第4話「二人目の客」
相談所に来る人はみんな、同じ顔をしている。
そう思ったのは、戸口に立つ少女の目を見た時だった。
マリカの時もそうだった。怒りの奥に、行き場のない悲しみがあった。 この少女の場合は、怒りすら見えない。ただ、自分がここにいていい理由が分からないという顔をしていた。
「あの……ここが、相談所ですか」
声は小さかった。語尾が消えかけていた。
「はい。生活再建相談所です。どうぞお入りください」
セラフィーナは椅子を引いた。 少女は戸口で一度立ち止まり、それから小さな歩幅で中に入った。
「リーネと申します。元……男爵家の、娘です」
名乗る時に視線が下がった。 マリカのように家名を切り捨てる言い方ではなく、名乗ること自体に罪悪感があるような口調だった。
「セラフィーナです。お座りください」
リーネは椅子に座った。膝の上で両手を重ね、指先が白くなるほど握りしめていた。
「アルディス王国から来られたのですね」
「……はい。二週間ほど前に、商船で」
時期は合う。定期商船で片道5日から7日。港に着いてから宿を探し、相談所の噂を聞きつけるまでに更に数日。
「婚約を、破棄されました」
リーネの声は平坦だった。感情を押し殺しているのではなく、感情の置き場が分からないような響きだった。
「相手は子爵家のご嫡男で、家格が足りないと言われました。男爵家では釣り合わないと」
セラフィーナは何も言わず聞いた。
「父は……リーネの父は、子爵家に抗議しましたが、子爵家の当主に『身の程を知れ』と言われて、それきりです。公証院への届出も、もう済んでいると」
アルディス王国の婚約破棄。公証院への届出が完了していれば、法的には確定している。子爵家が公爵家以上の自家裁定権を持つわけではないが、男爵家相手であれば、公証院の審査も形式的なもので終わったのだろう。
「リーネさん。今の生活の状況を教えていただけますか」
「この町に来てから、港の宿に泊まっています。持ち出したお金がもう少しで尽きます。仕事を探さなければいけないと分かっているのですが……」
リーネは目を伏せた。
「私には、何もできないので」
その言葉を、セラフィーナは聞き流さなかった。
「何もできない、というのは」
「特技がないということです。マリカさんのようにお菓子が作れるわけでもなく、手に職があるわけでもなく……」
マリカの名前が出た。港区で「婚約破棄された令嬢が作った菓子」として話題になっているらしい。その噂を聞いて、この相談所にたどり着いたのだろう。
「リーネさん。特技の話は後にしましょう。まず、実家にいた頃のことを聞かせてください。毎日、どんなことをしていましたか」
「毎日ですか……。朝は父と一緒に朝食を取って、午前中は来客の対応をして、午後は……」
リーネは少し考えた。
「帳簿をつけていました」
「帳簿」
「はい。領地の収支を管理する帳簿です。リーネの父は数字が苦手で……私が物心ついた頃から、帳簿は私の仕事でした」
セラフィーナはペンを取った。
「どのような帳簿ですか」
「領地の年貢の記録、支出の管理、商人との取引の記帳、季節ごとの収支の集計、税の計算……全部です」
「それを一人で」
「はい。侍女が手伝ってくれることもありましたが、数字の確認は私がしていました。合わない時は商人の帳簿と突き合わせて、差額の原因を探して……」
リーネはそこまで言って、口をつぐんだ。
「それは誰でもできることですから」
セラフィーナはペンを止めた。
「リーネさん」
「はい」
「領地全体の収支管理を一手に担い、商人の帳簿との照合まで行い、差額の原因を追跡できる。それは、誰でもできることではありません」
リーネは顔を上げた。困惑した目をしていた。
「でも、ただの帳簿です。刺繍のように形に残るものでもないし、菓子のように人に喜ばれるものでもない」
「形に残らないからこそ、その価値は見えにくいんです。ひとつ聞いてもいいですか」
「はい」
「あなたが実家を出た後、帳簿はどうなりましたか」
リーネの手が止まった。
しばらく沈黙があった。
「……帳簿が合わなくなって、父が困っていると聞きました」
その声は、小さいけれど確かだった。
「商船で一緒だった商人が、アルディスの男爵領の帳簿が最近おかしいという話をしていて。まさかと思ったのですが、たぶん、うちのことだと」
セラフィーナは紙にペンを走らせた。
「リーネさん。あなたの帳簿管理の能力は、この町でも必ず仕事になります」
「……本当ですか」
「カルーセル通商連合は商業都市です。商会も港湾管理局も、帳簿を正確につけられる人間を常に必要としています。あなたの経験は、ここではそのまま仕事になる」
