婚約破棄の現場に居合わせたモブ令嬢ですが、その証言ひとつで王子の人生が終わりました
その夜、わたくしイルマ・レーヴェン子爵令嬢は、壁だった。
正確に言えば、王立学園の卒業記念舞踏会に出席している一人の令嬢ではあった。だが、誰からもダンスに誘われず、誰からも話しかけられず、会場の隅で蜂蜜菓子をつまんでいる時点で、ほとんど壁と同義である。
壁には壁の楽しみがある。
誰が誰を見ているか。
誰が誰を避けているか。
誰が笑顔の裏で扇を握り潰しているか。
貴族社会とは、そういうものを観察するだけで一晩退屈しない。
ましてや今夜は、第一王子エドガルド殿下と、その婚約者であるクラリッサ・ヴァンディール公爵令嬢が揃って出席する最後の学園行事だ。
金髪碧眼の王子と、銀髪紫眼の公爵令嬢。
並べば絵画のように美しい二人である。
ただし、その二人の間には、近頃すきま風どころか吹雪が吹いていた。
理由は簡単。
エドガルド殿下の隣に、いつもメリナ・トロワ男爵令嬢がいたからだ。
桃色の髪に、潤んだ大きな瞳。守ってあげなければ折れてしまいそうな細い肩。
男性方から見れば庇護欲をそそる可憐な少女で、女性方から見れば「ずいぶん都合よく転ぶ方ね」と言いたくなる令嬢である。
まあ、わたくしのようなモブには関係ない。
そう思い、わたくしは蜂蜜菓子の二つ目に手を伸ばした。
その時だった。
「クラリッサ・ヴァンディール!」
会場の中央で、エドガルド殿下が高らかに声を上げた。
楽団の演奏が止まる。
ざわめきが広がる。
人々の視線が、一斉に中央へ集まった。
ああ、始まった。
わたくしは蜂蜜菓子を口に入れた。
こういう時、菓子は先に食べておくに限る。驚いて落とすと悲しいからだ。
「君のような冷酷な女を、私は王妃にすることはできない!」
エドガルド殿下は、メリナ男爵令嬢の肩を抱き寄せながら言った。
クラリッサ様は、静かに彼を見ていた。
白いドレスに、最低限の宝飾。背筋はまっすぐで、表情は凪いでいる。
断罪されている側とは思えないほど、美しかった。
「殿下。突然何のお話でしょうか」
「しらばっくれるな!」
エドガルド殿下は片手を振り上げた。
「君はメリナを階段から突き落とした。彼女の教本を破り、ドレスを汚し、果ては奨学金の帳簿に不正を行った。さらには私に毒を盛ろうとした疑いまである!」
会場が大きくどよめいた。
階段。
教本。
ドレス。
奨学金。
毒。
ずいぶん盛ったものだな、とわたくしは思った。
料理なら味が濃すぎる。
「よって、私はこの場で君との婚約を破棄する!」
メリナ男爵令嬢が、殿下の胸元で震えた。
「殿下……私のために、そこまで……」
「メリナ、もう怯えなくていい。君を苦しめた悪女は、今ここで裁かれる」
会場の貴族たちがざわめく。
何人かは痛快そうに笑い、何人かは顔色を青くし、何人かは扇の奥で目を輝かせていた。
卒業舞踏会で王子が婚約破棄。
しかも相手は公爵令嬢。
この場にいる者たちは皆、明日の社交界で語る土産話を得たと思っているのだろう。
だが、クラリッサ様は一歩も動かなかった。
「殿下」
その声は、会場の隅までよく通った。
「それらの罪状に、証拠はございますか」
「もちろんだ!」
エドガルド殿下は勝ち誇ったように笑った。
「証人もいる。そうだな、レーヴェン子爵令嬢!」
突然、会場中の視線がわたくしに刺さった。
わたくしは三つ目の蜂蜜菓子に伸ばしかけた手を止めた。
誰?
わたくし?
なぜ?
