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婚約破棄されて追放された元公爵令嬢、港町で相談所を開いたら破棄した側まで相談に来ました  作者: 月雅


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第1話「最初の依頼人」

セラフィーナは相談所の看板を磨いていた。


木製の看板には、白い塗料で「生活再建相談所」と書かれている。 潮風のせいで、文字の端がもう薄くなり始めていた。


朝の港は騒がしい。 荷運びの掛け声、カモメの鳴き声、車輪が石畳を叩く音。 カルーセル通商連合の港湾区域は、日が昇ると同時に動き出す。


この町では、身分ではなく許可証で仕事ができる。


セラフィーナはその事実を、2年前にこの港に降り立った日から何度も噛みしめてきた。 営業許可証は市庁舎の台帳に登録されている。保証人はこの建物の大家。営業保証金は銀貨50枚。母の形見の首飾りを質に入れて作った金だった。


看板を磨く布を絞り、もう一度表面を拭く。


開業から2年。 相談に来る人は月に1件か2件。 家賃が銀貨2枚という破格の安さでなければ、とうに潰れている。


「それでも」


声に出したわけではない。 心の中で、いつもの言葉を繰り返す。


それでも、ここは私の場所だ。


看板を掛け直して事務所に戻ると、机の上には昨日の相談記録が一枚だけ残っていた。 港で荷運びの仕事を探している元料理人の男性。調理場のある酒場を三軒紹介して、そのうち一軒が面接を受けてくれることになった。


