第十一話
僅か数日前に栞達が参加した任務は、撃退士から多くの死者を出した惨劇として、久遠ヶ原学園中の生徒達に知れ渡っていた。
ゲートの破壊に失敗し、ある程度の「収穫」を完了させた天使が、作成したゲートを休止させたことで幕を閉じた戦い。
全滅こそ免れたものの、これは撃退士側の明らかな敗北だった。
勿論、この敗戦で大切な人を失ったのは栞だけに限らない。
多くの生徒や学園関係者が悲嘆に暮れており、いつもなら一日でもっとも騒がしくなる放課後の学園校舎も、どこか暗い影が落ちていた。
そんな、喪に服しているかのように粛々とした空気の漂う廊下を、栞とフロリーヌの二人は進む。
彼女達は今、広大な久遠ヶ原学園の校舎の中でも、様々な部活動などに対して部屋を貸し与えている区画へと来ていた。
入学してからずっと部活には入っていなかった栞は、物珍しそうに辺りに視線を彷徨わせながら、隣のフロリーヌに話し掛ける。
「此処に、件の堕天使がいるのですか?」
「ええ。私が聞いた話によりますと、彼女は自分が創設した部活動の部室で一日の大半を過ごしているそうですわ」
自分のクラスメイトから得た情報を口にしながら、フロリーヌは頷いた。
堕天使とは、それぞれ個人的な理由によって天界の支配体系から離脱し、人間側に所属している天使のことだ。
彼ら、もしくは彼女らは、天界から裏切り者として徹底的に命を狙われる上に、離脱の影響で著しく力を減退させてしまう。
だから堕天使となった者は、まず人間側の対抗勢力である撃退士の組織に庇護を求める者が多かった。
今から二人が会おうとしているノエルという名の天使も、その堕天使の一人である。
天使によって使徒になった比奈を救う方法を探すなら、まずは元天使であった者に相談しようと思い至ったのだ。
ただ天界から離叛しているといっても、利害が一致しているだけで決して人間に好意的ではない堕天使も多い。中には天界に所属していた頃のように、人間を下等だとあからさまに見下している輩まで存在していた。
悪魔と違って、天使は相手を騙すといった行為を厭う傾向があるが、相談する相手を間違えればどうなるか分からない。
そんな堕天使達の中でも、ノエルは人間に対して特に友好的であるらしい。
天界から離叛した理由も、人間への親愛から魂を搾取することに強く反発したからという、同じ堕天使から見ても理解し難い変わり者である。
故にノエルという名の堕天使は、人間にとって非常に好ましい相手である……はずなのだが――
「……ところでフロリン、そのノエルさんはどういった部活動をしているのですか?」
「私は文芸部だと聞いていますが……」
件の堕天使が久遠ヶ原学園に来てから創設したという部活に、割り当てられた教室の前。
引き戸の枠組みに紙を張った、襖と呼ばれる和式の扉を見て、二人は揃って立ち竦んでいた。
学園校舎の教室を手を加えずに流用している他と違って、明らかにこの部分だけ壁ごと和室に改造されている。
その外観を眺めて、栞は不思議そうに首を傾げた。
「文芸部というよりは、茶道部や華道部といった感じに見えますが」
「ええ、私にもそう見えますわ。でも……」
フロリーヌが言葉を止めると、部屋の中からギターのものらしき音が聞こえてくる。中で何者かが演奏をしているようだが、耳に届く音は小さく、騒音にはなっていなかった。
どう考えても普通の襖ではありえない防音性が気になって、栞は扉を軽く小突いてみる。
すると返ってきた音は、目の前の襖が木製に見せかけた分厚いスチール製であることを示していた。
どうやら最初から中で大きな音を出すことを前提に作られていたらしい部屋に、栞は頭に浮かぶ疑問符の数をさらに増やす。
「私は部活のことに詳しくないのですが、文芸部とは普段から楽器を演奏したりするのでしょうか?」
「さ、さあ? 私も部活にはあまり興味がありませんでしたので、活動内容の詳しいところまでは知りませんの」
言いながらフロリーヌは来る場所を間違えた可能性も考えたが、部室の入り口にある室名札には、しっかり文芸部と書かれてある。
二人が襖の前で戸惑っている内に、やがて部屋の中からギターの演奏に加えて少女のものらしき歌声も響いてきた。
透き通るような美声によって紡がれる……思わず眉間に皺を寄せてしまうような不協和音が、二人を襲う。
音程を乱して裏返ったり苦しそうな声を繰り返す歌は、まるで死ぬほど憎い相手に対して怨念の込められた呪詛を唱えているようでもあった。
耳がその小さな音の切れ端を拾うだけでも、背中に無数の虫が這い上がってきたかのような悪寒を感じてしまう。
なまじ声自体は綺麗なだけに、呪いの歌の醜悪さに磨きが掛かっていた。
もはや狙ってやっているようにしか思えない壮絶な歌に、二人は思わず顔を見合わせる。
「……相談は他の堕天使にしませんか?」
「気持ちは理解できますけど……他に信用できる堕天使を探すとなると、相談に乗ってもらえるまでしばらく時間が掛かりますわよ?」
フロリーヌにそう言われると、栞はゴクリと唾を呑み込んで、未だおぞましい歌が響き続けている部室を見つめた。
比奈を失ってからずっと胸の中で燻っている焦燥感に背中を押され、おそるおそる襖に手を掛けてゆっくりと横に滑らせる。
途端、遮るものを無くした呪歌が、大きさを変えて栞の耳に飛び込んできた。
