第6話:夜のコンビニから漏れ出す光って落ち着くよね
時刻は夜の九時半。
山中を抜けてようやく町へ辿り着いた真優とルナ。静かな田舎町の灯りの中、ふたりの間には、これまでにない穏やかな空気が流れていきます。
ふたりだけの時間。
けれど、その静寂は思わぬ再会によって破られ――
再び物語は、現実という舞台に引き戻されていきます。
前半の山道から一転して、今回はやわらかい日常と、ちょっとしたコメディ、そしてルナの変化を描くエピソードです。
ふたりの関係が少しずつ、でも確かに近づいていく時間を、楽しんでいただければ幸いです。
時刻は二一時三〇分。
綾野真優は、ルナを両腕に抱えたまま、ようやく峠を下りきった。東京都とはいえ、この辺りは山間の寂れた町。人の気配は薄く、ぽつぽつと立つ電灯には虫が群がっている。ちらつく光だけを頼りに、舗道をゆっくりと歩いていた。
普段であれば心細さを覚えるその明かりも、真っ暗な山道を越えてきた真優にとっては、どこかほっとするような、あたたかさを感じさせる光だった。
腕の中の少女の顔を覗き込む。ルナはすやすやと寝息を立てていた。長いまつ毛が街灯の光を受け、ほのかにきらめいて見える。その静かな美しさは、まるで精巧な人形のようで――けれど確かに、彼女は生きている。
(……まあ、峠道にほとんど明かりもなかったしな。しかも俺に抱えられて、ゆらゆら揺られてたわけで……そりゃ、眠くもなるか。)
心の中で小さく呟き、真優は歩みを再開する。家までは走れば十分ほどの距離だが、今はそんな急ぎ方はできなかった。腕の中の少女を起こさないよう、静かに、丁寧に歩を進める。
(……途中でコンビニに寄る。そこで起きるかもしれないけど……それまでは、寝かせてやろう。)
抱きかかえる身体の温もりが、じんわりと伝わってくる。人をこうして運ぶことなど、これまでの人生でほとんどなかった。ましてや、こんなに小さな少女を――。
(力加減を間違えて、怪我でもさせたらって、怖かった。だけど、今こうして運べてる。……少しは俺も、成長したのかもしれないな。)
街灯が真優の足元を照らし、彼の影がアスファルトの上に長く伸びる。さっきまでの緊張感が嘘のように、辺りにはやわらかな静けさが満ちていた。ふと見上げた夜空には、いくつかの星が、うっすらと瞬いている。
(……なんだろうな、この感じ。誰かに抱かれて、この道を通ったことがあるような……いや、気のせいか。)
ほどなくして、ひときわ明るい光が目に入った。コンビニだ。
普段なら見過ごしてしまう人工の光が、今は妙にありがたく思える。
真優は、その光に吸い寄せられるように歩を進め、駐車場を横切ってタイル張りのスペースへと入る。
「ルナ、起きろ。コンビニ着いたぞ。」
眠る少女に、そっと声をかけた。驚かせないように、声のトーンは柔らかく抑えて。
「……あれ? 私……寝ちゃってましたか?」
ルナはゆっくりと瞼を持ち上げ、真優の顔を見上げた。長いまつ毛の下、眠気の色を宿した瞳が揺れている。
小さな腕が動き、真優の服をぎゅっと掴む。その動きに合わせて身体が寄り添い、自然と抱きかかえやすくなった。
「眠そうだな。もうちょっと寝てるか?」
「いえ、起きます。ありがとうございました。」
ルナは小さく体を伸ばしながら、真優の目をまっすぐ見つめて答えた。声に力は戻ってきている。
(……こんな小さな体じゃ、少しの移動でも疲れるよな。早く家に帰して、ちゃんと休ませてやらないと。)
「それじゃあ、いったん下ろすぞ。足は後で洗おう。」
「はい。」
そっと地面に立たせると、タイルの冷たさに一瞬だけルナの肩がすくんだ。
「大丈夫か? 痛くないか?」
しゃがみ込んで目線を合わせながら問いかける。
「少し冷たいですけど、これくらいなら全然大丈夫です。……真優さんこそ、腕は大丈夫ですか? ずっと抱えてくれてましたし。」
ルナの声には、心からの気遣いが滲んでいた。
「へっ、心配すんな。道場の鍛錬で、百キロのオッサン抱えて町内一周してたからな。ルナくらい、余裕余裕。」
立ち上がり、腕をぐるぐると回してみせる。実際、そこまでの疲労はなかった。今からでも走り出せそうなほど、身体は元気だった。
「じゃあ入るぞ。……でも、そのジャンパーのフードは外すなよ。角、目立つから。」
そう言いながら、真優はルナの頭に優しくフードをかぶせ直す。