いや、名前を呼ばれた。間違いなく、わたくしである。
レーヴェン子爵家は、古くも強くもない地方貴族だ。王都ではほとんど存在感がない。
わたくし自身も、学園では特に目立たない。
成績は上位だが首席ではなく、容姿は悪くないが美女ではなく、家柄は中の下。
踊りに誘われるほど華やかでも、いじめの対象になるほど目立つわけでもない。
まさに、どこにでもいるモブ令嬢である。
「こちらへ来い」
エドガルド殿下が命じた。
わたくしは、内心でため息をついた。
壁でいたかったのに。
せめて四つ目の蜂蜜菓子を食べてからにしてほしかった。
わたくしはスカートをつまみ、会場中央へ進み出た。
「レーヴェン子爵令嬢。君は見ただろう?」
殿下は堂々と言った。
「クラリッサが、メリナを中庭で脅していたところを」
メリナ男爵令嬢が、潤んだ瞳でわたくしを見た。
「イルマ様……お願いです。怖がらないで、本当のことを言ってください」
ああ。
なるほど。
わたくしは理解した。
彼らは、わたくしを証人に選んだのだ。
目立たず、後ろ盾も弱く、王子に逆らえないモブ令嬢。
そう思ったのだろう。
確かに、わたくしはあの日、中庭にいた。
クラリッサ様とメリナ男爵令嬢が話している場面を見ていた。
だから殿下は、わたくしに都合のいい証言をさせるつもりなのだ。
わたくしは殿下を見た。
次にクラリッサ様を見た。
クラリッサ様は、ほんのわずかに目を伏せただけだった。
助けを求めてはいない。
弁明もしない。
ただ、事実が語られるのを待っている。
ならば仕方ない。
わたくしは両手を前で重ね、深く礼をした。
「承知いたしました、エドガルド殿下」
殿下が満足げに頷く。
「わたくしが見たことを、ありのまま申し上げます」
会場が静まり返った。
わたくしは顔を上げた。
「まず、中庭でクラリッサ様がメリナ様を脅していた、という事実はございません」
空気が止まった。
エドガルド殿下の笑顔が固まる。
「……何?」
「わたくしが見たのは、メリナ様がクラリッサ様に対し、『殿下はもう私のものです。公爵令嬢だからといって、いつまでも上から見下ろせると思わないでください』とおっしゃっている場面でございます」
メリナ男爵令嬢の顔色が変わった。
「う、嘘です!」
「その後、メリナ様はご自分で足元の植木鉢を倒し、悲鳴を上げて座り込まれました。クラリッサ様は手を触れておりません」
「違います! 私は突き飛ばされて……!」
「その時、庭師のトマスが南側の生垣を剪定しておりました。彼も同じ場面を見ております」
会場のざわめきが変わった。
好奇のざわめきから、不審のざわめきへ。
エドガルド殿下が声を荒らげた。
「レーヴェン子爵令嬢! 君は何を言っている! 私が聞きたいのはそんな話ではない!」
「殿下は、わたくしに本当のことを言えとお命じになりました」
わたくしはにこりと笑った。
「ですので、本当のことを申し上げております」
クラリッサ様の口元が、わずかに動いた。
笑ったのかもしれない。
「次に、教本を破られた件ですが」
「もういい!」
「よくありません」
わたくしは穏やかに続けた。
「メリナ様の教本を破ったのは、メリナ様ご自身です」
「そんなわけがないだろう!」
「破れた教本は図書塔三階の閲覧席に置かれていました。わたくしはその日、同じ階で古代法の写本を読んでおりましたので、はっきり見ております。メリナ様は小型の文具ナイフで教本の背を裂き、その破片をクラリッサ様の机に忍ばせました」
「でたらめよ!」
メリナ男爵令嬢が叫んだ。
「証拠はあるのですか!」
「ございます」
わたくしは懐から小さな青い石を取り出した。
記録石。
王立学園の図書塔で貸し出される、閲覧記録用の魔道具である。
「わたくしは卒業論文のため、図書塔での研究記録を残しておりました。そこに、偶然映っております」
メリナ男爵令嬢の唇が震えた。
エドガルド殿下の顔が赤くなる。
「なぜそんなものを持っている!」
「返却期限が明日の正午でございましたので」
嘘ではない。
本当に返却期限は明日の正午である。
「では、ドレスを汚された件について申し上げます」
