第0話(後編):屋上と、夢と、土下座と
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Aパートでは“窓から飛び込む系遅刻魔”として登場した真優ですが、
Bパートでは少し真面目な面も見えたり、夜の校舎での静かなやり取りが描かれます。
放課後の屋上での金時との会話、そして転校生・澄香との再会――
物語が少しずつ動き出す空気を、感じていただけたら嬉しいです。
放課後。春の日差しはまだやさしく、空はほんのりと金色に染まり始めていた。
校舎の屋上。コンクリートの床の上に、二人の男子生徒が並んで寝転がっていた。
頭を隣り合わせ、足を逆方向に伸ばし、春の空を無言で見上げる。
一人は綾野真優。
もう一人は井之頭金時。
井之頭金時は、真優の幼なじみにして道場の跡取り息子。百七十センチほどの身長に引き締まった筋肉質な体型を持ち、細身ながらも強さを感じさせる。髪は艶やかで青みがかった黒色で、耳が半分ほど隠れる程度の長さで整えられている。中性的で端正な顔立ちには鋭くも落ち着いた印象の深い青い瞳があり、その視線は常に冷静で自信に満ちている。制服のブレザーは軽く着崩され、シャツの襟元とネクタイが緩く締められている。
成績優秀、運動神経抜群、顔も整っていて女子に人気……そして真優より強い。
いわば“完璧超人”であり、どこか主人公っぽさすらある男だった。
「……春って、こういう日があるから好きだよな」
と、真優が空を見上げたまま呟いた。
「うん。寒くもなく暑くもなく、眠くなるくらいに気持ちいい」
金時も同じように視線を空に向けたまま応じる。
「なあ、金時」
と、真優が言葉を続ける。
「お前って進路もう決まってんだっけ?」
「僕? うん、まあ……一応ね」
金時は少しだけ首を横に傾けた。
「一応って……お前、あれだけ勉強してたのに?」
「君の前でもずっとやってたでしょ。目指してるのは医者だよ」
「やっぱ、すげぇな」
真優は感心したように言った。
「それに比べて俺は……進路も決まってねぇし、大学も金かかるしで、八方塞がりだわ」
「君の場合、やれば何でもできるんだから、贅沢な悩みだよ」
金時は淡々と、しかしどこか呆れたように返す。
「まぁ、それは自分でもわかってるけどよ」
真優は少しだけ笑って見せる。
「……ほんとむかつくわ、その“自覚ありきの天才”感」
と、金時は軽くため息をついた。
「なにそれ。つーか、強いしモテるし完璧なお前に言われたかねぇわ」
そう言いながら、真優は両手両足をバタバタと動かして抗議する。
金時は小さく笑ってから、ふと真面目な声で言った。
「でもさ、君だっていろいろ大変なのはわかってるつもり。
父さんも言ってたけど……“やりたいことをやれ”って。金のことなら貸すって、何度も言ってるよ」
「気持ちはありがてぇけどな……正直、ちょっと悪いなって思っちまう」
真優は両手を後頭部に組み、長く息を吐いた。
「俺が師範代やってんのも、結局は生活のためだしさ」
「だからこそ、うちは助かってる。君がいてくれなかったら、回らなかったと思うよ」
金時の声は真っ直ぐだった。
真優は目を閉じ、風を感じながら言葉を飲み込む。
春の陽は暖かいが、地面のコンクリートはまだ少し冷たかった。
その温度差が、今の心情に妙に重なる気がした。
「……なあ金時、やっぱし――」
言いかけたところで、屋上の扉がギイと音を立てて開いた。
真優は寝転んだまま目だけを向け、金時はすぐに上半身を起こして振り返る。
現れたのは井之頭慧音だった。
「どうしたんだよ、姉ちゃん。こんなとこに」
金時が問いかける。
「どうした、じゃねぇよ。屋上は立ち入り禁止って言っただろ」
と、慧音は眉間にしわを寄せながら答えた。
「いや、俺らがここから落ちてもケガしねぇって」
真優が気だるげに返す。
「他の生徒が真似したらどうすんだ」
慧音の語気が、少しだけ強くなる。
「いやいや、僕は死ぬからな!? 真優と一緒にしないでよ!」
金時がすかさず突っ込んだ。
慧音はやれやれと首を振りつつ、視線を弟に向ける。
「まあいい。……金時、ちょっと面貸せ」
「ん? なに?」
「家の話だ。少し来い」
その言葉に、ほんの一瞬だけ空気が張り詰めた。
だが金時はすぐに、へらりとした笑顔を作って言った。
「ああ、掃除当番ね。はいはい、行きますよー」
「おいおい、金時……お前まで俺を一人にすんのかよ……! 俺の身体だけが目当てだったんじゃ……」
「キモいこと言うな! また明日!」
からかい合いながら、金時は慧音とともに屋上の扉を出て行く。
そのとき慧音が、立ち止まって真優を振り返った。
「……真優。進路調査票、今日中に提出って言ったよな?」