結果はまだ出ていない。 けれど、やれることはやった。


セラフィーナは記録を棚にしまい、今日の準備を始めた。 インク壺を確認し、紙の残りを数え、相談用の椅子の位置を直す。


事務所は狭い。 机がひとつ、椅子が三つ、棚がひとつ。それだけの部屋だ。 窓からは港の一角が見える。午前中は日が入って明るい。


準備が終わっても、誰も来ない。 いつものことだった。


午後に差しかかった頃、事務所の戸が乱暴に開いた。


「ここ、相談所?」


入ってきたのは、若い女だった。 赤毛を乱雑に束ね、旅装のまま。外套の裾が泥で汚れている。 目が赤い。泣いた後だとすぐに分かった。


けれど、その目は怒りで光っていた。


「婚約破棄された人間が来る場所って聞いたんだけど」


セラフィーナは立ち上がり、相談用の椅子を引いた。


「はい。どうぞお座りください」


「座るかどうかは話を聞いてから決める」


女は戸口に立ったまま、事務所の中を見回した。 狭い部屋、簡素な机、インク壺と紙。 何かを値踏みするような目だった。


「あたしはマリカ。元ベルトラン伯爵令嬢。元、ね」


名乗り方に覚悟があった。 家名を口にしながら、同時にそれを切り捨てるような言い方。


「セラフィーナです。この相談所の相談士をしています」


「あんた、ここの責任者? 一人でやってるの?」


「はい」


マリカは鼻を鳴らした。 それでも、椅子に座った。外套は脱がないままだった。


「半年前に婚約破棄された。侯爵家の嫡男に。理由は、聖女候補との縁談が持ち上がったから」


早口だった。 感情を抑えているのではなく、感情ごと吐き出しているのだと分かった。


「実家は何もしてくれなかった。伯爵家が侯爵家に逆らえるわけないって。あたしの人生より家の都合が大事なんだって。だから出てきた。自分で」


マリカの声が震えた。 怒りなのか悲しみなのか、本人にも区別がついていないのだろう。


セラフィーナは何も言わなかった。 机の上に手を置いて、ただ聞いた。


「あたしは復讐したい。あいつに。あいつの家に。あたしを捨てた全員に」


マリカの拳が膝の上で白くなっていた。


沈黙が落ちた。


セラフィーナは少しだけ間を置いてから、静かに言った。


「まず、泣いていいですよ」


マリカの目が見開かれた。


「……は?」


「ここは相談所です。泣いても怒っても構いません。ただ、今のあなたに必要なのは復讐の計画ではなく、今夜眠る場所と、明日の食事です」


マリカの顔が歪んだ。


「あたしは復讐の話をしてるの。生活の話なんかしてない」


「生活の基盤がなければ、復讐どころか明日も生きられません」


セラフィーナの声は穏やかだった。けれど、芯がある。


「マリカさん。あなたは今、通商連合に営業許可証をお持ちですか」


「……持ってない」


「住む場所は」


「……ない。今日着いたばかり」


「手持ちのお金は」


マリカは唇を噛んだ。 その沈黙が答えだった。


「復讐は、生きている人間にしかできません。まず生きる土台を作りましょう。順番の話です」


マリカは反論しようとして、口を開いて、閉じた。 もう一度開いて、今度は違う言葉が出た。


「……あんたも、破棄されたの?」


セラフィーナは一瞬だけ間を置いた。


「ええ。少し事情は違いますが」


それだけ答えた。それ以上は語らなかった。


マリカの目から涙がこぼれた。 本人は気づいていなかった。 気づいたのは顎に雫が落ちた時で、慌てて袖で拭った。


「泣いてない」


「はい」


「泣いてないから」


「分かっています」


マリカは泣いた。 声を殺して、肩を震わせて、長い間泣いた。 セラフィーナは口を挟まなかった。水差しから杯に水を注ぎ、机の端に置いただけだった。


泣き止んだマリカは、目を腫らしたまま、水を一口飲んだ。


「……で、どうすればいいの」


「今夜はこの建物の空き部屋を使えるか、大家に確認します。明日から、あなたの持っている技術や経験を一緒に整理しましょう」


「技術なんてない。伯爵令嬢が何の技術を持ってると思うの」


「それを見つけるのが私の仕事です」


セラフィーナは事務所を出て、階段を上がった。 二階の奥、大家の事務室の扉を叩く。


「ファルクさん。少しよろしいですか」


扉が開いた。 長身の男が立っていた。ルキウス・ファルク。この建物の所有者で、セラフィーナの営業許可証の保証人でもある。


「空き部屋を一晩、使わせていただきたい方がいるのですが」


ルキウスはセラフィーナの背後を見た。 階段の下から、赤毛の女がこちらを窺っている。


「三階の角部屋が空いている」


それだけ言って、壁の鍵掛けから鍵をひとつ外した。 迷う素振りはなかった。最初から用意していたかのように、鍵は手のひらの上にあった。


「ありがとうございます」


セラフィーナが受け取ると、ルキウスは小さく頷いた。


「施錠は管理人のオスカルが夜にやる。朝は六時に開く」


必要な情報だけを、短い言葉で伝える。 いつも通りだった。


セラフィーナは鍵を持って階段を下りた。 マリカに鍵を差し出す。


「三階の角部屋です。鍵はこれ。夜は管理人が建物全体を施錠してくれるので、安全です」


マリカは鍵を受け取った。 小さな鉄の鍵を、両手で握りしめた。


「……なんで」


「なんで、とは」


「なんで、こんなに簡単に。あんたも、あの大家も」


セラフィーナは少しだけ微笑んだ。


「簡単ではないかもしれません。でも、今夜眠れる場所があることが、明日の最初の一歩になります」


マリカは何か言おうとして、やめた。 鍵を握ったまま、三階への階段を上がっていった。


事務所に戻ると、窓の外はもう夕暮れだった。 港の喧騒が遠くなり、カモメの声だけが残っている。


セラフィーナは今日の記録を書いた。


相談者:マリカ。元ベルトラン伯爵令嬢。20歳。侯爵家嫡男による婚約破棄。自主出国。手持ち資金なし。住居なし。営業許可証なし。特技未確認。


ペンを置いて、椅子の背にもたれた。


またこうやって、誰かの人生を立て直す仕事ができた。


小さな満足だった。 派手な成果ではない。ただ一晩の部屋を確保しただけだ。 それでも、これが私の仕事だ。


ふと、ルキウスの鍵のことを思い出した。


あの人、いつも準備がいい。


空き部屋があるのは知っていた。でも、鍵をあれほど早く出せるのは、最初から想定していたということだ。 相談所に誰かが来ることを。泊まる場所が必要になることを。


考えすぎだろうか。 大家として当然の備えかもしれない。


セラフィーナはインク壺に蓋をして、事務所の灯りを消した。


翌朝、階段を下りてくる足音がした。


マリカが事務所の前に立っていた。 昨日の旅装のまま。目はまだ少し赤い。


けれど、昨日とは違う何かが目にあった。 怒りではない。もっと小さくて、もっと頼りないもの。


「あたし、お菓子しか作れないけど、それでもいい?」


セラフィーナは椅子を引いた。


「座ってください。そこから始めましょう」

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