リーネの目に、初めて別の色が浮かんだ。 戸惑いでも悲しみでもない。かすかな、本当にかすかな期待だった。
「通商連合の商会への経理見習いという形を提案します。書面を一緒に作りましょう」
リーネは小さく頷いた。
書面の作成には、マリカの時とは違う時間がかかった。
マリカは感情的だったが、自分の菓子作りについては饒舌だった。 リーネは違う。自分の能力を語ること自体に抵抗がある。「こんなことを書いても」「大したことではないのですが」と、何度も手が止まった。
セラフィーナはそのたびに、具体的な質問で引き出した。
「年貢の記録はどの単位でつけていましたか」
「麦は重量、果物は個数、布は反数です」
「差額が出た時、最初にどこを確認しますか」
「まず日付の抜けを探します。次に、商人側の単価と合わせます。それでも合わなければ、運搬中の損耗を計算に入れていないことが多いので……」
リーネは答える時だけ、声がはっきりした。 数字の話をしている時の彼女は、膝の上で震えている少女とは別人だった。
書面が出来上がった頃、日が傾き始めていた。
「商会への紹介ですが、少しお待ちください」
セラフィーナは二階へ上がった。
ルキウスの事務室の扉を叩いた。
「ファルクさん。通商連合の商会で、経理の人手を必要としているところをご存じですか」
ルキウスは書類から目を上げた。
「港湾区のヴェーバー商会が、先月から帳簿の担当を探している。たまたま知り合いがいた」
同じ言葉だった。 マリカの時の菓子工房と同じ、「たまたま知り合いがいた」。
ルキウスは机の抽斗から一枚の紙を取り出した。紹介状だった。宛名はヴェーバー商会代表。紙は新しく、インクの乾き具合から見て今日書かれたもののようだった。
「……もう用意されていたんですか」
「経理を探しているという話は先週聞いていた。相談所に二人目が来ると思っていた」
事務的な口調だった。 「思っていた」の根拠は語らなかった。
セラフィーナは紹介状を受け取った。
「ありがとうございます」
「ヴェーバーは堅実な商人だ。見習いに無茶は言わない」
ルキウスはそれだけ言って、書類に視線を戻した。
セラフィーナは階段を下りながら考えた。
菓子工房の時は「たまたま知っていた」。 今回は「たまたま知り合いがいた」。 そして紹介状は、まるで待っていたかのように準備されていた。
気になる、と思った。
ただの大家なら、借主の仕事にここまで関わる理由がない。 不動産管理の一環というには、踏み込みすぎている。
けれど、今はリーネのことが先だった。 疑問は頭の片隅に置いて、事務所に戻った。
リーネに紹介状を渡した。
「ヴェーバー商会というところです。港湾区にあります。経理の見習いを募集しているそうです」
リーネは紹介状を両手で受け取った。 指先がまだ震えていた。
「あの……私で本当に」
「大丈夫です。帳簿の話をしている時のあなたは、しっかりしていました。商会に行ったら、今日私に話してくれたことをそのまま伝えてください」
リーネは紹介状を胸に抱えた。
「ありがとうございます。明日、行ってみます」
リーネが戸口を出た後、セラフィーナは椅子に座ったまま天井を見上げた。
自分の価値を自分で決められない人が多すぎる。
帳簿をつける能力。数字を正確に管理する力。差額を追跡する注意力。 それらはリーネにとって「当たり前のこと」であり、だからこそ価値が見えなかった。
前の人生でも、同じような人をたくさん見た。 「私にはスキルがありません」と言いながら、実は周囲がその人なしでは回らない仕事をしていた人たちを。
セラフィーナは記録を書いた。
相談者リーネ。元男爵令嬢。19歳。子爵家嫡男による婚約破棄。帳簿管理の実務経験あり。ヴェーバー商会に紹介状を発行。
窓の外が暗くなっていた。
ふと、商船で聞いたというリーネの話を思い出した。 男爵領の帳簿がおかしくなっている、という噂。
リーネを「家格が足りない」と切り捨てた子爵家は、リーネがいなくなった後の男爵家がどうなるか、考えもしなかっただろう。
帳簿を任せていた娘を失った男爵家は、帳簿が合わなくなり、領地の運営に支障をきたし始めている。
捨てた側が、捨てたものの価値に気づくのは、いつも失ってからだ。
セラフィーナはインク壺に蓋をした。
マリカの菓子が市場で評判になっている。リーネは明日、商会に向かう。 二人とも、この町で新しい居場所を作り始めている。
私の仕事に意味がある。 そう思えることが、今の私の拠り所だった。




