第十二話
「……そう、貴方達の友人が使徒になったのね」
栞が数日前にあった事の顛末と自分の目的を語り終えると、ノエルは一言呟いてから聞かされた情報をまとめるべく瞑目した。
先程まで続いていた栞の声も途切れ、部室の中で重苦しい静寂が漂う。
ティーテーブルには三人分の紅茶が用意されてあるものの、机上を囲んで座る三人は誰も手を付けていなかった。
長く話し続けて喉が渇いている栞でさえも、瞼を閉じて座るノエルを注視するばかりで、冷めてしまっている紅茶には見向きもしない。
やがて張り詰めた空気をほぐすかのように、ノエルがカップを持ち上げて紅茶に口を付けると、緊張した面持ちのまま固まっている栞に目をやった。
「嘘を吐いてもしょうがないから、本当のことを言う。残念だけど、使徒になった者が人間に戻るのは無理。例え本人が望んで主である天使が認めたとしても、使徒として作り替えられてしまった魂は肉体が死んでも元に戻らない」
「そう……ですか」
元天使であるノエルからの応えに、栞は顔を俯かせて唇を噛む。
使徒になった者は、二度と人間に戻れない。彼女が突き付けた事実は、久遠ヶ原学園の授業でも教えられる常識でもあった。
それでも使徒を作り出す力を持つ天使ならば、何か自分の知らない手立てを知っているかもしれないと、淡い期待を抱いていたのである。
改めて事実を突き付けられて栞が落胆するも、ノエルの話には続きがあった。
「人間に戻るのは無理。でも使徒のまま天界側から離れ、人間界で生き残る方法ならある」
「どういうことですか?」
栞は顔を上げて、怪訝そうに眉を顰める。
使徒になった者は、例外なく天使の命令に絶対服従させられるのだ。
さらには生命維持に必要なエネルギーを供給しているのも主である天使であり、使徒が天界から離叛したとしても生き残れるとは思わない。
栞のそういった疑問に、ノエルが説明した。
「たしかに使徒は、主である天使が死亡したり見放したりすると、徐々に力を失っていく。そのまま放置しておけば、だいたい一ヶ月ほどで死亡する」
此処までは、栞やフロリーヌも学園の授業で習ったので知っている。
だがノエルが次にした説明は二人の知識にはないものであった。
「でも、その間に別の天使に庇護されれば生存できる。堕天使は天界から離れたことで随分と力が弱くなっているけれど、扱える能力の性質は変わっていない。つまり天使ではなく堕天使が庇護すれば、使徒のまま生きて人間界で暮らすこともできる」
「……本当に、そんなことが可能なのですか?」
「うん」
ノエルが頷くと、栞は思わず手を強く握り締めた。
だが彼女が見えてきた希望に心を浮き立たせる前に、ノエルは忠告をする。
「でも普通の天使よりも力を衰えさせている堕天使に庇護されると当然、使徒の力も弱くなる。恐らく庇護された使徒は、撃退士どころか普通の人間並の力になってしまうと思う」
「そんな……」
歓喜しかけた気分を一気に萎ませ、栞は肩を落とした。
比奈が日頃から口にしていた将来の夢を思うと、とても喜ぶ気にはなれない。
そう苦悩している栞に追い打ちを掛けるように、ノエルはさらに言葉を続けた。
「それにこれは、使徒になった者が自分から人間側に戻ることを望まない限りは成立しない。でも話を聞く限り、貴方の友人は自分から力を求めて使徒になったようにも思える」
胸の内を見透かすような鳶色の双眸に見据えられ、栞は息を呑む。
微かに怯えたような気配を見せる彼女に構わず、ノエルは問い掛けた。
「貴方は黒塚比奈を助けたいと言う。でも、彼女は助けられることを望んでいる?」
その言葉が、栞の胸に突き刺さる。
ノエルの言うとおり、もし比奈が自ら望んで使徒になったのならば、自分の行動は彼女にとって余計なお世話でしかないだろう。
つい数日前に栞が赴いた、撃退士としての初任務。
あの時、比奈から浴びせられた言葉の数々を思い出してしまい、知らず呼吸が浅くなった。
天界に所属している者は、悪魔と違って虚言を嫌う傾向があるらしいことを栞は知っている。その傾向は、天使のお眼鏡に適って使徒なった者も同じである場合が多い。もちろん例外も数多くいるが、全体的に見れば天使や使徒の大多数の者はそうなのだ。
つまりあの時、比奈に言われたことは彼女の本音である可能性が高かった。
だからこそ栞は、悩んでしまう。
本当に、自分は比奈を助けていいのだろうか?