わたくしが続けると、エドガルド殿下が一歩近づいた。
「黙れ、レーヴェン子爵令嬢!」
「殿下」
その時、別の声が響いた。
会場の入り口に、深緑の礼服を着た壮年の男性が立っていた。
王国宰相、オズワルド侯爵である。
その隣には、王宮警備隊長と、法務院の書記官が控えていた。
会場中が息をのむ。
「続けなさい、レーヴェン子爵令嬢」
宰相は静かに言った。
エドガルド殿下が目を剥いた。
「宰相! これは私の婚約に関する問題だ!」
「いいえ、殿下」
宰相の声は冷たかった。
「王位継承権第一位である殿下が、公爵家との婚約を公衆の面前で破棄し、複数の罪状を挙げた。これはすでに、個人の婚約問題ではございません」
殿下の顔から血の気が引いた。
わたくしは宰相に一礼した。
「では、続けます」
ドレスを汚された件。
それは、メリナ男爵令嬢が自ら葡萄酒を袖に垂らし、クラリッサ様にぶつかられたと騒いだものだった。
奨学金の帳簿不正。
それは、殿下の側近が帳簿から三名分の奨学金を抜き取り、メリナ男爵令嬢の装飾品代に充てていたものだった。
毒を盛ろうとした疑い。
それは、毒ではなくクラリッサ様が王太后殿下のために取り寄せた薬草茶であり、処方記録も薬師の署名も残っていた。
話せば話すほど、会場の空気が冷えていく。
最初は娯楽として断罪劇を見ていた貴族たちも、次第に顔色を変えていった。
これは笑い話ではない。
王子が、婚約者である公爵令嬢を陥れるために、冤罪を作り上げた。
しかも、王家の奨学金にまで手を出している。
貴族にとって何より重いもの。
それは名誉であり、信用であり、家同士の契約だ。
エドガルド殿下は、そのすべてを舞踏会の中央で踏み潰したのである。
「待て……私は知らない」
殿下は呟いた。
「奨学金のことなど、私は知らない。側近が勝手に……」
「殿下」
わたくしは首を傾げた。
「三日前の午後、東回廊の小会議室で、殿下は側近のダリウス様にこうおっしゃいました」
わたくしは一拍置いた。
「『多少の金など後でどうとでもなる。今はメリナを公爵令嬢に虐げられた哀れな少女に見せることが先だ』と」
会場が完全に沈黙した。
「な、なぜ……」
殿下が震える声で言った。
「なぜ君がそれを知っている」
「隣の資料室におりましたので」
「資料室には鍵がかかっていた!」
「はい」
わたくしは頷いた。
「わたくし、王立法務院の臨時書記見習いでございます。卒業前研修として、学園内の契約書類整理を任されておりました」
殿下は絶句した。
メリナ男爵令嬢も、ぽかんと口を開けている。
無理もない。
彼らにとって、わたくしはただのモブ令嬢だったのだ。
だが実際には、わたくしは法務院の書記官を目指している。
王国法、契約法、証言規則、貴族間婚姻契約の取り扱い。
そういう地味なものが好きで、三年間ずっと勉強していた。
そして法務院の書記見習いには、ある義務がある。
不正を見聞きした場合、記録し、上官へ報告する義務だ。
「もちろん、わたくし一人の証言だけで殿下を罪に問うことはできません」
わたくしは宰相を見た。
「ですが、庭師トマスの証言、図書塔の記録石、薬師の処方記録、奨学金帳簿の改竄跡、側近ダリウス様の出入り記録。必要なものは、すべて法務院へ提出済みです」
宰相が頷いた。
「確認している」
その一言で、終わった。
エドガルド殿下の人生が。
王子としての未来が。
王位継承者としての道が。
「違う……違うんだ、父上に説明すれば……」
殿下は後ずさった。
「私はメリナを守ろうとしただけだ! クラリッサが冷たいから悪い! 彼女はいつも正しくて、私を見下して……!」
クラリッサ様が、初めて表情を変えた。
怒りではない。
悲しみでもない。
ただ、深い失望だった。
「殿下」
彼女は静かに言った。
「わたくしは、あなたを見下したことなど一度もございません」
「嘘だ!」
「王太子教育を嫌がるあなたに代わり、外交資料をまとめました。議会で恥をかかぬよう、想定問答を作りました。あなたが覚えきれない貴族名鑑に印をつけました。すべて、あなたが将来王となるために必要だと思ったからです」
