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婚約破棄されて追放された元公爵令嬢、港町で相談所を開いたら破棄した側まで相談に来ました  作者: 月雅


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7/10

第7話「名前の裏側」

「嬢ちゃん、ファルクの本名を知りたいか」


オスカルは廊下の窓枠を雑巾で拭きながら、何でもないことのように言った。


朝の建物は静かだった。 マリカは工房に出かけた後で、リーネも商会に向かっている。相談所の営業時間にはまだ早い。


セラフィーナは事務所から顔を出した。


「本名、ですか」


「ファルクってのは、この町に来てから名乗り始めた名前だ。あいつがこの港に着いた時、わしが最初に声をかけた。五年前のことだ」


オスカルは雑巾を絞った。水が桶に落ちる音がした。


「あの頃のあいつは、今よりもっと堅かった。言葉遣いが違った。商人とは思えない話し方をしていた」


「どんな話し方ですか」


「どこぞの貴族みたいにな。語尾が丁寧で、相手との距離の取り方が身についている。この町の商人はもっと荒っぽい。あいつは最初、港の酒場でも浮いていた」


セラフィーナは戸口に手をかけたまま動けなかった。


貴族みたいな話し方。 五年前にこの町に来た。 本名ではない名前を名乗っている。


「オスカルさんは、ファルクさんの本名をご存じなんですか」


「知っている。あいつが最初に港に降りた日に、乗船名簿の名前を見た。わしは元商船の船長だ。乗客の名前を確認するのは癖みたいなものだ」


「その名前は」


オスカルは雑巾を桶に入れた。 それから、セラフィーナの方を見た。


「わしの口からは言えん。あいつが自分で話すべきことだ」


「では、なぜ今この話を」


「嬢ちゃんが契約書を交わした相手の名前が、本名じゃないからだ」


セラフィーナの指先が冷たくなった。


業務委託契約。月額銀貨3枚。帳簿と法務書面の確認。 あの契約書に書かれた名前は「ルキウス・ファルク」だった。 偽名で交わした契約が法的に有効かどうかは、通商連合の商業法規では微妙なところだ。営業許可証の登録名と一致していれば問題ないが、登録名自体が偽名であれば根拠が揺らぐ。


「心配するな。あいつの営業許可証はファルク名義で正式に登録されている。通商連合じゃ、登録名が本名かどうかは問わない。届出名で通る」


オスカルはそう言って、桶を持ち上げた。


「わしが言いたいのは、嬢ちゃんがあいつを信用するなら、名前くらい知っておいた方がいいってことだ。信用するかどうかは、嬢ちゃんが決めろ」


オスカルは廊下の奥に消えた。 箒を取りに行ったのか、足音が階段を下りていった。


事務所に戻った。


椅子に座ったが、仕事が手につかなかった。


ルキウスの業務委託が始まって数日が経っていた。 週に二回、彼は帳簿を持って事務所に来る。相談所の収支帳簿と、港湾管理局への届出書類の確認。作業は正確で、無駄がなかった。


帳簿を見るルキウスの手つきは、不動産管理の延長というには手慣れすぎていた。 数字の確認が速い。記帳の形式に迷いがない。商人の帳簿ではなく、もっと大きな規模の会計処理に慣れた人間の手つきだった。