いや、そもそも自分の行動は彼女にとって助けになるのか?
また過ちを繰り返して、ますます比奈に憎まれるだけの結果になるのではないだろうか?
彼女は使徒になったことで、欲しがっていた力を手に入れた。
一方、自分が比奈に戻ってきて欲しいのは、自分が寂しいからだ。ならば、やはり自分がやろうとしていることは、自分の為でしかないのかもしれない。
自分のことしか考えていない。また、比奈の気持ちを考えていない。
そんな思いに囚われて、栞はノエルの問いに答えられずに黙り込んでしまう。
握り締められた手のひらに汗がじっとりと滲み、小さく震えだした栞の肩に……隣のフロリーヌが、手を置いた。
「望んでいますわ」
何も言えなくなってしまった栞に代わって、フロリーヌはそう言い切る。
「根拠はある?」
「ええ、ありますわ」
ノエルの疑問にはっきりと頷いてから、彼女は顔色を青くしている栞を見た。
「しっかりしなさいな。比奈さんのことは貴方のほうが良く知っているでしょう? あの方は、力が欲しいという理由で自分から人間の敵に回るような人でしたの?」
聞かれて、栞は迷いながらも首を横に振る。
比奈の正義感の強い性格や将来の夢など、栞の知る彼女は死んでも天魔には屈さないような人だった。そんな彼女だからこそ幼い頃の自分は救われたのだと、今さらながらに思い出す。
自分への恨み言が本音だったかどうかは別として、あの比奈が自ら進んで敵の配下になるとは考えにくかった。
もし自分から志願したのだとしたら、彼女の身に何かがあったとしか思えない。
「そう」
二人の様子を見て、ノエルは納得したように頷いた。
「なら貴方の友人の意志は大丈夫だとして……もう一つ問題がある。堕天使が使徒を庇護して力を分け与えると、恐らくその堕天使も人間の一般人並の力になってしまうと思う。それを承知で、使徒の庇護を引き受けてくれる堕天使が必要」
「……それは難しいですわね」
ノエルの話を聞いて、フロリーヌは思わず唸ってしまう。
堕天使とは、天界から常に命を狙われている存在だ。
だから只でさえ危険な身の上だというのに、堕天使は天界から離叛した影響で力を衰退させており、人間の撃退士と変わらないぐらいの力しか持っていなかった。
使徒を迎え入れて、何の力もない普通の人間並の力になってしまえば、もはや自力では逃げることすら出来なくなる。
久遠ヶ原学園にいる堕天使は撃退士に保護されいるが、それでも命を狙われる身としては、これ以上力を失いたくないだろう。少数ながら、学園の生徒の中にも天魔に恨みを抱いている者がいたりするので、そっちも気をつけなくてはならない。
以上のことを踏まえると、堕天使にとっては単なる赤の他人でしかない黒塚比奈を救うのに、協力してくれる者がいるとは思えなかった。
のだが――
「そこで提案なのだけれど、幾つかの条件を呑んでくれるなら、私が貴方の友人を庇護してもいい」
「え、いいんですか?」
ノエルからの申し出に、栞は目を丸くする。
どちらにせよ堕天使に頼んで回るつもりではいたが、ノエルが自分から引き受けてくれるとは考えていなかったのだ。
でも当然、無条件ではない。相手は自分の身を守る力を失ってしまうのだから、それに見合う対価を求められるはずであった。
それぐらいは栞も理解しているし、ノエルから庇護の話を聞いた時点で覚悟もしている。
むしろ、何も要求されない方がかえって疑わしく思ってしまうだろう。
だがフロリーヌは、ノエルの提案に少し警戒心を含ませた声を上げた。
「その条件とはなんですの?」
元天使だった者が相手を騙そうとするとは思えないが……念のため、何かを企んでいればすぐに看破できるよう、目を細めて注視する。
例えどんなに無茶な要求をされても、今の栞ではあっさりと呑んでしまいそうなのだ。だからフロリーヌは、いざとなれば無理にでも栞を止めるつもりであった。
「私が提示する条件は三つ」
部室に張り詰めた空気が漂う中、ノエルは二人に見えるように三本の指を立てる。
「使徒を庇護すれば、私は今以上に弱くなってしまう。だからもし学園で何かがあった時は、私を優先して守って欲しい。それが一つ目の条件」
言いながら、ノエルが一つ指を折った。
栞としては、彼女が条件として出さなくても最初から守るつもりでいたので、これは問題ない。もしノエルが栞の願いを引き受けてくれたなら、比奈を救うことに協力してくれたという恩もできるし、何よりノエルの身に何かがあれば、彼女に庇護されている使徒にも影響があるのだ。