「分かりました。……変ですもんね、やっぱり。角があったり、尻尾があったり……」
寂しげに呟く声に、真優は一瞬、言葉を失う。
(――ルナは、まだよく分かっていない。人間の常識も、自分の立ち位置も。……きっと、あの外套の男を見て、ようやく“異質”だって自覚したんだろうな。)
真優はそっと、ルナの頭を撫でた。
「変かどうかで言えば、まあ……変だ。けど、俺は好きだぜ。丸くて、つやつやしてて――まさしくルナって感じで、かわいいよ。」
撫でるたびに、ルナの表情が少しずつ緩んでいく。
「……それじゃあ中に入ろう。サンダルと衣服、歯ブラシ。あと髪留めもいるかもな。髪、長いし。」
手を取り、真優はルナを促す。ルナは軽くうなずいて、その手を握り返し、小走りでコンビニの自動ドアへと向かっていった。
自動ドアの前に立つと、「ウィーン」という軽やかな音とともに扉が開いた。店内から漏れ出す冷気が、汗ばんだ肌に心地よく触れる。
「か、勝手に開きましたよ! これ……」
ルナは驚いたように目を見開き、真優を見上げた。
「自動ドア、知らないのか。まあ、ルナくらい小さいと反応しないこともあるから、ぶつからないようにな。」
「ぶ、ぶつかるのは嫌なので、気をつけます。」
頷きながら一歩後ろに下がると、ルナはそっと真優の手を握った。その小さな掌から伝わる温度に、まだ残る不安と、静かな信頼が感じられる。
必要なものはすぐに揃った。黒のサンダル、白い無地のパーカー、黒いショートパンツ、替えのTシャツ。そして、歯ブラシやヘアゴムといった細々した日用品も忘れずに。
だが、最後の難関が残っていた――下着である。
男物のコーナーはすぐに見つかったが、ルナに合いそうなサイズは見当たらず、そもそも形も用途も違いすぎる。
(……これ、どうすりゃいいんだ……)
真優は商品棚の前で腕を組み、難しい顔で下着を睨みつけていた。
「じーっと見て、どうしたんですか?」
ルナが小首を傾げて尋ねる。
「いや、どれ買えばいいか分からなくてさ。男物は……さすがに無理だろ?」
「このズボンをそのまま履くのはダメなんですか?」
「ダメに決まってるだろ!」
思わず声を張ってしまい、慌ててトーンを落とす。裸を見られることには抵抗を見せるのに、下着を履かないことには無頓着。ルナのバランス感覚には、未だ謎が多い。
(……仕方ない。聞くか。あの店員、確か女性だったな。)
真優はルナの方を向き、声を潜めて告げる。
「ルナ、いいか。今から俺はお前の“パパ”ってことにする。川で遊んでたら服がびしょ濡れになって、靴も流されて……それで着替えを買いに来た親子、な?」
「了解です。パパ!」
「よし。……じゃあ、行くぞ。」
真優は気合を入れ直し、商品を補充していた女性店員に声をかける。
「あの~、すみません。少し……いいですか?」
店員がこちらを振り返った瞬間、二人の視線がぶつかる。互いに言葉を失い、時が止まったように数秒間、凝視し合う。
ルナは事態が飲み込めず、二人の顔を交互に見比べていた。
「どうしたんですか、真優さん……?」
ショートカットの髪が肩にかからぬ程度で切り揃えられ、赤みを帯びた黒が照明の下でわずかに光を反射していた。ぱつんと整えられた前髪の奥から覗くのは、意志の強さを宿した赤茶色の瞳――その目を、真優は忘れてはいなかった。
視線を落とすと、身長は一六〇センチほどだろうか。華奢に見えながらも、その体には無駄のない筋肉が均等についていて、制服越しでも鍛え上げられた輪郭が見て取れる。細身ながら、しなやかで強靭。力より速さと正確さを選んだ、実戦向きの肉体だった。
「……照日。」
「おに、いちゃ……ん!?」
店内に、空気が張り詰める。
「裸足の女の子……着てるのはお兄ちゃんのジャンパー……この時間……。誘拐!? け、警察に連絡を!!」
照日は従業員室へと駆け出そうとする。その腕を、真優が慌てて掴んだ。
「待て! 違うんだ照日!! 誤解だ!」
「離せ! ロリコンくそ兄貴! 私にまで手を出す気か! ロリコン!!」
「違う! この子は……えーっと……あっと……」
言葉に詰まりかけたそのとき――ルナが一歩前に出る。
「違うんです! 真優さんはパパなんです!」
「ちょっと待て! ルナ!!」
その場がさらに混乱しかけた時、照日の顔から血の気が引き、震える声が漏れる。
「パパ……活……!?」
「違う!!」
「……それじゃあ、隠し子?」
