第十話
自分以外の誰もおらず、静まり返った寮の一室にて、カンヘルはいつものように台所にて鍋と向かい合っていた。
中の出汁を沸騰させ、具材に十分な熱を通してから一度火を止める。
そうして沸騰を鎮めてから味噌を溶き入れ、今度は煮立たないように慎重に火を入れ直した。
水面が揺れ始める直前を見定めるべく気を張りながら、ちらりと横目で壁にある時計へと視線をやる。
時計の針は丁度、いつも黒塚比奈という少女が朝の走り込みから帰ってくる時間を示していた。
支度に掛かる時間などを考慮して、学校へと登校する際に少し余裕ができる程度の時間帯。
この時間には準備を始めておかないと、遅刻してしまう可能性が出てくるのだが……待ち人は、未だ帰ってこなかった。
(何やってんだ? あいつ……)
自分への不当な扱いに対して強い不満を感じており、あまり良い印象を抱いていない少女。
でもどうしてか、彼女が少しばかり予定の時間に帰ってこないだけで、カンヘルは妙に落ち着かない気分になってしまう。
やがて味噌汁の表面が微かに揺れて、旨味と風味を保てるベストのタイミングで火を切った頃。同時に、カンヘルの胸中で燻る不安が自覚できる程にまで膨らんだ所で、彼の耳が騒々しい足音を捉えた。
その足音が部屋の扉の前に到達すると、バタンッと派手な音を立てて、二人の少女が姿を現す。
玄関に視線をやったカンヘルは、帰ってきた自分の主に声を掛けた。
「おう、やっと帰ってきたか。朝飯はもう出来てるぞ……って、どうしたんだ?」
「……」
迎えの言葉に、返事はない。
いや、正確には返事をしている余裕がないのだろう。ぐったりと項垂れた相手の肩を担いで部屋に入ってきたフロリーヌは、声も出せない様子の栞に呆れた表情を浮かべていた。
「まったく、偶然私が通り掛かったからよかったものの……やる気になったのは良いことですけれど、まず貴方は加減というものを覚えなさいな」
今日は随分と朝早くから走り込みに行っていた彼女に、そう忠告する。
どうやら限界を大きく超えて体を動かし続けたせいで、途中で倒れてしまっていたらしい。今も、フロリーヌの補助がないと歩けない程に疲弊しているようだった。
息も絶え絶えといった様子の栞は、寮の自室に帰り着いたのを認識するなり、力を振り絞ってフロリーヌの肩から離れようとする。自力では立てないせいか、その場にドスンと音を立てて尻餅をついた。
彼女の唐突に思える行動に、フロリーヌは戸惑った声を掛ける。
「栞さん?」
「シャ、ワー……を……浴びて、きま……す」
絞り出すように声を出すと、栞はズルズルと這い蹲って床の上を移動した。
どうにか浴室へと入っていく彼女を小さく溜息をつきながら見送ると、フロリーヌは台所に立つ男に視線を向ける。
「後は頼みましたわよ」
そう言って背を向けるフロリーヌを、カンヘルは呼び止めた。
「おい、お前はもう朝飯は食ったのか?」
「いえ、まだですけれど……」
話し掛けられると思っていなかったのか、少しだけ驚いた様子でフロリーヌが振り返ると、カンヘルはいつも朝食を並べている机を指差した。
「じゃあ、丁度良い。食ってけ」
「いいんですの?」
「ああ、どうせ余る」
「……?」
カンヘルの言葉の意味がよく理解できず、フロリーヌは首を傾げる。
やがてシャワーを浴び終えて栞が少し体力を回復させた後、彼女と向かい合って食卓に着いたフロリーヌは、机上に並んだ料理の量に頬を引き攣らせた。
大きな茶碗に山なりに盛られた白米と、四人掛けの机に所狭しと置かれた様々な料理。それも朝から食べ応えのありそうな肉類中心のメニューに、フロリーヌは空腹にも関わらず食欲が失せそうになる。
「貴方、これだけの量を一人で食べられますの?」
「朝はちゃんと食べておかないと、訓練の時に体が動きませんから」
栞は手を合わせて食前の挨拶を済ませると、用意された朝食をもりもりと口に詰め込んでいく。咀嚼している速度よりも箸のほうが速く動くせいで、彼女の頬がどんどん膨らんでいった。
(……そんなに美味しいのかしら?)
