第6話「灯りと距離」
五年前の断罪の日、広間は蝋燭の灯りで明るかった。
何百本もの蝋燭が、王宮の大広間を昼のように照らしていた。 壇上に立たされた私の影は、足元に短く落ちていた。 傍聴席は満席だった。誰がいたのかは覚えていない。顔を上げる余裕がなかった。
王太子の声だけが響いていた。 罪状を読み上げる声。聖女への害意。証拠の提示。弁明の機会はなかった。
父は、傍聴席にいたはずだ。 公爵家の当主として、娘の断罪に異議を申し立てる権利があった。 けれど、父の声は聞こえなかった。
あの広間の蝋燭の灯りを、今でも時々思い出す。
セラフィーナは目を開けた。
事務所の机に突っ伏していた。 窓の外はとうに暗く、港の灯りがぽつぽつと見えている。
帳簿をつけている途中で眠ってしまったらしい。 開いたままの帳簿の上にインクの染みができていた。
「……しまった」
紙を一枚無駄にした。
体を起こして、帳簿の数字を確認した。
今月の収支。 相談料の収入は銅貨22枚。連合銀貨にして2枚と少し。 マリカの継続相談、リーネの継続相談、それから港で荷運びの仕事を見つけた元料理人の経過報告。
支出は家賃の銀貨2枚、生活費の銀貨3枚。 来月は営業保証金の年次更新がある。銀貨10枚。
手持ちの残金は銀貨38枚。
このペースなら、あと半年は持つ。 半年のうちに依頼が増えなければ、相談所は潰れる。
数字を見つめていると、現実の輪郭がはっきりしてくる。 断罪の記憶が蝋燭の灯りとともに遠ざかり、代わりにインクの匂いと紙の手触りが戻ってくる。
過去ではなく、今の数字。 今の仕事。
帳簿を閉じようとした時、事務所の戸が叩かれた。
いつもなら戸口に置いて去る足音が、今日は止まっていた。
「開いているか」
ルキウスの声だった。
「はい。どうぞ」
戸が開いた。 ルキウスが片手に木の盆を持って立っていた。盆の上には茶の入った陶器の杯と、焼き菓子が二つ。いつもの差し入れだった。
ただ、いつもと違うことがひとつあった。 いつもは盆を戸口の床に置いて、何も言わずに去る。 今日は、中に入ってきた。
「少し話がある」
ルキウスは盆を机の端に置いた。 椅子には座らず、壁際に立った。腕を組んでいる。
セラフィーナは茶を受け取った。温かかった。
「何でしょう」
「アルディスからの来訪者が増えている。オスカルの報告だけじゃない。港湾管理局の乗客名簿にも、最近アルディス便の利用者が増えている傾向がある」
「相談所の噂を聞いて来る人がいる、という話ですね」
「ああ。今のところは商人や船乗りの口伝レベルだが、このまま増えれば相談所の処理能力を超える」
セラフィーナは杯を両手で包んだ。
「処理能力、ですか」
「相談士殿が一人で回している事務所だ。相談、書面作成、法務確認、外部への連絡、帳簿管理。全部一人でやっている。依頼が増えれば回らなくなる」
否定できなかった。 今でさえ、帳簿をつけながら眠ってしまう程度には手が足りていない。
「提案がある」
ルキウスは腕を組んだまま言った。
「経理と法務の補助を、俺が引き受ける」
セラフィーナは顔を上げた。
「ファルクさんが」
「不動産管理で帳簿は日常的につけている。法務書面も港湾管理局への届出で慣れている。相談士殿の仕事の半分は事務作業だ。そこを俺が持てば、相談業務に集中できる」
理にかなっていた。 経理と法務の補助があれば、セラフィーナは面談と書面作成に専念できる。相談件数が増えても対応できる。
けれど、セラフィーナの手が杯の上で止まった。
「対価は」
「いらない」
「それは対価になりません」
「菓子でいい」
ルキウスはそう言った。 表情は変わらなかった。いつもの、感情を見せない顔だった。
「マリカの焼き菓子が手に入るなら、それで十分だ」
「ファルクさん。大家に無償で事務を手伝っていただくわけにはいきません」
「無償じゃない。菓子だと言っている」
「菓子は労働の対価にはなりません。きちんとお支払いします」
セラフィーナの声は穏やかだったが、譲る気配はなかった。
