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婚約破棄されて追放された元公爵令嬢、港町で相談所を開いたら破棄した側まで相談に来ました  作者: 月雅


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第10話「相談所の朝」

セラフィーナは相談所の看板を磨いていた。


朝の光が港に差し込んでいる。 潮風は相変わらずで、白い塗料の文字はまた少し薄くなっていた。


「生活再建相談所」。


二年前に自分で書いた文字だった。 布で拭くたびに、塗料の凹凸が指先に伝わる。


看板を磨くのは日課だった。 この相談所を開いた日からずっと、朝一番にやることだった。


けれど今朝は、少しだけ違うことを考えていた。


看板を掛け直して事務所に入ると、机の上に昨日の書類が三通残っていた。


ニコルの相談記録の最終版。リーネの商会での勤務報告書の写し。そして、港湾管理局への届出書類の修正稿。


ニコルの相談は、まだ途中だった。 侯爵家の領地経営の立て直しについて、基本的な方針を整理した段階だ。正確な収支を出すこと。取引先を一つずつ確認すること。失った信用の原因を自分の言葉で認めること。それが再建の最初の三歩だと伝えた。


ニコルは黙って聞いていた。 慇懃な口調が崩れかけた時、声が震えた。自分が壊したものの大きさに、ようやく向き合い始めている顔だった。


リーネはヴェーバー商会で正式に経理担当として雇用されていた。月給は銀貨5枚。見習いの枠を超えた速さだった。商会の代表が、港湾管理局への届出書類の数字が三ヶ月分ずれていたことをリーネが発見したと報告してきた。港湾使用料の計上時期の不一致だった。リーネでなければ気づかなかった。


マリカの菓子は市場で定着していた。 船乗り向けの保存菓子の新しい配合を試していると、昨日も嬉しそうに話していた。バターを減らして蜂蜜を増やした焼き菓子は、航海中でも味が落ちにくい。ベルント工房の工房主が「航海の友」という名前をつけた。


三人とも、自分の足で歩いている。


セラフィーナは書類を棚にしまい、椅子に座った。


棚にしまう前に、リーネの報告書の端に挟まれた小さな紙片が目に入った。 ヴェーバー商会の代表がリーネに伝えた、アルディスからの商船乗組員の雑談の記録だった。


聖女候補が王太子に見限られたらしい、という噂。


宮廷の内情が商船の船乗りの口に乗るまでには時間がかかる。噂が港に届いたということは、アルディスの宮廷ではもう公然の事実なのだろう。


聖女候補の失墜。 ニコルの縁談が破綻した原因そのものだった。


そしてもう一つ。 セラフィーナ自身の断罪の根拠だった聖女の証言。その聖女が王太子にすら見限られたということは、五年前の断罪の正当性がさらに揺らぐことを意味していた。


今すぐどうなるものではない。 けれど、アルディスの宮廷で何かが動き始めている。


セラフィーナは紙片を元に戻し、棚にしまった。


今の自分にできることは、ここにある仕事を続けることだけだ。


昼前に、ルキウスが事務所に来た。


帳簿の確認の日ではなかった。 けれど、ルキウスは帳簿ではなく、一枚の紙を持っていた。


「話がある」


椅子に座り、紙を机の上に置いた。


「相談所を、正式な事業として拡張しないか」


セラフィーナは紙を見た。 ルキウスの筆跡で、事業計画の骨子が書かれていた。相談所の業務範囲の拡大、経理・法務部門の常設化、事業届出の更新。


「俺が出資する。建物の一階全体を事務所として使えるように改装する費用と、当面の運転資金を出す」


「対価は」


「まだ考える、と言いたいところだが」


ルキウスは紙から目を上げた。


「正直に言えば、対価は要らない。だが、あんたはそれを受け取らないだろう」


「受け取りません」


「分かっている」


セラフィーナは紙の内容をもう一度見た。 事業計画としては堅実だった。数字に無理がない。ルキウスの財務能力が反映されている。


「出資者と事業主ではなく、共同経営者にしてください」


ルキウスの手が止まった。


「共同経営者」


「はい。出資を受けるなら、対等な立場で。経理と法務はルキウスさんが担当し、相談業務は私が担当する。利益と責任を分ける。それなら対価の問題は発生しません」


「俺に商才はあるが、人の話を聞く才能はない」


「だから二人でやるんです」


ルキウスは黙った。 机の上の紙を見つめていた。


「共同経営者になるなら、届出は本名で出すことになる。ゼーベックの名前が、この町の公的記録に残る」


セラフィーナは頷いた。


「あなたの名前は、私にとってはもう断罪の日にいた人の名前ではありません」


ルキウスが顔を上げた。


「二年間、差し入れを置いていった人の名前です」


ルキウスは何も言わなかった。 けれど、目が少しだけ細くなった。 笑ったのかもしれなかった。


午後、二人で市庁舎に向かった。


カルーセル通商連合の市庁舎は港湾区の中心にある石造りの建物だった。 届出窓口で、共同経営の事業届出書を提出した。


届出人の欄に、二つの名前を書いた。 セラフィーナ。ルキウス・ゼーベック。


窓口の担当官は名前を確認し、台帳に記録した。ゼーベックという名前に反応はなかった。通商連合にとって、外国人の名前はただの記号だ。アルディス王国の宰相家が何であるかなど、この町の役人には関係がない。


