第3話「届かない手紙」
港の汽笛が鳴った。
朝靄の中を、定期商船が波止場に滑り込んでくる。 アルディス王国からの便だった。片道5日から7日。風が良ければ5日、悪ければ7日。この時期は南風が安定しているから、おそらく6日といったところだろう。
セラフィーナは事務所の窓からその船影を見て、視線を戻した。
郵便受けに手紙が一通入っていた。
前回の手紙とは違う。 前回は数日前、差出人の名前がなかった。開封しないまま抽斗にしまってある。
今朝の手紙にも、差出人の名前はなかった。
封蝋は無地。紋章が押されていない。 貴族の書簡であれば家紋の封蝋を使うのが常識だ。紋章なしということは、差出人が家名を隠しているか、あるいは貴族ではないか。
セラフィーナは封を切った。
便箋は一枚。筆跡は丁寧だが、書き慣れた者の文字ではなかった。使用人の手だろうと推測した。
内容は短かった。
「悪役令嬢として追放された公爵令嬢の行方を探している者がいる。気をつけられたし」
署名なし。
セラフィーナは便箋を机の上に置いた。
指先が冷たかった。 朝の寒さのせいだと、自分に言い聞かせた。
アルディス王国。 5年前に追い出された国。 王立公証院に爵位剥奪と国外追放が記録され、帰国は禁じられ、家名も紋章も永久に使えなくなった国。
あの国の人間が、私を探している。
なぜ。
国外追放を受けた者の動向は、王立公証院の管轄外だ。騎士団にも国外への捜査権はない。追放者の情報がアルディス王宮に届くルートは、商人の噂話くらいしかない。
だとすれば、公的な捜索ではない。 個人的に探している者がいる。
セラフィーナは便箋を折り、抽斗を開けた。 数日前の未開封の手紙の隣に、今日の手紙を並べて入れた。
抽斗を閉めた。
過去に引きずり戻される気はない。
立ち上がり、インク壺の蓋を開け、今日の相談記録用の紙を出した。 マリカがベルント工房に通い始めて十日ほどが経つ。経過の聞き取りをする予定だった。
仕事をしよう。 それが、今の私にできることだ。
昼過ぎ、マリカが工房の休憩時間に顔を出した。
「先生、工房のおじさんがあたしの焼き菓子を店に出していいって言った」
エプロンに粉がついたまま、マリカは椅子に座った。 目が輝いている。十日前に泣きながら飛び込んできた時とは、別人のようだった。
「それは良い知らせですね。見習いの菓子を店頭に出すのは、工房主がマリカさんの腕を認めた証拠です」
「まだ端っこに置くだけだって。でも、名前は出してくれるって。『マリカの焼き菓子』って札をつけるって」
マリカは嬉しそうに、それから少し困ったように眉を寄せた。
「あたしの名前、この町じゃ誰も知らないけどね」
「今はそれでいいんです。名前は、菓子と一緒に覚えてもらえばいい」
マリカは頷いて、工房に戻っていった。 エプロンの粉を気にもせず、小走りに。
セラフィーナは記録を書いた。 ペンを持つ手が、少しだけ震えていることに気づいた。
手紙のことが、まだ頭の隅にある。
振り払うように、記録の続きを書いた。
夕方、建物の一階で足音がした。
管理人のオスカルが箒を持って廊下を掃いている。 セラフィーナが事務所から顔を出すと、オスカルは箒の手を止めた。
「嬢ちゃん、今朝の商船便で手紙が来てなかったか」
「……なぜそれを」
「郵便受けに突っ込まれてるのを見たんでな。わしが見た時には封蝋が無地だった。この町で無地の封蝋を使う奴はあまりいない」
オスカルは箒を壁に立てかけた。
「一応、ファルクにも伝えておいた。あいつは建物の管理者だからな、借主に妙な手紙が届けば知らせるのが筋だ」
セラフィーナは少し驚いた。 けれど、オスカルの言い分は理にかなっていた。建物の管理人として、借主の安全に関わる異変を大家に報告するのは当然の職務だ。
「お気遣いありがとうございます」
「気遣いじゃない。仕事だ」
オスカルは箒を取り直して、廊下の奥に消えた。
その夜、セラフィーナは事務所で帳簿をつけていた。