お世辞にも行儀が良いとはいえない栞の食べっぷりを眺めて、フロリーヌもおずおずと手近にあったお椀を手に取った。中の味噌汁に口を付けると、天然味噌による極上の風味と独特な旨味が舌の上で広がり、思わず驚愕から目を見開く。
(お、美味しい……)
続けて他の料理も口に運んでみると、また先程と同じように瞼を瞬かせて驚いた。
自らの作った料理を美味しそうに食べ始めた彼女らの様子に、カンヘルは満足げに頷き……自分が家事をさせられている状況を受け入れつつあることに気が付いて、絶望したように頭を抱える。
だが、食べるのに夢中になっている二人は全く気が付かない。
しばらく会話のない時間が室内に流れ、やがて自分の分でないオカズに伸びてきた栞の箸とフロリーヌの箸が衝突した所で、一旦二人の食事音が途絶えた。
ギリギリと箸同士で押し合いながら、両者が睨み合う。
「行儀が悪いですよ、フロリン」
「堂々と込み箸を披露していた貴方に作法を説かれたくありませんわ。あとフロリンはやめて下さいまし」
箸を引こうとしない栞に、フロリーヌの語気が段々と強くなっていく。彼女の怒気に呼応しているかのように、栞も負けじと視線と箸に力を込めた。
「私は、そのオカズを取ろうとしただけなのですが」
「これは私の分ですわよ」
「量の多さに不満を漏らしていましたから、私が食べてあげようかと」
「お気遣いどうも。でも、心配には及びませんわ。私も健啖家ですので」
「……元々、これは全部私が食べる予定だったのです。本来ならそれも、私のオカズだったのですよ」
「この量を? 正気ですの?」
呆れから力を弱めた隙に、栞は目的のオカズを素早く接収していく。
彼女の様子がおかしいことに、ようやく気が付いたフロリーヌは、黙って栞の行動を見送ってしまった。
盗ったオカズを口に含んだ所で、ふと唐突に栞の動きが止まる。
手で口を抑えて、しばらく顔色を青くしながら何かを堪えていたが……やがて持っていた箸を手放すと、勢いよく椅子から立ち上がった。
どこか慌てた様子でトイレへと駆け込んで行った彼女の背中を見届けると、フロリーヌの頭にほぼ確信に近い疑惑が浮かぶ。
「もしかして、栞さんは――」
「少なくとも昨日までは、朝は味噌汁しか飲まないぐらい少食だったな」
「……そう」
栞の異変を理解した上で、この量の料理を作ったカンヘルに、フロリーヌは責めるような視線を向けた。
彼女の反応に、カンヘルは少しバツが悪そうにしながらも肩を竦める。
「作れって命令されたら逆らえねーんだよ」
「……ごめんなさい、そうでしたわね」
召喚獣は、主の命令には逆らえない。態度に出したり口で文句ぐらいは言えるが、この世界においてカンヘルと栞は対等な立場には成り得ないのだ。
でも彼は彼なりに栞を心配しているらしく、カンヘルは歯痒そうに目を細めた。
「このままじゃ、近いうちに体を壊すだろうな。でも、俺様じゃ止められねぇ。……こういう時のあいつは、ひたすら頑固だからな」
「だからといって、今のまま放置してるわけにもいきませんわ」
フロリーヌは手に持っていた箸を置くと、額に指を添えて考え込んだ。
栞が焦ってしまう気持ちは、理解できる。
使徒になってしまった黒塚比奈は、これから天使の手先として【ゲート】を守護する側に回るだろう。それ以外の時は、特殊な任務でもない限り天界から出てくることはない。
つまり比奈の行方を捜すには、久遠ヶ原学園から紹介される依頼を受けることで【ゲート】付近に張られている結界をくぐる許可を貰い、現地に赴くしかないのだ。
今のCクラスでも任務には行けるが、受ける依頼を自由に選ぶことはできない。
より効率的に比奈を捜すなら、天界側が関わっている依頼だけを選べる、Bクラス以上が望ましいだろう。
だから栞は、次の査定でBクラス以上に入ろうと意気込む余り、空回りしてしまっているのだろうが……
(でも多分、それだけではありませんわね)
フロリーヌは、栞の髪型が変わっていたことに思い至って瞳を伏せる。昨日までは特に何か手を加えることもなく下ろしていた彼女の髪は、今日になって一部を左右で束ねたものになっていた。
栞の頭にある、二つの髪留め。
それが誰を示唆しているのかを察して、フロリーヌは溜息をつく。
(私は一緒にと言いましたのに……)
フロリーヌは、栞の目的に協力するつもりである。
黒塚比奈を救うべく、自分は彼女の隣に立ったつもりでいたのだ。
でもどうしてか栞は、頑なに一人で前に進もうとしているようだった。彼女がこうなってしまった原因も、なんとなくだが想像がつく。恐らくは、比奈と最後に対面した時に言われたことが相当堪えたのだろう。
だから――
「……一つ、頼みごとがありますの」
「ん?」
栞がトイレから出てくる前に、フロリーヌはカンヘルへと相談を持ち掛けたのだった。




