第9話「名前を呼ぶ日」
私はいつから、あの人の差し入れを当たり前だと思っていたのだろう。
ニコルの相談を受け入れてから数日が経っていた。 ニコルは翌日の午前に来訪し、セラフィーナは相談士として話を聞いた。聖女候補との縁談が破綻したこと。侯爵家の領収入が三割落ちたこと。ニコルの父が体調を崩したこと。廃嫡を示唆されていること。全てを聞き、記録し、生活再建の助言を始めた。マリカの元婚約者であることは、相談士としての判断に影響させなかった。
その間も、事務所の戸口には毎朝、木の盆が置かれていた。 温かい茶と焼き菓子。いつも通りだった。
ルキウスとは、あの日以来まともに話をしていない。 帳簿の確認は予定通り行われたが、事務的なやり取りだけで終わった。ルキウスはいつも通り数字を確認し、書類を整え、必要な報告だけをして帰った。
差し入れだけが、変わらなかった。
セラフィーナは朝の事務所で、空になった盆を見つめていた。
話を聞かなければならない。 あの人の話を。
二階への階段を上がった。
ルキウスの事務室の前で立ち止まった。 戸を叩く前に、一度深く息を吸った。
「ファルクさん。お時間をいただけますか」
扉が開いた。 ルキウスが立っていた。いつもの簡素な服。表情は読めなかった。
「話を聞かせてください。あなたの話を」
ルキウスはしばらくセラフィーナを見ていた。 それから、扉を大きく開けた。
「入れ」
事務室は整頓されていた。 机の上に帳簿が三冊積まれている。壁際の棚には書類が分類されて並んでいる。窓は閉まっていたが、隙間から港の音が微かに入ってきていた。
セラフィーナは椅子に座った。 ルキウスは机の向こう側に座った。いつもの位置だった。
沈黙があった。
ルキウスが先に口を開いた。
「どこから話せばいい」
「最初から」
「最初か」
ルキウスは机の上に両手を置いた。
「俺の本名はルキウス・ゼーベック。アルディス王国の元宰相家、ゼーベック家の嫡男だった」
ゼーベック。
宰相家の名前だった。アルディス王国の政治を実質的に動かしてきた家。慣例的に侯爵待遇を受け、王家の次に宮廷での発言力を持つとされた家。
セラフィーナは宮廷にいた頃、その名前を何度も聞いていた。 けれど、宰相家の嫡男の顔は知らなかった。公爵家と宰相家は家格が異なり、密接な社交関係にはなかった。宮廷の式典で同じ広間にいたことはあっても、個人的に言葉を交わしたことはない。
「七年前に、俺の父が政争に敗れて宰相を解任された。家督は弟が継いだ。俺は自分でアルディスを出た。表向きは商業視察の名目だった」
ルキウスの声は平坦だった。 事実を報告するような口調。けれど、指先が僅かに力を込めていた。
「出国する前に、宮廷で断罪があった」
セラフィーナの背筋が伸びた。
「傍聴席にいた。宰相家の嫡男として、席が割り当てられていた。壇上に、公爵令嬢が立たされていた」
ルキウスの目がセラフィーナを見た。
「聖女と呼ばれていた女の証言に矛盾があった。公爵令嬢が聖女を害したという証拠は、全て伝聞と状況証拠だった。冤罪だと気づいていた」
「なぜ、何も言わなかったのですか」
声は穏やかだった。責めているのではなかった。聞いているだけだった。
「父の失脚の直後だった。ゼーベックの名前には、もう何の力もなかった。王太子の決定に異を唱えれば、弟にまで追及が及ぶ。黙っているしかなかった」
ルキウスは目を伏せた。
「黙って見ていた。広間の傍聴席の端で。それから国を出た」
沈黙が落ちた。 港の音が遠くに聞こえていた。
「この町に来て三年後、あんたが追放されてこの港に現れた。偶然ではない。商船の乗客名簿であんたの名前を見つけた。物件を用意した。家賃を下げた。保証人になった」
「二年間の支援は、全て計画的だったということですか」
「ああ」
「動機は」
ルキウスの指が机の上で動いた。
「最初は罪悪感だった。あの日、止められなかった分を返すつもりだった。格安の家賃も、工房の情報も、商会の紹介も、全部そうだ」
「最初は、と言いましたね」
ルキウスが顔を上げた。
その目に、いつもの無表情はなかった。 何かを探しているような、何かを手放そうとしているような目だった。
「罪悪感だけじゃない。最初はそうだった。でも今は違う」
言葉が止まった。