「え、まだ日が沈んでねぇじゃん!」
「私はもう帰る。未提出は町内百周だ。走れ。サボったら筋肉でバレるからな」
「うそだろ……!」
ばたん、と容赦なく閉じられた扉の音が、どこか響いた。
「……ついてねぇな、今日は」
真優は右腕で顔を覆い、光を遮る。
じわじわと眠気が身体を包んでいく。
「……少し、寝るか」
静かに目を閉じ、まどろみの中に沈んでいった。
夢を見ていた。
いや、“夢”と呼んでいいのかも分からない。ただ、何もない空間に一人で立っているだけだった。
視界は真っ暗で、上下も左右も分からない。足元に床があるような気はするが、実感がない。
音もなく、空気すら感じられない。唯一感じるのは、背中をひたすような寒さと、言いようのない孤独。
「……なんだ、ここ」
真優はぼそりと呟いた。声は出たはずなのに、自分の耳には届かない。
見渡しても、誰もいない。何もない。
聞こえてくるのは、静寂すら通り越して、耳鳴りのような沈黙だけ。
そのときだった。
かすかな声が、どこかから――いや、頭の中に直接響いてきた。
「……れ……」
「は? 誰だよ……」
振り返ろうとしても身体が動かない。声の方向すら分からない。
けれど確かに、誰かの声だった。
少女のような、高く、澄んだ声。
「……ま……れ……まも……れ……まもれ……」
「守れ……?」
声を繰り返している。何かを、必死に伝えようとしているような響きだった。
その瞬間だった。
――足元が、なくなった。
ぐらり、と視界が傾いた感覚があったかと思うと、身体が落ちていく。
重力に引かれるように、下へ、下へ――どこまでも深く、暗い底へ。
「うわああああああああっ!!」
真優は叫びながら飛び起きた。
呼吸が乱れ、胸が上下に大きく動いている。額からは冷や汗が伝い落ち、背中までじっとりと濡れていた。
「……っ、ゆ、夢か……?」
荒く息を吐きながら、真優は額に手を当てる。
「なんなんだよ、あれ……最悪の目覚めじゃねぇか……」
耳の奥ではまだ、心臓の鼓動がドクドクと鳴っている。
やけに寒い。風が冷たい。ふと目を上げれば、空はすでに暗くなっていた。
「何時間寝てたんだ、俺……」
独り言のように呟いた、その直後だった。
背後に、人の気配。
反射的に身を起こし、振り返る。
屋上の扉が開いており、その前に――東雲澄香が立っていた。
制服姿のまま、手には小さなトートバッグ。月明かりの下で、驚いたように目を見開いている。
「……あ、わりぃ。驚かせたか?」
真優が声をかける。
「は、はい……ぃ……」
澄香は今にも泣きそうな声で、小さく頷いた。
「いや、ほんとすまん。変な夢見てさ、つい叫んじまった」
と、真優は苦笑いを浮かべる。
「……で、こんな時間に屋上って、何してたんだ?」
「え、えっと……その……」
澄香は指をもじもじと絡めながら、口ごもった。
「学校の中を、ちょっと探検してたら、楽しくなっちゃって……それで気づいたら遅くなってて……」
「探検?」
真優は首をかしげた。
「はい……屋上って、昔からなんとなく憧れてて。もし今なら、誰もいないし……ちょっと見てみたくて……」
言い終えるや否や、澄香は突然地面にひざまずき、頭を下げた。
「す、すみませんでした! 本当に出来心で! あこがれは止められなかったというか……ああああ! なんでもするので、見逃してください!!」
「ちょ、ちょっと待て、土下座すんなって!」
慌てた様子で真優が立ち上がり、両手を振る。
「別に誰かに言うつもりもないし、お前が怒られるなら俺のほうが先だろ。先に来てたしな」
「た、たしかに……」
澄香はぱっと顔を上げ、赤くなった頬を押さえた。
真優は地面に腰を下ろし、あぐらをかいた状態で声をかける。
「ほら、そこにいないでこっち来いよ。屋上に出たかったんだろ? でも風強いから気をつけろよ」
「は、はいっ!」
澄香は少し戸惑いながらも、屋上の中央へと歩み出た。
春の風が吹き抜け、彼女の長い三つ編みが揺れる。
「ひぇえ……思ったより風、強いです……イメージと違いました」
と、澄香が肩をすくめる。
「だろ? でも昼間ならもうちょっと穏やかなんだ。天気が良ければ、弁当とか食うのに丁度いい」
「え……お昼ごはん、ここで食べたりするんですか?」
目を輝かせながら、澄香が尋ねた。
「ああ、金時と二人でな。実質貸し切り状態」
と、真優は得意げに答えた。
「……あの、その……もし邪魔じゃなければ……今度、ご一緒してもいいですか?」
澄香は人差し指をくるくる回しながら、おそるおそるそう言った。
真優は少し間を置いてから、にやりと笑って答えた。
「やだ」
「そそそ、そうですよね! すみませんでした!!」