「それも違う!! 空から降ってきた卵から生まれて、変な奴に狙われてたんだよ!」
「そんな嘘が通じると思ってるの!?」
一触即発の空気に、ルナは固まる。が、その瞳に宿ったのは、覚悟だった。
彼女はそっとフードを外し、ジャンパーの裾をめくる。丸く光る角が現れ、尻尾の先がちらりと覗く。
「本当に違うんです。真優さんは……その、助けてくれて……」
照日は絶句し、その場で固まった。
真優は慌ててルナにフードを被せ直し、周囲に目を走らせる。幸い、客はいない。
「角……尻尾……本物……?」
「と、とりあえずお二人とも落ち着いてください。」
ルナの声はか細く、震えていた。
「ルナ、ありがとな。……尻尾、しまっちまえ。」
「は、はい。」
「……コスプレにしては……手が込みすぎてるよね。……それ、本当に……?」
照日はゆっくりと真優に視線を戻し、問いかけた。その声に刺はあるが、冷たさは感じられなかった。
「……面倒ごと、ってことね。……ふたりとも、こっち来て。」
「さすが照日。話が早いな。ルナ、行こう。」
「えっと……解決したってことで……いいんですか?」
「……お前のおかげだよ、ルナ。ありがとうな。」
三人は店の奥、バックヤードへと向かう。照日は在庫棚を抜け、休憩スペースの椅子を指差した。監視カメラの死角であることを確認し、真優はようやく息をつく。
照日は腰を下ろし、鋭い目を向けながら口を開いた。
「さっきのあれ……説明して。」
真優は少し間を置き、言葉を慎重に選びながら答える。
「あれは……本物だ。名前はルナ。空から落ちてきた卵から生まれた。変な奴に追われてたから……助けた。」
「つまり、まだ追われてるわけね。」
「……ああ。」
照日の視線が、ルナへと移る。その目は鋭くも、どこか優しい。
ルナは小さく深呼吸をしてから、背筋を正して言った。
「改めて、自己紹介します。ルナと申します。……たぶん、ドラゴンという生き物です。真優さんには、本当に助けていただいて……感謝しています。」
その一言に、照日は目を細め、ふっと笑った。
「私は井之頭照日。よろしくね、ルナ。ごめんね、怒ってたわけじゃないよ。……まあ、信じがたい話だけど、お兄ちゃんが嘘つくとは思えないし、君も……嘘ついてるようには見えない。信じるよ。」
「ありがとうございます!」
ルナの顔がぱっと明るくなる。照日も、その笑顔に釣られて優しく微笑んだ。
「それで……服とか靴がない、ってわけね。」
「そう。こんな時間でもコンビニが開いてて助かったよ。」
「……なら、ちょっと待ってて。服と下着、それにサンダルも。あったかもしれない。」
「ちょっ、照日、お金は――」
「ちょうど廃棄品が出そうな予感がしてね~。たまたまね!」
悪戯っぽく笑いながら、照日はルナにウインクを一つ送り、ぱたぱたと休憩室を後にした。
働いてもいないコンビニのバックヤード。薄暗い休憩室の中、真優とルナは並んで腰を下ろしていた。
無骨なテーブルと、少し軋むパイプ椅子。壁には社員用の張り紙やシフト表が貼られ、コーヒーメーカーの機械音がかすかに響いている。場違いなはずの場所に、なぜかふたりは妙な安らぎを感じていた。
「……真優さんって、妹さんがいたんですね。」
ルナがぽつりと口を開く。
「まあな。……血のつながりはないけど。」
「そうなんですか? でも、似てますよ。雰囲気とかすごくそっくりです。」
「それ、あいつに言ったらブチ切れるぞ。“俺に似てる”って言われんの、照日は大嫌いだからな。」
ふっと笑いながら、軽口を返す。その声の調子に、ルナも小さく笑った。部屋に柔らかな空気が流れる。
他のスタッフの気配はない。照日の態度から察するに、今はおそらくワンオペ中だろう。ようやく、本当の意味での「休息」がふたりに訪れた。
静かな時間。時計の針の音が、かすかに耳に届く。
やがて、ぱたぱたと廊下を駆ける軽快な足音が聞こえてきた。照日が戻ってきたのだ。
「ただいま~! はい、これ! ごめんね、お客様来ちゃって! すぐ戻らなきゃで……あと三十分くらいで終わるから、それまで待ってて!」
息を切らせながら袋をテーブルに置き、照日は売り場へと駆け戻っていった。
「ありがとう……ございま、す。忙しいんですね。」
「……らしいな。」
袋の中には、サンダルと下着、それにタグが外れた衣服が丁寧にたたまれて入っていた。おそらくきっと多分、廃棄予定品を照日が機転を利かせて持ってきてくれたのだろう。そうに違いない。