つまりノエルを守ることは、同時に比奈も守ることになるのである。ならば、栞がノエルを助けないわけがない。
このことは彼女も理解しているのか、特に言葉を挟むこともなく次の条件を口にした。
「二つ目の条件は、私の創設した部活に入ること。部員が私しかいないから、人手がなくて困っている」
「え、一人なのですか?」
「うん」
ノエルはあっさりと頷いたが、久遠ヶ原学園で作った部活を存続させるには、常に最低でも三人の部員が必要なはずである。
さりげなく規約違反を暴露しながら二本目の指を折る彼女に、栞は首を傾げた。
「入部するのはいいんですけど……此処は何をする部なのですか?」
「意中の人を魅了する術を研究している」
「……文芸部じゃなかったんですか?」
「それは名前を借りただけ」
薄々勘づいてはいたが、活動内容の詐称まで発覚して栞とフロリーヌは頬を引き攣らせる。
そんな二人の反応を気にした様子もなく、ノエルは平然と話を続けた。
「ネットで文芸部は真面目でお淑やかなイメージがあると聞いたから……聡人くんの好みと一致すると思った」
彼女の言葉の中から知らない人物の名前を聞いて、栞は小さく首を傾げる。
「聡人とは、誰なのですか?」
「日下部聡人。中等部三年の生徒で、凄く優しくて格好いい人」
その男子生徒の名前を口にした所で、ノエルが僅かに微笑んだのを目聡く察したフロリーヌが、急に身を乗り出した。
「その方とはご友人……いえ、恋人ですの?」
「違う。今はまだ片思い」
人間の男に好意を抱いていることを告白して、無表情のまま頬を赤く染めるノエルに、フロリーヌと栞は意外そうに目を丸める。
久遠ヶ原学園では人間と天魔が結ばれた前例があるし、天魔と人間の間に子供を儲けることも不可能ではないらしい。でも非常に珍しい事例であることには違いないので、二人は自分が実際に目の当たりにするとは思っていなかったのだ。
そういった色恋沙汰には人並み以上に関心があるフロリーヌは、興味津々といった様子でノエルの話について食い付いた。
「なら今のご関係は? 出会いはいつですの?」
「彼と初めて会ったのは六年前。でも向こうは、覚えていないみたい」
ノエル曰く、日下部聡人なる人物とは彼女が人間界に来た時に偶然出会ったそうだ。
その六年後にノエルが天界から離叛し、久遠ヶ原学園に来てから彼と再会するも、相手は彼女を覚えていなかったらしい。
人間の魂を搾取していくことに反発した変わり種の天使。フロリーヌが言っていたその情報を思い出して、栞はあることに気が付いた。
「もしかして、貴方が天界から離叛したのは――」
「うん」
栞が言い掛けた言葉を、ノエルは肯定する。
聞けばこの部活動も、彼女が抱く聡人への思いが暴走した結果のようだった。
というのも――
「この部活を創って色々と研究した。例えば、今の私は髪を染めているし瞳の色も鳶色にしている。この国の男の人は、黒髪ロングが似合う女の子が好きらしいから」
「もしかしてその格好も?」
「うん、男は尽くしてくれる女に弱いと読んだ本にあった」
そう言って、ノエルは空いた手でメイド服の裾を軽く摘んでみせた。
続けて、傍に置いてあったギターを軽く持ち上げる。
「あと歌が上手いとモテるらしい。テレビで、歌を披露して多くの男の人に声援を送られている女性を見た。あれは凄かった」
アイドルの出演している番組でも見たのだろうか?
読んだ本といい、ネットといい、どうやらノエルの情報源には、色々と深刻な過ちがありそうだった。
「ちなみに、男性は力の弱い女の子を見ると守ってあげたくなる……らしい」
「…………え? もしかして、比奈の件はそれで協力してくれると言ったのですか?」
「うん。ついでに、私の博愛ぶりもアピールできる」
「……」
事も無げに肯定したノエルに、栞は言葉を失う。
つまり彼女は、相手の気を引くためにわざと力を手放そうとしているようだった。
天使には、激情家が多いとよく言われている。その典型的な例を体現したかのような、少しばかり重すぎる愛に、こういった話が好きなはずのフロリーヌも若干引いてしまっていた。
「というわけで二人には、私と聡人くんが両思いになれるよう手伝って欲しい」
最後の条件を提示して、ノエルが三本目の指を折る。
彼女の類い希な容姿からすれば、相手を口説き落とすのも簡単そうなのだが……どうしてか最後の条件は、凄まじく達成が困難な気がした二人であった。