殿下は唇を噛んだ。
「それが、見下しているということだ!」
ああ。
わたくしは思った。
この方は、助けられていたことに耐えられなかったのだ。
自分より優秀な婚約者を愛せなかった。
だから、自分を頼ってくれる可憐な少女へ逃げた。
それだけなら、よくある愚かな恋で済んだかもしれない。
だが彼は、クラリッサ様を悪女にしようとした。
自分の劣等感を隠すために、彼女の名誉を殺そうとした。
それは、王になる者がしていいことではない。
「エドガルド殿下」
宰相が言った。
「陛下のご命令により、あなたにはこの場より謹慎していただきます。王位継承権については、明朝の枢密会議で審議されます」
「謹慎……?」
殿下が呆然と呟く。
王宮警備隊長が前へ出た。
「ご同行を」
「私は第一王子だぞ!」
「存じております」
警備隊長は表情を変えなかった。
「だからこそ、これ以上醜態を晒されませぬよう」
メリナ男爵令嬢が、殿下の腕にすがった。
「殿下、助けてください! 私、何も悪くありません! 殿下が全部考えたことです!」
その瞬間、殿下が彼女を見た。
まるで初めて見るもののように。
「メリナ……?」
「私はただ、殿下がクラリッサ様にいじめられたと言えば守ってくださると……!」
「君は、私を愛していたのではないのか」
「愛しています! だから助けてください!」
愛している。
その言葉が、これほど軽く聞こえることがあるのだなと、わたくしは妙に感心した。
メリナ男爵令嬢もまた、王宮警備隊に連れて行かれた。
彼女の父であるトロワ男爵は、会場の端で真っ青になって震えていた。娘の罪だけで済めばよいが、奨学金の横領に関わっているなら家ごと無事ではないだろう。
会場には、気まずい沈黙が残った。
そしてその中央に、クラリッサ様が立っていた。
婚約破棄された公爵令嬢。
けれど、彼女を見る目は先ほどまでとはまったく違っていた。
哀れみではない。
嘲笑でもない。
敬意と、恐れ。
彼女は無実だった。
そして、王子に切り捨てられてもなお、一度も取り乱さなかった。
公爵令嬢としての格を、最後まで失わなかったのだ。
「レーヴェン子爵令嬢」
クラリッサ様が、わたくしの前に歩み寄った。
わたくしは慌てて礼をする。
「はい、クラリッサ様」
「証言に感謝いたします」
「わたくしは、見たことを申し上げただけです」
「それでも、です」
クラリッサ様は、わずかに微笑んだ。
「あなたがいてくださらなければ、わたくしは今夜、悪女として名を汚されていたでしょう」
美しい方に真正面から微笑まれると、人は何も言えなくなる。
わたくしは少し視線を逸らした。
「……その、できれば目立ちたくはなかったのですが」
「ええ。存じております」
「ご存じなのですか」
「あなたは三年間、いつも教室の端にいましたから」
驚いた。
クラリッサ様のような方が、わたくしを認識していたとは。
「けれど、誰よりもよく人を見ている方だと思っておりました」
その言葉に、胸が少し温かくなった。
モブにはモブの矜持がある。
目立たないからこそ、見えるものがあるのだ。
*
翌朝、王宮から正式な発表があった。
第一王子エドガルド殿下は王位継承権を剥奪。
王族籍は残されたものの、北方の離宮で長期謹慎。
側近たちはそれぞれ取り調べを受け、奨学金横領に関わった者は爵位継承権を失った。
メリナ・トロワ男爵令嬢は学園を退学。
トロワ男爵家は王家への賠償と不正調査により、事実上の没落となった。
そしてクラリッサ様は、婚約破棄された哀れな令嬢ではなく、愚かな王子の陰謀を耐え抜いた公爵令嬢として、以前よりも名声を高めた。
一方、わたくしはというと。
「イルマ・レーヴェン子爵令嬢。法務院正式書記官補への採用、おめでとう」
「ありがとうございます」
なぜか卒業と同時に、王立法務院への就職が決まっていた。
本来なら数年は下積みの予定だったのだが、宰相閣下から直々に推薦状が届いたのである。
父は泣いて喜び、母は「うちの壁の花が王宮勤めに」と妙な感動をしていた。
壁の花ではない。
いや、だいたい合っているけれど。