真優は袋を手に取り、ルナの前に差し出す。
「……着替えな。俺は外で待ってる。」
そう言って立ち上がろうとしたとき、背後から小さな声が飛ぶ。
「……行っちゃうんですか?」
振り返ると、ルナが不安そうにこちらを見ていた。指先がパーカーの裾をきゅっと握り、視線は床に落ちている。
「着替えるんだったら、俺がいたら嫌だろ?」
「いえ……見られるのは恥ずかしいです。でも……ひとりは、もっと嫌です。」
消え入りそうな声。けれど、それは確かな本音だった。
真優は少しだけ目を細め、静かに頷く。
「……わーったよ。目、つぶってるからさっさと着替えな。」
「はいっ!」
ルナは元気な返事をし、袋を抱えてしゃがみ込む。ビニールを破る音、衣服の擦れる音、もたつく気配がすぐに響いてきた。目を閉じていても、真優の耳は妙に敏感になってしまう。
気まずさを紛らわせるように、口を開いた。
「今日はその服で我慢してくれ。急ごしらえだけどな。」
「そんな! “我慢”なんて……ふわふわで、さらさらで……とってもいいお洋服です!」
明るい声が返ってくる。どうやら、本当に気に入ってくれたらしい。
けれど、すぐに声のトーンが変わった。
「……あの、真優さん。」
「ん?」
「その……見ずにお洋服着るの手伝えますか?」
「いやあ……流石に厳しい。」
「……やっぱり、見てもいいのでお服着るの手伝ってください……お願いします。」
目を開くと、ルナがTシャツに腕を通そうとしていた――が、翼が引っかかってどうにもならなくなっていた。
「……しょうがねぇな。翼出す穴、開けるか。」
真優はTシャツの背中に二本の切れ込みを入れ、翼が自然に出せるよう加工する。ショートパンツには尻尾を通すためのスリットを。キャップには、角を出すための小さな穴をふたつ。
「よし、これで着られるはずだ。」
「ありがとうございます!」
数分後、着替えを終えたルナは、先ほどとはまるで別人のような装いになっていた。
黒いキャップからは、丸くてつやつやした二本の角がちょこんと覗き、どこかポップな印象を与える。Tシャツは翼用に加工され、その上に羽織った白いパーカーがふんわりと揺れる。ショートパンツの裾から出た尻尾はお腹に巻かれ、パーカーで自然に隠されている。足元のサンダルはやや大きいが、しっかりと足に馴染んでいた。
「どうですか真優さん! 似合ってますか?」
ルナは嬉しそうにくるくると回ってみせた。
「……ああ。すごく、可愛いよ。……とはいえ、急ごしらえだ。明日にはちゃんとした服、買いに行こうな。」
「いいえ、これで十分です! 照日さんが選んでくれて、真優さんが作ってくれたんですから。とっても気に入ってます!」
そう言って、太陽のような笑顔を浮かべる。その無邪気な様子に、真優は心の中で何か柔らかいものが解けていくのを感じた。
「……結構、強引に切ったからな。あんまり動くと、破れるかもな。」
「ひぇっ、それは嫌です。でも……ありがとうございます。これでようやく、自分の脚で動き回れます!」
「それならよかった。」
ルナはその場でぴょんぴょんと跳ねながら、パーカーの裾を揺らしていた。元気に飛び跳ねるその姿を、真優は椅子に腰掛けたまま、目を細めて見つめる。
――ほんのひととき。まるで嵐の後の、穏やかな夢のような時間。
だが、そんな静けさを破るように、ぱたぱたと足音が再び近づいてきた。
「おまたせ~! 次のバイト来たから、そろそろ出て、外で待ってて!」
照日が戻ってきた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました!
今回の話は、いわば「小休止」のような一幕。
激しい戦闘や逃走劇の合間に訪れた静かな時間――ですが、再会や誤解、着替え事件など、トラブルには事欠かないふたりでした。
このパートの見どころは、なんといってもルナの変化です。
これまで守られるだけだった彼女が、自ら言葉を選び、誰かに頭を下げ、自分の正体を明かす。
それは小さな一歩でもあり、大きな一歩でもあります。
そして、“妹”照日の登場によって、真優の過去や人間関係もこれから徐々に明らかになっていきます。
次回は、いよいよ「帰還」と「決断」の物語へ。彼らの夜は、まだ終わりません。
これからも、どうぞよろしくお願いします!