届出が受理された。


市庁舎を出ると、午後の陽射しが港を照らしていた。


「看板を変えなければなりませんね」


セラフィーナはそう言った。


「看板」


「共同経営になったなら、看板もそれに合わせた方がいい。事業内容も広がりますし」


「何という名前にする」


セラフィーナは港の風を受けながら考えた。


生活再建相談所。 二年間、その名前で相談者を受け入れてきた。マリカが飛び込んできた時も、リーネが静かに座った時も、ニコルが慇懃な顔で立っていた時も。


けれど、もう少し広い名前がいい。 婚約破棄された人だけではなく、人生が壊れた全ての人のために。


「新生活相談所」


「新生活」


「はい。再建ではなく、新しく始めるという意味を込めて」


ルキウスは少し考えた。


「看板の板は俺が用意する。檜の良い材がある」


「文字は私が書きます」


「あんたの字は右に傾く」


「読めれば十分です」


建物に戻ると、ルキウスが倉庫から檜の板を持ってきた。


事務所の机の上に板を置いた。表面は滑らかに削られていた。用意が良い。最初から看板を作り直す可能性を考えていたのかもしれなかった。


セラフィーナは白い塗料の小瓶を棚から出した。 筆を手に取り、板の前に立った。


「新生活相談所」。


一文字ずつ、丁寧に書いた。 筆の先が板の上を滑る感触。塗料の匂い。


ルキウスが腕を組んで見ていた。


「やはり右に傾いている」


「読めます」


「読める」


ルキウスの口元が僅かに動いた。


塗料が乾くのを待つ間に、オスカルが一階の廊下から顔を出した。


「市庁舎に行ったのか」


「共同経営の届出を出してきました」


オスカルはルキウスを見た。 ルキウスは何も言わなかった。


「やっと看板が二人分になったか」


オスカルはそう言って、箒を担ぎ直した。 口元が少しだけ緩んでいた。


夕方、マリカが工房帰りに寄った。


「先生、何か雰囲気変わった?」


「共同経営を始めることになりました。看板も変えます」


「へえ。ファルクさんと?」


「ルキウスさんと、です」


マリカは首をかしげた。


「名前変わったの?」


「本名です」


「ふうん」


マリカはそれ以上聞かなかった。 代わりに、布包みを机の上に置いた。


「お祝い。今朝焼いた航海の友。新配合の完成版」


焼き菓子が五つ、きれいに並んでいた。蜂蜜の甘い香りがした。


「ありがとうございます」


「先生が嬉しそうだと、あたしも嬉しい」


マリカは笑って、三階の自室に上がっていった。


塗料が乾いた。


セラフィーナは新しい看板を持って、建物の正面に出た。 ルキウスが古い看板を外した。釘を抜き、壁の金具から丁寧に取り外す。


古い看板の「生活再建相談所」の文字は、潮風で半分以上薄れていた。 二年間、毎朝磨いてきた看板だった。


新しい看板を金具にかけた。 ルキウスが釘を打った。


「新生活相談所」。


白い文字は右に少し傾いていた。 けれど、読めた。


セラフィーナは一歩下がって看板を見上げた。


ルキウスが隣に立った。 腕を組んで、同じように看板を見上げていた。


「悪くない」


「ええ」


二人の間に、いつもの距離があった。 けれど、その距離は壁ではなかった。


夜、事務所で一人になった。


机の上に、航海の友が残っていた。 マリカの焼き菓子。ベルント工房の「航海の友」の完成版。


セラフィーナは一つ手に取った。 一口齧ると、蜂蜜の甘さが広がった。日持ちを良くするために砂糖を控え、蜂蜜で甘みをつけた配合。素朴だけれど、飽きない味だった。


窓の外を見た。 港には商船が停泊している。明日の朝には出航するだろう。


この相談所は、他人の人生を立て直す場所だった。 マリカの菓子作り。リーネの帳簿管理。ニコルの再出発の端緒。 全部、ここから始まった。


でもいつの間にか、私の人生もここで立て直されていた。


その事実に、もう蓋をしない。


事務所の戸口を見た。 今夜は盆が置かれていなかった。


代わりに、二階から足音が聞こえた。 階段を下りてくる足音。ルキウスだった。


事務所の戸口に立った。 手に茶の杯を二つ持っていた。


「盆が足りなかった」


「直接持ってきたんですか」


「文句があるなら盆を買い足す」


「文句はありません」


セラフィーナは杯を受け取った。


ルキウスは戸口に寄りかかったまま、自分の杯に口をつけた。 事務所の中には入らなかった。戸口と机の間に、いつもの距離があった。


けれど、その距離は以前とは違うものだった。 壁ではなく、二人が選んだ間合いだった。


「……悪くない」


ルキウスがぽつりと言った。


何が悪くないのかは聞かなかった。 聞かなくても分かった。


セラフィーナは茶を一口飲んだ。 温かかった。


建物の外で、石畳を歩く足音がした。


一人分の足音。 ゆっくりとした歩調で、正面の入口に近づいてくる。


新しい看板が、夜の港の灯りに照らされていた。 白い文字が右に少し傾いて、「新生活相談所」と読める。


足音が近づいてくる。


セラフィーナは杯を机に置いた。


仕事だ。


(完)


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