オスカルの言葉が頭を離れない。


貴族みたいな話し方。 五年前にこの町に来た。 本名ではない名前。


五年前。 私が断罪されて、この国に追い出されたのと同じ年だ。


考えすぎだ、と自分に言い聞かせた。 五年前にアルディスからカルーセルに渡ってきた人間は、ルキウスだけではないだろう。商人も職人も、様々な事情でこの港に流れ着く。


けれど、靄が晴れなかった。


ルキウスの法務知識。行政手続きへの精通。情報網の広さ。紹介状の用意。委任状の手配。 全てが「商売柄」で片づけるには度を超えていた。


本人に聞こう。


その決意は、考えるより先に固まっていた。


午後、ルキウスが帳簿の確認のために事務所に来た。


いつも通りの時間だった。 事務所の椅子に座り、帳簿を開き、数字を一行ずつ確認していく。


セラフィーナは向かいの椅子に座って、書面の下書きを進めていた。 新しい相談者からの問い合わせが一件入っており、返信を書いているところだった。


ルキウスが帳簿の確認を終え、ペンを置いた。


「先月分の届出書類は明後日までに仕上げる。港湾管理局の窓口は週末が混むから、木曜に出した方がいい」


「分かりました。ありがとうございます」


普通のやり取りだった。 業務委託契約を交わしてから、こういう事務的な会話が日常になっていた。


セラフィーナはペンを置いた。


「ファルクさん」


「何だ」


「あなたは、アルディスの人ですか」


事務所の空気が変わった。


ルキウスの手が帳簿の上で止まった。 表情は変わらなかった。けれど、止まった。


沈黙が長かった。


港の音が遠くに聞こえていた。荷運びの声、車輪の音、カモメの鳴き声。事務所の中だけが静まり返っていた。


ルキウスは帳簿を閉じた。


答えなかった。


セラフィーナは沈黙を読んだ。 否定しないということは、否定できないということだ。


「もうひとつ聞いてもいいですか」


ルキウスは顔を上げなかった。


「あの断罪の日、あの場にいましたか」


ルキウスの指が、帳簿の表紙の上で僅かに動いた。 それだけだった。大きな反応はなかった。


けれど、その僅かな動きが答えだった。


「……いた」


声は低かった。 いつもの事務的な口調とは違う、押し殺したような声だった。


セラフィーナの胸の奥で何かが揺れた。


この人は、あの日、あの広間にいた。 蝋燭の灯りの下で、壇上に立たされた私を見ていた。


傍聴席にいた顔を、私は一人も覚えていない。 壇上から見えるのは灯りと影だけだった。声は王太子のものだけが響いていた。


この人は、あの中にいた。


「それだけですか」


セラフィーナの声は平静だった。自分でも驚くほど。


「それだけとは」


「あの場にいた。それ以上のことは」


ルキウスは沈黙した。


答えなかった。 「宰相家」とも「ゼーベック」とも言わなかった。 いた、とだけ認めて、それ以上は口を開かなかった。


セラフィーナは椅子から立ち上がった。


「今日は帰ります」


声は震えていなかった。 けれど、手は机の下で握りしめていた。


ルキウスは椅子に座ったまま動かなかった。


セラフィーナは帳簿を棚にしまい、インク壺に蓋をした。 いつもの手順で事務所を閉める準備をした。


窓を閉め、蝋燭の火を消し、戸口に向かった。


振り返らなかった。


「……やはり、こうなるか」


背後で、ルキウスの声が聞こえた。 独り言のような、誰にも向けられていない声だった。


セラフィーナは戸を閉めた。


自室に戻った。


建物の三階、相談所の真上にある小さな部屋。 机と寝台と棚だけの部屋だった。


窓を開けた。 夕暮れの港が見えた。商船が波止場に停泊している。灯りが一つ、二つと点き始めていた。


あの人は、断罪の場にいた。


その事実が、頭の中で繰り返し回っていた。


断罪の日の記憶は、蝋燭の灯りと王太子の声でできている。傍聴席の顔は一つも思い出せない。誰がいたかなど、当時の自分には関係がなかった。壇上で罪状を読み上げられ、爵位を剥奪され、国外追放を宣告された。それだけだった。


あの場にいた人間が、今、私の大家をしている。 私の営業許可証の保証人になっている。 私の相談所の帳簿を確認している。


なぜ。


罪悪感だろうか。 あの場にいて、何もしなかったことへの。


だとすれば、この2年間の全ては罪悪感の産物だったのか。 格安の家賃も、空き部屋の鍵も、工房の紹介も、商会の紹介状も、委任状の手配も、深夜の差し入れも。


全部、罪滅ぼし。


そう考えた瞬間、胸の奥が冷たくなった。


信頼していた。 事業上の関係者として。大家として。最近は、それ以上の何かとして。


その信頼の土台が、罪悪感だったとしたら。


窓の外を見た。 港の灯りが揺れていた。


事実を確認してから判断する。


セラフィーナは窓を閉めた。


今日分かったのは、あの人がアルディスの人間であること、断罪の場にいたこと、それ以上を語らなかったこと。この三つだけだ。


正体の全ては分からない。動機も分からない。 分からないまま結論を出すのは、相談士として最もやってはいけないことだ。


明日は相談所を開けない。 少し、時間が要る。


セラフィーナは寝台に座り、壁にもたれた。


ルキウスの「いた」という一言が、耳の奥に残っていた。 押し殺した声。予想していた顔。


あの人は、こうなることを分かっていた。


それでも「いた」と認めた。 嘘をつくこともできたはずなのに。


その事実だけが、冷たくなった胸の奥に、小さな熱を残していた。

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