第8話「相談士の休業」
雨が窓を叩く音だけが相談所に響いている。
二日目の朝だった。 相談所の看板は裏返しにしてある。「本日休業」の札を、昨日の朝にオスカルが黙って掛けてくれた。
セラフィーナは事務所の椅子に座っていた。 机の上には何もない。帳簿も紙もペンも、棚にしまったままだった。
雨脚が強い。 港の喧騒が雨に押し潰されて、いつもより静かだった。
あの人は、断罪の場にいた。
二日間、同じことを考えていた。 考えて、考えて、それでも答えが出なかった。
あの人が誰なのか。なぜこの町にいるのか。なぜ私の相談所の大家をしているのか。 「いた」という一言以外、何も分かっていない。
分かっているのは、二年間の事実だけだ。 格安の家賃。空き部屋の鍵。工房の情報。商会の紹介状。委任状の手配。深夜の差し入れ。帳簿の確認。
それら全てが罪悪感から来ていたのだとしても。 それら全てが、確かにここにあった。
昼前に、階段を駆け上がる足音がした。
事務所の戸が叩かれた。控えめではない、遠慮のない叩き方だった。
「先生、いるんでしょ。開けて」
マリカの声だった。
セラフィーナは戸を開けた。
マリカが立っていた。エプロンの上に外套を羽織り、髪に雨粒がついている。工房の休憩時間に来たのだろう。片手に布で包んだ何かを持っていた。
「先生が休むなんて初めてでしょ。何があったの」
マリカは許可を待たずに事務所に入り、布包みを机の上に置いた。中から焼き菓子が三つ出てきた。ベルント工房の焼き菓子だ。
「今朝焼いたやつ。新しい配合を試してる。バターを減らして蜂蜜を増やしたら、日持ちが良くなった」
マリカは椅子に座った。 セラフィーナの顔をまっすぐ見た。
「で、何があったの」
「少し、整理したいことがあって」
「整理って何」
セラフィーナは言葉を選んだ。
「信頼していた人について、知らなかったことが分かりました。それを、どう受け止めるか考えています」
マリカは腕を組んだ。
「その人が嘘をついてたってこと?」
「嘘というよりは、言わなかったことがあった、という方が正確です」
「言わなかったことって、悪いこと?」
「分かりません。まだ全部を聞いていないので」
マリカは焼き菓子を一つ手に取り、割って片方をセラフィーナに差し出した。
「あたしさ、先生に人生を変えてもらった」
「変えたのはマリカさん自身です」
「そうかもしれない。でも、あたしが工房に行けたのは先生のおかげだし、書面を書いてくれたのも先生だし、あたしの話を最初に聞いてくれたのも先生だった」
マリカは焼き菓子を齧った。
「それは、先生の動機が何であれ変わらない」
セラフィーナの手が止まった。
「先生がどんな理由であたしを助けたとしても、あたしが工房で菓子を焼いてる事実は変わらない。あたしの焼き菓子が市場で売れてる事実も変わらない。先生がくれたものは、もうあたしの中にある。先生の動機がどうだったかで、それが消えたりしない」
マリカは言い切った。 赤毛の下の目は、真っ直ぐだった。
セラフィーナは焼き菓子を受け取った。 一口齧った。蜂蜜の甘さが、バターの風味より先に広がった。確かに、以前の配合とは違う。
「おいしいです」
「でしょ。船乗り向けに日持ちを良くしたの。ベルントのおじさんは塩気が足りないって言ってたけど」
マリカは立ち上がった。
「あたしは工房に戻る。先生、明日は開けてよ。相談所が閉まってると、あたしが困る」
「困る?」
「帰りに寄る場所がなくなるから」
マリカは外套のフードを被り、雨の中へ出ていった。
事務所に一人になった。
焼き菓子の残りを食べながら、マリカの言葉を反芻した。
先生の動機が何であれ変わらない。
