを忘れなかったように、相手もずっと自分を思ってくれていた。
それを理解して、ノエルは気が狂ってしまいそうなほどの歓喜に包まれた。
胸の内に秘めていた感情が体の外にまで膨張して、世界を覆い尽くしていくかのような錯覚に陥る。
今はまだ互いに気持ちを口にすることが恥ずかしく、視線を合わせることしか出来ないような初心な関係。
でもそのお陰で、なんとなく昔の自分に戻ったような気がして……二人は離ればなれになっていた時間を取り戻すように、言葉のない時間を過ごした。
っと、二人の男女が熱い視線で見つめ合う様子を眺めながら、栞はどこかうんざりとしたような声を上げた。
「何だか、無性に邪魔をしたい気分なんですが……」
「やめておきなさい。馬に蹴られますわよ」
どこか呆れたような面持ちを浮かべながらも、フロリーヌは栞を諫める。
太陽が水平線に近づき空が黄金色に染まり始める中、自分達の存在を忘れていちゃつくカップルに声を掛ける気にもならず、今日の所は二人とも素直に帰ることにした。
今日はカンヘルが凝った夕飯を作ると言っていたことを思い出し、栞は少しだけ期待しながら帰路に就く。
そんな彼女の背中を追いながら……フロリーヌは、先程の栞の戦いぶりを思い出していた。
相変わらず、理不尽な大きさの【アウル】による攻撃。
恐らくは、あれが彼女の全力なのだろう。
フロリーヌとって、栞の本気を見たのは今回で二度目であるはずなのだが――
(どういうことですの? 私の目には、数日前の戦闘時よりも明らかに【アウル】が増していたように見えましたけど……)
【アウル】の量は人によって決まっており鍛練では絶対に増やせない。
だから今回の栞の方が多くの【アウル】を扱っているように見えたなら、以前の戦いで彼女は本気ではなかったということだろう……常識的に考えるなら。
だがフロリーヌには、彼女が数日前の戦いでも手を抜いていたとは思えないのだ。
――まだ何かを隠している。
【アウル】が増えている自覚はあるだろうに素知らぬ顔をしている栞の態度を見て、フロリーヌはなんとなくそれを悟った。