ルキウスは黙った。 壁にもたれたまま、少しの間セラフィーナを見ていた。
「……相談士殿は頑固だな」
「対等な取引でなければ、受けられません」
その言葉には、断罪の日の記憶が混じっていた。
あの日、誰にも助けてもらえなかった。 父にも、婚約者にも、宮廷の誰にも。 それ以来、誰かに無償で助けてもらうことが怖かった。 対価のない善意には、いつか返せなくなる借りがつく。 借りは、依存になる。依存は、裏切られた時に足元を崩す。
だから、対価を払う。 仕事として依頼する。それなら対等だ。
「では月額銀貨3枚でどうだ。週に二回、帳簿と法務書面の確認に来る。それ以上の作業が発生した場合は別途相談」
「銀貨3枚」
相談所の月収が銀貨2枚前後であることを考えれば、銀貨3枚の支出は大きい。 けれど、ルキウスの事務能力があれば、依頼件数を増やす余地が生まれる。
計算は合う。 将来の収入増を見込めば、投資として成立する。
「分かりました。月額銀貨3枚。週二回。帳簿と法務書面の確認。業務委託契約として、書面を交わしましょう」
「書面か」
「当然です。口約束では契約になりません」
ルキウスの口元が、ほんの僅かに動いた。 笑ったのかもしれない。暗い事務所では判別できなかった。
「明日、契約書を持ってくる」
「私が作成します。依頼者は私ですから」
「……好きにしろ」
ルキウスは壁から背を離した。
「茶が冷める前に飲め」
それだけ言って、事務所を出ていった。 足音が階段を上がり、二階の廊下を進み、事務室の扉が閉まる音がした。
事務所に一人になった。
茶はまだ温かかった。 一口飲んだ。いつもの、素朴な味だった。
焼き菓子を一つ手に取った。市場の露店のものだ。マリカの工房のものではない。
この人がいると楽だ。
その感情が、不意に浮かんだ。
大家としての信頼。事業上の関係者としての安心感。 それだけのはずだった。 けれど、今の感情はそれだけでは説明がつかない。
ルキウスが中に入ってきた時、少しだけ嬉しかった。 いつもは戸口に置いて去るだけなのに、今日は話をしに来た。 その変化が、嬉しかった。
名前はつけない。 この感情に名前をつけたら、仕事の関係が壊れる。
セラフィーナは茶を飲み干し、杯を盆に戻した。
帳簿のインクの染みを拭き、新しい紙に書き直す作業を始めた。 明日は契約書を作成しなければならない。業務委託の内容、対価、期間、解除条件。
仕事に集中しよう。 それが今の私にできることだ。
蝋燭の灯りが揺れていた。 五年前の広間の灯りとは違う。小さくて、暗くて、自分の手で灯した灯りだった。
二階の事務室で、ルキウスは机の前に座っていた。
灯りは点けていなかった。 窓から差し込む月明かりだけが、部屋を薄く照らしている。
相談所の体制強化。 経理と法務の補助。 業務委託契約。月額銀貨3枚。
全て、計算通りだ。 依頼件数が増えれば、相談士殿の収入は安定する。収入が安定すれば、営業保証金の更新も問題ない。事業が軌道に乗れば、俺の支援がなくても回るようになる。
それが目的だ。 あの女が、自分の力で立っていられるようにすること。
ルキウスは窓の外を見た。 港の灯りが遠くに見える。
対価は菓子でいいと言った。 断られた。当然だ。あの女は、無償の善意を受け取らない。
それでいい。 対価を払うと言うなら、払わせればいい。対等な取引だと思わせればいい。
本当の対価は、もう受け取っている。 あの女がこの町で生きている。相談所の看板を磨いている。相談者の前に座って、話を聞いている。 それだけで、十分だ。
あの日の分だ。
五年前、蝋燭の灯りの中で、壇上に立たされていた少女を見ていた。 冤罪だと分かっていた。聖女の証言に矛盾があった。 けれど声を上げられなかった。父の失脚の直後で、宰相家の名前は何の力も持たなかった。
黙って見ていた。 あの広間の、傍聴席の端で。
その借りを、まだ返し終えていない。
ルキウスは窓を閉めた。 月明かりが遮られ、部屋が暗くなった。
借りだ。 それだけだ。
そう、自分に言い聞かせた。