澄香はすぐに頭を下げようとするが――その前に、真優が言葉を被せる。
「いや、そういう意味じゃねぇよ。そういうのって、許可もらうもんじゃねぇだろ。
一緒に食いてぇなら、食えばいいだけの話じゃん」
「……!」
「たまに他の部活のやつらも来るし、話してりゃ自然と飯一緒に食うことになるんだよ。
それに、こないだオカルト研究部のやつが言ってたぜ――この学校には“呪われたベートーベン花子さん階段”があるってな」
「な、なんですかそれ……!?」
澄香が思わず吹き出しかける。
「なんかベートーベンの顔した階段みたいな腹の花子さんが、コサックダンスで2年B組から出てくるって話だよ。怖いだろ?」
「あはははっ……あっ、ダメ……お腹痛い……」
澄香は肩を震わせて笑い出した。さっきまでの緊張がすっかり溶けたようだった。
涙をぬぐいながら、澄香は笑顔のまま真優の方を向いた。
「……朝も、ありがとうございました」
「ん? 俺なんかしたっけか?」
「はい。緊張してて、うまく話せなくて……でも真優さんがあんな風に茶化してくれたおかげで、みんなと話せたんです。ほんとに、感謝してます」
ぺこりと頭を下げるその姿に、真優は軽く笑って答えた。
「礼言われるほどのことじゃねぇよ。……でも、まあそういうののきっかけになれたってなら、ちょっと嬉しいかもな」
そのとき――屋上の扉が、また音を立てて開いた。
そこに立っていたのは、警備員だった。
「コラァ! こんな時間に屋上で何してるんだ、お前ら!!」
「えーっと……星の勉強を……?」
真優が苦し紛れに答える。
「また君か! その言い訳、もう三回目だ! せめてバリエーションを持て!」
「すんません!」
真優が即答する。
隣で固まっていた澄香に、小声で耳打ちする。
「おい、申し訳なさそうな顔しとけ!」
「は、はいっ!!」
「なんだその“とりあえず反省しとけば許される”みたいな顔は!」
警備員がツッコむ。
「澄香!」
真優が促す。
「ご、ごめんなさいっ!!」
と、澄香が頭を下げる。
「お前だ真優っ!!」
警備員の怒声が夜の校舎に響いた。
警備員に連れられ、俺と澄香は並んで夜の校舎を歩いた。
誰もいない廊下。外の空気がガラス越しに冷たく流れてくる。
やがて正門に着き、警備員が立ち止まって振り返った。
「それじゃあ、気をつけて帰るんだよ」
と、彼は柔らかく言った。
「はい……申し訳ございませんでした」
澄香は深く頭を下げ、丁寧に謝る。
「いやいや、君はいいんだよ」
と、警備員は笑ってから俺の方を睨んだ。
「お前だよ、真優! 君のような不良にはなるなよ、嬢ちゃん!」
「えへへ……めんご☆」
俺は軽くウインクして舌を出す。たぶん反省の色は見えてない。
「……まったく。まあ、いい。お前も気をつけて帰れ、真優」
そう言って、警備員は少しだけ呆れたように眉を下げた。
「おっす。また明日〜」
手をひらひら振りながら、俺は澄香と一緒に歩き出す。
夜風がやや冷たくなってきた。
街灯の灯りが、アスファルトに薄く伸びている。
「なあ、澄香」
と、俺が口を開いた。
「夜も遅いし、家まで送ってこうか?」
「あっ……それは、大丈夫です。これからバイトなので」
澄香は申し訳なさそうに笑う。
「バイトか。偉いな、お前」
「そ、そんなこと……。でもありがとうございます」
「じゃ、気をつけてな」
と、言いながら俺は立ち止まる。
「俺、ちょっと屋上に忘れ物しちまったから、戻ってくるわ」
「えっ……? でも、そっちって――」
澄香が言いかけたときには、俺はすでに行動に移していた。
軽く踏み込んだその瞬間、俺はまるで重力を無視するように跳躍した。
校舎の外壁のフェンスを一息で飛び越え、指先を壁の隙間に引っかけて、するすると上っていく。
その姿は、まるで人間離れした運動能力の塊だった。
澄香は呆然とその様子を見上げながら、小さく呟く。
「……あの人……」
言葉の続きを口にする前に、真優の姿は夜の闇と屋上の影にすっと溶けていった。
その夜、綾野真優はもう一度、屋上に立っていた。
風は冷たく、月は静かに輝いていた。
「……“守れ”って、どういう意味だ?」
ひとりごとをこぼしながら、彼は空を見上げた。
どこか遠くの、けれどすぐそこにあるような不穏さを、春の空気の中に微かに感じながら――。
ここまでお付き合いありがとうございます!
遅刻騒動のあとに、夢、そして夜の屋上での出会い……
真優の「普通じゃないけど普通に見せようとしてる日常」と、
澄香の「不器用だけど真面目で一生懸命」な姿が、少しでも伝われば幸いです。
次回以降、物語はゆっくりと“非日常”へと足を踏み入れていきます。
ぜひ、次話もお楽しみに!