第2話「菓子と履歴書」
「履歴書って何?」
マリカは机の上に置かれた白紙を見つめて、眉をひそめた。
相談所の朝は静かだった。 港の喧騒はまだ遠く、窓から差し込む光が机の上を四角く切り取っている。
セラフィーナはマリカの向かいに座り、インク壺と羽根ペンを並べた。
「自分が何をできるかを、書面にまとめたものです」
「書面? 誰に見せるの」
「あなたを雇ってくれるかもしれない人に」
マリカは椅子の背にもたれて腕を組んだ。 昨日と同じ旅装のままだが、目の腫れは引いていた。
「あたしは伯爵令嬢だったの。雇われるとか、そういう経験がないんだけど」
「分かっています。だから今日は、まずあなたの中にあるものを洗い出します」
セラフィーナはペンを取り、紙の上部に「マリカ」と書いた。
「では聞かせてください。実家にいた頃、日常的にやっていたことを全部」
「全部? 刺繍とか、お茶の淹れ方とか、そういうこと?」
「何でも構いません。朝起きてから夜眠るまで、あなたが自分の手でやっていたことを」
マリカは天井を見上げた。 しばらく黙っていたが、やがてぽつぽつと話し始めた。
舞踏会の作法。手紙の書き方。来客への応対。花の生け方。 どれも伯爵令嬢として叩き込まれた技術だった。
「それと」
マリカが少し声を落とした。
「お菓子。侍女のエルザと一緒に、厨房で焼いてた。焼き菓子とか、果物の砂糖漬けとか」
「どのくらいの頻度で」
「毎週。エルザの休みの日以外はほぼ毎日。あたしが生地を作って、エルザが窯の温度を見て」
セラフィーナはペンを走らせた。 マリカの言葉を一つずつ書き留めていく。
「焼き上がりの見極めは」
「自分でやってた。窯の前に立って、色と匂いで判断する。エルザに教えてもらったのは最初だけで、途中からはあたしの方が先に気づくようになった」
「何種類くらい作れますか」
「数えたことない。でも、客間に出す菓子はだいたい作れた。バターの焼き菓子、蜂蜜の練り菓子、果物のタルト、香辛料の入った祝い菓子……」
マリカの声が少しずつ変わっていた。 怒りでも悲しみでもない。自分の手が覚えていることを、ひとつずつ確かめるような口調だった。
セラフィーナは書き終えた紙をマリカの前に置いた。
「マリカさん。この中で、通商連合で仕事にできる可能性が最も高いのは菓子作りです」
「……お菓子が仕事になるの?」
「この港には菓子工房が複数あります。船乗り向けの保存食から、市場の露店菓子まで。見習いを募集している工房もある」
マリカの目が揺れた。
「見習い? あたしが?」
「はい」
「伯爵令嬢だったあたしが、見習いとして働くの?」
声に棘があった。 けれど、昨日のような怒りではなかった。もっと深いところにある何かが軋んでいる音だった。
セラフィーナは静かに答えた。
「肩書きは剥がされました。でも、腕は剥がされていません」
マリカは口を開きかけて、閉じた。
机の上の紙を見た。 自分の名前と、自分にできることが並んでいる。 菓子の種類が一番多かった。
「……それ、売り込む書面ってどう書くの」
セラフィーナは新しい紙を一枚引き出した。
「まず名前。次に、できることを具体的に。何を作れるか、どのくらいの頻度で作っていたか、品質の判断を自分でできるか。そして最後に、自分がその工房で何をしたいかを一文で」
「何をしたいか、って」
「はい。『雇ってください』ではなく、『私はこれができます。だからここで働きたい』と伝えるための書面です」
マリカはペンを受け取った。 握り方が少しぎこちなかった。手紙は書き慣れているはずだが、自分を売り込む文章は書いたことがないのだろう。
セラフィーナは横に座り、一つずつ言葉を一緒に選んだ。
「『バターの焼き菓子』だけではなく、『生地の仕込みから焼き上がりの見極めまで一人で対応可能』と書いてください」
「そこまで書くの?」
「具体的であればあるほど、相手に伝わります」
マリカは唇を噛みながら、一行ずつ書き進めた。 途中で何度も書き直し、紙が一枚無駄になった。
セラフィーナは黙って新しい紙を差し出した。
昼を過ぎた頃、書面ができあがった。
マリカの文字は少し右に傾いていたが、内容は簡潔にまとまっていた。 名前、年齢、菓子の種類と技術、品質管理の経験、そして最後の一文。
「『あたしは菓子を作ることしかできないけど、それだけは誰にも負けない』……これでいいの?」
「語尾だけ少し直しましょう。『菓子作りの技術には自信があります。工房の一員として貢献したい』」
「あたしの言葉じゃないみたいだけど」
「書面は、あなたの言葉を相手が受け取りやすい形に翻訳するものです。気持ちは同じです」
マリカは渋い顔をしたが、書き直した。
書面が仕上がったところで、セラフィーナは席を立った。