そうだ。 ルキウスがどんな理由で私を助けていたとしても、マリカが菓子を焼いている事実は変わらない。リーネが商会で帳簿をつけている事実も変わらない。侯爵家のクレームを却下した書面も、港湾管理局に提出された届出も、全て現実に起きたことだ。
事実を確認してから判断する。
それが、相談士としての自分の原則だった。
ルキウスが断罪の場にいたことは事実だ。 ルキウスがこの二年間、相談所を支えてきたことも事実だ。 その二つの事実を、まだ天秤にかけている途中だった。
けれど、マリカの言葉が天秤の片方に重みを加えた。
動機が何であれ、行動は本物だった。
正体がまだ分からない。全てを聞いていない。 けれど、二年間の行動は消えない。
雨が止んだのは夕方だった。
セラフィーナは事務所の窓を開けた。 湿った風が入ってきた。港の灯りが濡れた石畳に反射している。
明日、相談所を開ける。
そう決めた時、建物の正面から足音が聞こえた。
オスカルが一階の入口で誰かと話している声がした。 低い声と、もう一つ、聞き覚えのない声。
セラフィーナは事務所の戸を開けて廊下に出た。
階段の下に、オスカルと、見知らぬ男が立っていた。
男は若かった。二十代半ば。仕立ての良い外套を着ているが、旅の疲れが見える。靴に泥がついている。商船で着いたばかりのようだった。
男はセラフィーナを見上げた。
「ここが、生活再建相談所ですか」
声は丁寧だった。慇懃な口調。上位貴族特有の、言葉の端々に身分がにじむ話し方。
「はい。ただ、本日は休業しております」
「承知しています。明日、改めて伺ってもよろしいでしょうか」
「お名前をお聞きしてもよろしいですか」
男は一瞬、口を閉じた。 それから、まっすぐ名乗った。
「ニコル・フェルディナンと申します」
フェルディナン。
侯爵家。 マリカの元婚約者。 匿名の手紙の差出人の主。 商会名義で港湾管理局にクレームを入れた家の嫡男。
セラフィーナは階段の上から、ニコルの顔を見た。
目の下に隈があった。 慇懃な口調の奥に、何かが軋んでいた。虚勢を張っているが、中身が既に削れている人間の顔だった。
相談所に来る人はみんな、同じ顔をしている。
以前、そう思ったことがある。 リーネが来た時だった。行き場のない人間の顔。
この男にも、同じものが見えた。
「明日の午前中にいらしてください」
「ありがとうございます」
ニコルは丁寧に頭を下げ、建物を出ていった。
オスカルが階段の下から見上げた。
「嬢ちゃん。今の男、アルディスの侯爵家だろう」
「ええ」
「マリカの嬢ちゃんの元婚約者か」
「ええ」
オスカルは腕を組んだ。
「面倒なことになりそうだな」
「かもしれません」
セラフィーナは事務所に戻った。
椅子に座り、天井を見た。
婚約破棄で人生が壊れた人のための相談所。 壊された側が来る場所だと思っていた。
けれど、壊した側もまた、壊れることがある。
翌朝、雨は上がっていた。
オスカルが「本日休業」の札を外し、看板を表に戻してくれた。
セラフィーナは事務所の机に紙とペンを用意し、椅子に座って待った。
約束の時間の少し前に、階段を上がる足音が聞こえた。 一歩一歩が丁寧で、重い。昨日の慇懃な青年の足音だった。
戸が叩かれた。
「どうぞ」
ニコルが入ってきた。 昨日と同じ外套を着ていたが、泥は落としてあった。靴も磨かれている。宿で身なりを整えてきたのだろう。
「おかけください」
セラフィーナは机の向かいの椅子を示した。 ニコルは椅子に座り、背筋を伸ばした。膝の上に両手を置いている。指先が僅かに震えていた。
「昨日お伝えした通り、ニコル・フェルディナンです。アルディス王国、フェルディナン侯爵家の嫡男です」