ルキウスは口を開きかけて、閉じた。もう一度開いて、また閉じた。 言葉を探しているのではなかった。言葉はあるのに、出せないでいた。
セラフィーナは待った。 相談士として、人の言葉を待つことには慣れていた。
「……うまく言えない」
ルキウスがそう言った時、声が少しだけ変わっていた。 事務的な平坦さが消えて、不器用な、剥き出しの声になっていた。
セラフィーナは椅子の上で背筋を伸ばした。
胸の奥で、何かが揺れていた。 ルキウスの正体を聞いて、断罪の経緯を聞いて、二年間の支援の理由を聞いて。 怒りが来るかと思っていた。裏切りの感覚が来るかと思っていた。
来なかった。
代わりに来たのは、自分自身への問いだった。
私は、自分が幸せになることを怖がっていた。
断罪の日から五年。 誰にも助けてもらえなかった記憶が、他人の善意に壁を作った。対価を払わなければ受け取れない。無償の好意は信じられない。自分が幸せになることは、どこかで許されていないと思っていた。
前の人生で過労で死んだ記憶が、それを強めていた。 自分の幸福より他人の再起。自分の感情より仕事の成果。 それが正しいと思い込んでいた。
けれど、マリカが言った。動機が何であれ、行動は本物だと。 ルキウスの二年間は本物だった。差し入れも、帳簿の確認も、紹介状も、委任状も。
そして今、この人は「罪悪感だけじゃない」と言った。 うまく言えないと言った。
それで十分だった。
「あなたの罪悪感は受け取りません」
セラフィーナは静かに言った。
ルキウスの目が動いた。
「でも、あなたの二年間は受け取ります」
ルキウスは何も言わなかった。 机の上の手が、僅かに震えていた。
「まだ整理がつかないことがあります。全部すぐには受け止められません」
「……ああ」
「でも、一つだけ確認させてください」
セラフィーナは息を吸った。
「ルキウスさん、でいいんですよね。ファルクさんではなくて」
ルキウスの目が見開かれた。
名前を呼ばれたのは、この町に来て五年で初めてのことだったのかもしれない。 本名で呼ばれることの意味を、この人は分かっているはずだ。
「……ああ。ルキウスでいい」
声が掠れていた。
ルキウスは椅子の背にもたれた。 それから、セラフィーナの目を見た。
「セラフィーナ」
名前だった。 相談士殿でも、嬢ちゃんでもなく、名前だった。
初めて呼ばれた。 この人の声で、自分の名前を聞いたのは初めてだった。
低い声だった。掠れたままだった。 けれど、その一言には、事務的な平坦さも、押し殺した抑制もなかった。
セラフィーナの胸の奥が熱くなった。
名前を呼ばれただけだ。それだけのことだ。 けれど、それだけのことが、胸の中で思ったより大きかった。
セラフィーナは小さく頷いた。
「では、ルキウスさん。帳簿の確認、明日もお願いします。業務委託契約は継続です」
「……契約の話か」
「まずは仕事からです。それ以外のことは、もう少し時間をください」
ルキウスは天井を見上げて、息をついた。
「待つ」
その一言だけだった。 それだけで十分だった。
事務所に戻った。
階段を下りながら、自分の顔が少し熱いことに気づいた。
ルキウスさん、と呼んだ。 ファルクさんではなく。
そして、あの人は私の名前を呼んだ。 セラフィーナ、と。
名前を変えただけだ。それだけのことだ。 けれど、それだけのことが、胸の中で思ったより大きかった。
事務所の椅子に座り、机の上に手を置いた。
私は人の人生を立て直す仕事をしているのに、自分の恋は立て直すのが一番下手だ。
苦笑が漏れた。 声に出してはいなかったが、口元が緩んでいた。
恋、と思った。 初めてその言葉を、自分の感情に使った。
まだ整理はつかない。 ルキウスの正体も、二年間の意味も、自分の感情も、全部が絡まっている。
けれど、名前を呼んだ。呼ばれた。 それは、絡まったものを一つずつ解き始める最初の一歩だった。
事務所の戸口を見た。 今朝の盆は、もう片付けてあった。
明日もあの盆は来るだろう。 温かい茶と、焼き菓子が一つ。
明日は、盆を返す時に「ありがとうございます」と言おう。 ルキウスさん、と呼んで。
セラフィーナはペンを取った。 ニコルの相談記録の続きを書き始めた。
仕事がある。明日も明後日も。 相談所の看板は表に向いている。