「工房の場所を確認してきます。少し待っていてください」
二階への階段を上がり、大家の事務室の扉を叩いた。
「ファルクさん。港区の菓子工房で、見習いを受け入れているところをご存じですか」
ルキウスは事務机から顔を上げた。 手元には帳簿が開かれていた。
「港区の東通りにベルント工房がある。船乗り向けの保存菓子が主力で、最近注文が増えて人手が足りないと聞いた」
「ご存じだったんですか」
「たまたま知り合いがいた。不動産の取引先のひとつだ」
ルキウスは帳簿に視線を戻しながら言った。
「工房主はベルントという男で、腕は確かだが愛想はない。見習いに厳しいが、筋のいい奴には仕事を任せる。菓子職人としてはこの港区で一番まともだろう」
情報が詳しかった。 「たまたま」にしては、工房主の性格や経営方針まで把握している。
セラフィーナは少しだけ間を置いた。 けれど、それ以上は聞かなかった。
「ありがとうございます。助かりました」
「建物の修繕で東通りに行く用事がある。場所が分からなければ案内する」
「いえ、マリカさん自身が行くべきだと思います。場所だけ教えていただければ」
ルキウスは頷いた。
「東通りの三軒目。赤い煉瓦の煙突が目印だ」
セラフィーナは礼を言って階段を下りた。
不動産管理をしていれば、港区の店の事情に詳しくても不思議ではない。 大家としての情報網なのだろう。
そう考えた。
事務所に戻ると、マリカは書面を両手で持って読み返していた。
「港区の東通りにベルント工房というところがあります。見習いを受け入れる余地がありそうです」
マリカは書面を下ろした。
「……今日行くの?」
「行けますか」
「行けるかって聞かれたら、行けるけど」
マリカは立ち上がった。 外套の裾を払い、髪を手で整えた。 それから書面を丁寧に折り、外套の内側に入れた。
「あたし、面接なんてしたことない」
「大丈夫です。書面に書いたことをそのまま伝えてください。それと、もし試作を求められたら断らないこと。あなたの腕は、言葉より菓子の方がよく伝わるはずです」
マリカは戸口で振り返った。
「あんたってさ、なんでそんなに慣れてるの。こういうの」
セラフィーナは一瞬だけ止まった。
面談の組み立て方。書面の書き方。相手の能力を引き出す質問の仕方。 どれもこの世界で学んだものではない。 前の人生で、何百回と繰り返したことだ。
「経験です」
それだけ答えた。
マリカは首をかしげたが、それ以上は聞かなかった。 戸口を出て、東通りへ向かって歩いていった。
夕方、マリカが戻ってきた。
外套の内ポケットから書面を出して、机の上に置いた。 書面の余白に、太い文字で何か書き足されていた。
「明後日から来い、だって。試しに焼き菓子を一つ作ったら、工房主のおじさんが黙って食べて、それだけ言った」
マリカの声は震えていた。 けれど、目は泣いていなかった。
「おめでとうございます」
「まだ見習いだよ。給金だって雀の涙だろうし」
「それでも、昨日のあなたとは違います。明後日から、あなたには行く場所がある」
マリカは鼻をすすった。
「……あんたの書面のおかげかどうかは分かんないけど」
「書面は入口です。腕を見せたのはあなた自身です」
マリカは何か言いかけて、やめて、もう一度鼻をすすった。 それから外套のまま椅子に座り、机に突っ伏した。
泣いているのかと思ったが、顔を上げた時には笑っていた。 涙と笑いが同時にあるような、ぐちゃぐちゃの顔だった。
マリカが三階の部屋に戻った後、セラフィーナは記録を書いた。
相談者マリカ。菓子作りの技術を確認。書面を作成。ベルント工房に面接。採用(見習い)。
ペンを置いた。
彼女は大丈夫だ。
確信があった。 能力がある人間に必要なのは、能力を発揮できる場所と、最初の一歩を踏み出す背中を押す力だけだ。
窓の外を見た。 港の灯りがぽつぽつと点き始めている。
ルキウスのことを思い出した。 工房の情報。工房主の性格。経営状況まで把握していた。 たまたま、と彼は言った。
大家という仕事をしていれば、港区の事情に詳しくなるものなのだろう。 不動産の取引先だと言っていた。 不自然なことは何もない。
セラフィーナはインク壺に蓋をした。
不自然なことは何もない。 ただ、修繕の対応もいつも早いし、空き部屋の鍵も昨日すぐに出てきたし、工房の情報もすぐに出てきた。
ファルクさんには、いつも助けられている。
それは事業上の関係者としての信頼だった。 大家に恵まれた、という感謝。それだけのことだった。
翌日の朝、事務所の郵便受けに手紙が入っていた。
宛名は「生活再建相談所」。 差出人の名前はなかった。
封を切ろうとして、やめた。 先にマリカの出勤準備を確認しなければならない。
手紙を机の抽斗にしまい、セラフィーナは階段を上がった。