「セラフィーナと申します。生活再建相談所の相談士です」
名乗りを交わした。 形式的なやり取りだったが、ニコルの声には昨日より力がなかった。虚勢を維持する余裕が、一晩で削れたようだった。
「何からお話しいただいても構いません」
セラフィーナはペンを手に取った。
ニコルは口を開き、閉じ、もう一度開いた。
「婚約を、破棄しました」
「どなたとの婚約ですか」
「マリカ・ホルツマンとの婚約です」
セラフィーナの手は動かなかった。表情も変えなかった。 相談士として、聞く姿勢を崩さなかった。
「破棄の理由をお聞かせいただけますか」
「聖女候補との縁談が持ち上がり、父が……いえ、父の判断もありましたが、最終的に決めたのは私自身です」
ニコルの声が低くなった。
「マリカとの婚約を破棄し、聖女候補との縁談を進めました。しかし、その縁談も破綻しました。聖女候補が王太子の寵愛を失い、縁談の前提が崩れたためです」
指先の震えが大きくなっていた。
「領地の収入は三割落ちました。父が体調を崩し、廃嫡を示唆されています。侯爵家の取引先が離れ始めています」
セラフィーナは記録を取りながら、ニコルの顔を見ていた。
隈の下の目は、昨日より赤かった。眠れなかったのだろう。 慇懃な口調は保っていたが、声の芯が揺れていた。
「フェルディナンさん。一つお聞きします」
「はい」
「あなたは、何を再建したいのですか。侯爵家の経営ですか。それとも、ご自身の人生ですか」
ニコルの手が膝の上で握りしめられた。
「……両方です。両方を、失いかけています」
その声が、震えた。
慇懃な口調が崩れかけた一瞬だった。 侯爵家の嫡男としての体裁が、薄い殻のように罅割れた。
セラフィーナはペンを置いた。
「壊した側であっても、壊れているなら、ここはあなたのための場所でもあります」
ニコルが顔を上げた。 目が見開かれていた。
「この相談所は、婚約破棄で人生が壊れた人のためにあります。壊された側だけではありません」
ニコルは何も言えなかった。 唇が動いたが、声にならなかった。 両手が膝の上で震えていた。
セラフィーナは新しい紙を一枚出した。
「まず、正確な収支を出すことから始めましょう。侯爵家の領地経営の帳簿をお持ちですか」
「……写しを、持ってきています」
ニコルは震える手で鞄から書類を取り出した。
セラフィーナはそれを受け取り、数字を確認し始めた。
仕事だ。 目の前の人間の人生を立て直す仕事だ。
ニコルの目から涙は出なかった。 けれど、書類を渡した後、両手で顔を覆った。
セラフィーナは何も言わず、数字を読み続けた。 相談士として、待つことに慣れていた。
夕方、ニコルが帰った後、セラフィーナは事務所で一人になった。
ニコルの相談記録を整理しながら、考えていた。
マリカには伝えなければならない。 元婚約者が相談所に来たこと。相談を受けたこと。 マリカの気持ちとは別に、相談士としての判断で受けたこと。 けれど、マリカに隠すつもりはないこと。
明日、マリカが工房に行く前に話そう。
セラフィーナは机の上に紙とペンを出した。 明日の準備を始めた。
この仕事の意味が、また少し変わろうとしている。
ルキウスのことは、まだ保留だった。 けれど、あの人が断罪の場にいたという事実と、この二年間の行動を天秤にかけた時、行動の方が重い、と内心で傾き始めていた。
事務所の戸口に目をやった。
木の盆が置かれていた。 温かい茶と、焼き菓子が一つ。 いつもと同じだった。
ルキウスとの関係が揺らいでいる中で、差し入れだけは変わらなかった。 言葉ではなく、行動。 中に入るのでもなく、置いて去る。
あの人は、こういう人だ。
セラフィーナは盆を持ち上げた。 茶はまだ温かかった。