今月の収支を確認する。 相談料の収入は銅貨15枚。マリカの相談と、その前の元料理人の相談。連合銀貨にして1枚半。 家賃は連合銀貨2枚。生活費に銀貨3枚。 赤字だった。いつものことだった。
母の形見を換金して作った初期資金も、残りは多くない。
ペンを置いて、抽斗を見た。 開けなかった。
手紙のことを考えないようにしていた。 けれど、帳簿の数字を眺めていると、別の不安が重なってくる。
この相談所がなくなったら、私はどこに行くのだろう。
考えても仕方のないことだった。 今日のマリカの報告を思い出す。「マリカの焼き菓子」という札。 あの子は前に進んでいる。
私がここにいる意味は、ある。
帳簿を閉じた。 蝋燭の灯りを消そうとした時、事務所の戸口に何かが置かれる音がした。
小さな音だった。 足音はすぐに遠ざかり、階段を上がっていった。
戸を開けた。
戸口の床に、木の盆が置かれていた。 盆の上には、温かい茶が入った陶器の杯と、焼き菓子が二つ。 茶からは湯気が立っていた。
誰が置いたのかは分かっていた。 この建物で夜にこういうことをする人間は一人しかいない。
セラフィーナは盆を持ち上げた。 焼き菓子はベルント工房のものではなかった。もう少し素朴な、家庭的な味がする種類だ。市場の露店で売っているものだろう。
茶は温かかった。 一口飲んで、息をついた。
ファルクさんは、なぜこういうことをするのだろう。
大家として、借主の健康管理に気を配っているのか。 それとも、オスカルから手紙のことを聞いて、何か気にかけてくれたのか。
どちらにせよ、ありがたかった。 事業上の関係者として、信頼できる大家に恵まれた。それは確かだ。
ただ、差し入れのタイミングが良すぎることには気づいていた。 帳簿を閉じたばかりの、灯りを消す直前の時間。 まるで、事務所にまだ人がいることを確認してから置いたような。
考えすぎだ。
茶を飲み終え、焼き菓子を一つ食べた。 素朴な甘さが口に広がった。
盆を洗って、明日戸口に返しておこう。
蝋燭を消した事務所の中で、暗闇に目が慣れるまで椅子に座っていた。
過去は終わった。 あの国で起きたことは、もう私の人生ではない。
そう自分に言い聞かせた。
けれど、立ち上がって寝室に向かう途中で、もう一度事務所に戻った。
抽斗を開けて、二通の手紙を取り出した。 無地の封蝋。署名のない警告。
便箋をもう一度読み返した。
「悪役令嬢として追放された公爵令嬢の行方を探している者がいる」
探している者。 誰が。何のために。
手紙を抽斗に戻した。 今度はしっかりと閉めた。
明日はマリカの菓子が市場に並ぶ日だ。 経過報告を聞いて、記録をつけて、次の相談者が来るかもしれない準備をする。
それが私の仕事だ。 過去ではなく、今日の仕事だ。
二階の大家の事務室では、ルキウスが机に向かっていた。
手元には、港湾管理局で入手した最近の商船便の乗客名簿の写しがあった。 通商連合では船荷検査と並んで、乗客の記録が港湾管理局に保管される。閲覧は市民権保持者であれば申請可能だ。
オスカルから報告を受けた手紙の件。 無地の封蝋、署名なし、使用人の筆跡。
ルキウスは名簿の中から、アルディス王国発の直近の商船便の乗客を確認した。 商人、職人、船乗り。その中に、フェルディナン侯爵家の紋章を持つ者の名前はない。
だが、侯爵家の使用人であれば、主家の紋章を持たずに渡航することは珍しくない。 商人の定期便に紛れてしまえば、追跡は困難だ。
ルキウスは名簿を閉じた。
フェルディナン侯爵家。 マリカの元婚約者の家だ。
あの相談所に、あの女が、誰の世話にもならずに生活再建の仕事をしている。 その噂が、商船に乗ってアルディスに届き始めているのかもしれない。
手紙の差出人を特定するには、もう少し情報が要る。
ルキウスは灯りを消して、部屋を出た。
階下の相談所の窓は、もう暗かった。 戸口に置いた盆はまだそのままだった。
明日には返ってくるだろう。 いつもそうだ。盆は翌朝、洗われて戸口に置かれている。
ルキウスは何も言わず、自室に戻った。