全身に鳥肌が立つほどの気持ち悪さに思わず耳を塞ぎそうになるものの、その前に中で行われていた演奏がピタリと止んだ。
「……誰?」
代わりに聞こえてきた短い声に、栞は顔を上げて目を向ける。
部屋の中には、畳の上に置かれたティーテーブルの上に佇む、少女の姿があった。
肩にはアンプに繋がれた赤いエレキ・ギターが掛けられてある。
「すみません、少し相談事があってお訪ねしたのですが……」
言いながら、栞は少女の立っているテーブルの下を見た。
彼女の体重を支える三脚台が畳の上に直置きされており、傷で荒れた畳表がささくれ立っている。
辺りを見回すと、他にも明らかに和室に似つかわしくない調度品が散乱していた。
雅な床の間に金縁の大きな油絵が飾られてあったり、和風の敷物の上に洋風のティーポットが置かれてあったりと、国籍もバラバラで全く統一感がない。
そもそも少女の服装が、黒のワンピースに白のエプロンドレスといった所謂メイド服であり、和室の雰囲気とは欠片も調和が取れていない。
思わず眉を顰めてしまいそうになる有様だが、部屋の主が人間の住む世界について疎いであろうことを考えば、納得できる部屋の内装だった。
例えるなら海外で作られた映画に登場する忍者が、何故か両手に中国刀を構えていたりするのと同じ感覚である。
ある意味で、実に天使らしい部屋だと言えるだろう。
でも栞は、少女の顔を見て自信なさげに尋ねた。
「あの、ノエルさんですか?」
異常なほどに整った顔立ちや感情の薄そうな無表情は、どこか人間離れしていて、いかにも天使らしく見える。だが彼女の背中に翼はなく、さらには長く艶やかな黒髪に鳶色の瞳と、実に日本人らしい容姿をしているせいで、相手が天使かどうかの判断が出来なかったのだ。
栞のそんな疑問は、少女が頷いたことであっさりと答えが出た。
「うん、私がノエル。……貴方達は?」
「中等部三年の、九条栞です」
「同じく中等部三年の、フロリーヌ・ドラクロワですわ」
それぞれ自己紹介を終えると、栞は早速用件を切り出そうとして……
「今日は――」
「待って」
ノエルによって制止された。
「言わなくても分かる。貴方達の目的も、伝えたいことも……私は既に知っている」
「……え?」
「大切な人と、やり直したいのでしょう?」
「なっ」
ノエルの発言に、栞は絶句した。隣のフロリーヌも、同じように目を見開いて驚いている。
(心……いえ、私の記憶を読んだのでしょうか?)
透過能力をはじめとした、人知を越えた様々な力を駆使すると言われている天魔。
ノエルも元天使であり、特殊な力を持っているのだろう。改めてその得体の知れ無さを実感して、栞は戦慄する。
一度天使と遭遇したことで理解した気になっていが、まだ甘かった。さらに言うなら、相手が久遠ヶ原学園に庇護されている堕天使ということで、心の弛みもあったのだろう。
栞は畏れを心の奥に押し込み、気を引き締め直す。
彼女のそんな反応を見て、ノエルの唇が微かに笑みを形作った。
「顔を見れば分かる。目に宿った情熱と、その奥に見え隠れする焦り……貴方はとても、恋焦がれる女の表情をしている」
「……んん?」
相手の妙な言い回しに違和感を覚えたところで、ぴらりと一枚の紙がノエルの足元から零れ落ち、丁度二人の前へと舞い下りる。
何気なく栞が目を向けると、「恋した相手を振り向かせたいと思っている人、募集中!」という文字が見えた。
「入部希望者が二人も……チラシを作った甲斐があった」
「…………」
勘違いだった。
無駄に緊張させられたことで、栞は脱力感を覚えて項垂れる。見ればフロリーヌも、頭痛を堪えるように指で額を押さえていた。
芳しくない彼女達の反応には気が付かずに、ノエルはティーテーブルから飛び降りてギターを軽く掻き鳴らす。
「でも、残念ながら私の部は誰でも入れるわけじゃない。此処は、愛に生きる者の聖域。まずは入部条件である女子力を測るテストを――」
「いえ、違います。入部希望者じゃないです」
色々と気になる単語が飛び出した気がするが、栞はあえて無視した。
途中で言葉を遮っての否定に、ノエルは少し考えるような素振りを見せてから、話を続ける。
「つまり、既に入部済み?」
「部員でもありません」
「……体験入部?」
「それも違います」
「……顧問の先生?」
「私は生徒です」
「……入部希望者?」
「最初に戻らないで下さい」
再度の否定でようやく理解したのか、ノエルは顔を俯かせた。
そして無表情のまま、上目遣いで二人を見つめる。
「じゃあ、勧誘する。入部して欲しい」
「すみませんが、文芸部に興味はありません」
この部活が本当に文芸部なのかどうか疑わしいが、元より栞は部活自体に入る気がないのでキッパリと断った。
すると、ノエルは不思議そうに瞼を瞬かせて首を傾げる。
「文芸部?」
「違いますの? 私は此処が文芸部だと聞きましたし、表にもそう書かれてあるように見えましたけれど?」
フロリーヌの問いに、ノエルは顎に指を添えてしばらく考え込んだ後、手の平をポンと叩いた。
「そういえば、文芸部だった」
「忘れていたんですか……」
「ところで、文芸部はどんな活動をするの?」
「……自分で調べて下さい」
本当に、この堕天使に相談して大丈夫なのだろうか?
凄まじく浮世離れしたノエルの様子に、栞は最初の印象とは違う意味で不安になった。