王宮法務院での仕事は地味だった。
契約書を確認し、証言記録を整理し、貴族同士の揉め事に備えて資料をまとめる。
華やかさはない。
だが、わたくしには合っていた。
舞踏会で踊るより、記録を取っている方が落ち着く。
それに、あの夜の件以来、わたくしに無理な証言を求める者はいなくなった。
むしろ、廊下ですれ違う貴族たちは、わたくしを見ると少し姿勢を正す。
失礼な話である。
わたくしはただの書記官補だ。
人の人生を終わらせる趣味などない。
ただ、本当のことを言っただけである。
*
数か月後。
わたくしは王宮の中庭で、クラリッサ様と再会した。
彼女は公爵令嬢として、王妃陛下の補佐を務め始めていた。
王妃教育は無駄にならなかったらしい。
むしろ王族の婚約者という立場から解放された今、彼女の能力はより自由に使われている。
「イルマ様」
「クラリッサ様」
わたくしが礼をすると、彼女は柔らかく笑った。
「今度、お茶にいらっしゃいませんか」
「わたくしが、ですか?」
「ええ。あなたとゆっくりお話ししてみたいのです」
まさかの展開である。
モブ令嬢、公爵令嬢のお茶会に招かれる。
これは出世なのか、事件の前触れなのか。
判断が難しい。
「光栄です」
「それと、あなたにひとつお願いが」
「何でしょう」
クラリッサ様は少しだけ声を落とした。
「今後、わたくしの周囲で何か妙なことが起こったら、また見たままを教えてくださいますか」
わたくしは瞬きをした。
「もちろんです。ですが、わたくしの証言は時々、人の人生を終わらせますよ」
冗談のつもりだった。
けれどクラリッサ様は、真面目な顔で頷いた。
「終わるべき人生なら、終わった方が世のためです」
強い。
さすが公爵令嬢。
わたくしは小さく笑った。
「では、見たことだけは正確に」
「頼もしいですわ」
その時、中庭の向こうから若い男性が歩いてきた。
黒髪に灰色の瞳。
第二王子レナード殿下である。
エドガルド殿下の失脚により、次期王太子と目されるようになった方だ。
彼はクラリッサ様に一礼し、それからわたくしにも丁寧に頭を下げた。
「レーヴェン書記官補。兄の件では、王家として礼を言う」
「恐れ入ります」
「あなたの証言がなければ、王家はもっと大きな過ちを犯していた」
そんな大げさな。
と言いたいところだが、王族相手に軽口は危険である。
わたくしは無難に微笑んだ。
「わたくしは、見たことを申し上げただけでございます」
「それが一番難しい」
レナード殿下は苦笑した。
「貴族社会では特に」
それは、まあ、そうだ。
皆、見たいものを見る。
聞きたいことを聞く。
言うべきことではなく、得になることを言う。
だからこそ、ただ事実を述べるだけの証言が、時に刃物より鋭くなる。
わたくしはあの夜、それを知った。
*
後に、社交界ではあの卒業舞踏会のことが長く語られた。
第一王子が婚約破棄を宣言した夜。
公爵令嬢が悪女にされかけた夜。
そして、会場の隅にいた地味な子爵令嬢が、たったひとつの証言で王子の未来を終わらせた夜。
話は尾ひれをつけて広がった。
曰く、レーヴェン子爵令嬢は一度見たものを決して忘れない。
曰く、彼女の前で嘘をついた者は必ず破滅する。
曰く、彼女は王宮法務院が放った影の審問官である。
やめてほしい。
わたくしはただの書記官補だ。
好きなものは静かな資料室と、蜂蜜菓子。
嫌いなものは突然名指しされることと、返却期限を過ぎた記録石。
今日もわたくしは、王宮法務院の片隅で書類に目を通している。
貴族たちの契約書。
婚約届。
相続申請。
不審な寄付金の流れ。
妙に高額な宝飾品の購入記録。
見なかったことにすれば、世界は少しだけ穏やかに見えるのかもしれない。
けれど、わたくしは知っている。
見なかったことにされた事実は、いつか誰かの人生を踏み潰す。
だから、わたくしは今日も記録する。
ただ見たままを。
ただ聞いたままを。
そして必要な時には、静かに証言台へ立つのだ。
たとえそれで、誰かの人生が終わるとしても。
それはきっと、わたくしのせいではない。
嘘をついた、その人のせいである。




