凍れる幻想
ある朝早く、レオノラが知らないうちにオブは出掛けていた。どこへ行ったのだろうと思った。心配はしないが、何か心が落ち着かなかった
指にはめた紅水晶が、心なしか少しくすんで見えた
オブは午前のうちに戻った
「ほら」
オブはテーブルに二羽の動かないつぐみを投げてよこした
「どうしたのこれ…」
「何って、獲ったんだ。あんたずっと肉食ってないだろう」
「私肉は食べないわ、冬でも無い限り。その時は干し肉を買い入れるから、捌けないわよ」
「あー、どうりで麦と雑穀ばかりだと思ったよ。俺が捌いてやるから食えよ。美味いぞ」
レオノラはつぐみの死骸から目を背けながら言う
「要らないわ…貴方が一人で食べるなら構わないけど」
「相変わらずあんたは正しい事を言う。興醒めだ」
オブは鳥を暖炉の火に投げ込んだ。羽根と肉の焼ける匂いがして、レオノラは堪らず咳込んで小屋の外に走り出、悲しい気持ちで佇んでいた
オブはそれを追って外に出た。急に何か悪い事をした気がして、後ろからレオノラに抱きついた
「悪かった」
レオノラはどうしたら良いのかわからなかった。オブは鳥が美味しいから勧めたという気持ちはわかった。山賊の指輪をはめた時も同じだ。だがその思いやりは何かずれているし、違う目的でつぐみを狩ったんだろうと思った。レオノラは鳥の死を悲しみ、また誘惑に晒されているオブを想った
自分を抱き締めている男が誰なのかわからない。自分が愛した人なのか、山賊と笑って戦っていた人なのか
レオノラはその腕をそっと解いた。どんな彼でも受け入れたかったが、不必要な殺生を見過ごす訳にもいかない
「レオノラは死ぬのを見るのが嫌なんだ、そうだろう」
「ええ、そうよ」
「だが誰しも死ぬもんだ。早いか遅いか、どうやって死ぬかの違いじゃ無いか」
レオノラは黙っていた。レオノラにとって生きるとは死ぬとはそう言うものでは無い
「あのつぐみは番い。という事はきっと雛がどこかに居たのよ。彼らが居なくなったら雛も死ぬわ」
「それは不運だったな。じゃ、その生業の猟師はどうなんだ。あんたが買う干し肉だって、誰かが作ったものだ。目の前でやらなくても」
レオノラは溜め息をつく
「動物はその命を人の役に立てたいと思っている。何かあれば身を捧げて食糧を提供する役もある。でもそれはいつでもって事ではないの。彼らは彼らの生きる営みがあって、やりたい事があるから生きていて、本当に必要な時だけその献身を受け入れるの」
「ふうん。じゃどうして鳥は今日俺に掴まったんだい?それは彼らの運命ではないのか?それともただ単に鈍かっただけか」
「それは…」
彼らは結果的に、オブに命の大切さを教える為に、レオノラにこの話をさせる為に身を捧げたといえよう。だがそれを何と説明するのだ。その教えはオブが受け取らねば無意味になってしまう。説明すると頭の理解になって、彼は表面上正しい行いをするだろう。だが心からそう思わねばまた元に戻ってしまう。
「意味はあるわ。貴方がそれを受け取ればだけど」
オブはしばらく無言だったが、やがて言った
「わかんねえけど、わかった。あんたが嫌な思いをする事はしないよ」
レオノラは頷いた
それからしばらくはオブは大人しくしていた
だがある時また早朝居なくなった。そして帰って来たのは午後だった
帰って来たオブは煙臭かった。もしかして、狩をして、外でそのまま火を焚いて肉を食べたのかもと思った。案の定、食事を食べる量は少なかった
「外で何か食べたの?何を」
「ああ、食った。兎だ。兎なら雛は居ないだろ」
妙な理屈を言うと思ったが、レオノラは黙っていた。食べたいなら我慢させるのも良くない
「何か言いたい事でもある?俺はあんたみたいには変われないよ」
「変わるんじゃないの。本当の貴方から引き離そうとするものを自分だと思うのを止めれば良いのよ」
しばらく沈黙したがオブは言った
「あんたの言う事は良くわかんねえ」
「そうよね…わかりたくないんだもの」
レオノラはそれ以上言わなかった
それからしばしば家を出て、狩をするようになったが、それは、食べたいからではなく、獲物を狩る事を楽しんでいるからだった。彼は煙の匂いではなく、血の匂いを纏って帰った
レオノラはもう駄目だと思った。自分は彼を止められない。どんなに愛しても、優しくして癒しても、彼を血に飢えさせる何かが、彼を自分から引き離そうとする
最初薔薇の色をしていた指輪の宝石は今は灰色に見えた
ある日、森から帰ると、オブは言った
「あの剣はどこへやった?」
遂にこの時が来た、と思った。レオノラは尋ねる
「剣を、どうするの」
「盗賊に戻る。今日森に行ったら前の仲間に会ってさ。また頭になってくれって言われたんだ」
「それで戻ってどうするの。また盗んで、誰かの命を奪うの」
「まあ、自分が生きる為には、そう言う事もあろうな。自分をころそうとする奴にはこっちもころす気で行くのが礼儀ってもんだからな。でもあんたの目の前でやる訳じゃ無いんだ。どっちでも良いだろう。さ、剣出してくれよ」
レオノラの心は悲しみに覆われた
「私を置いて出て行くの。…夫婦なのに」
「夫婦?だがあんた、もし俺が居なければハシリと夫婦になったんだろ。俺と結婚したのはたまたまさ。誰でも良かったんだ。女一人で不安だからな」
レオノラは強い目をしてオブを見た
「それは違う。断じて違うわ。私は教会で会った時から貴方が気になって、本当はまた会えたらって思っていたわ」
「そうなのか」
「そうよ」
オブはじっとエレノアを見た
「だがあんたは盗賊が嫌いだろ」
レオノラは視線を外し答える
「…そうね」
「だから盗賊に戻る俺とは一緒に居られないだろ」
レオノラの目から涙が溢れた
「そうだと思うわ…本当は側に居たいけど」
「じゃ一緒に盗賊やるのか」
「それは断じて無理よ。どうしてそんな酷い事言うの」
レオノラは泣き崩れ床に座り込んだ
「行かないで。ここで一緒に薬師やれば良いじゃないの。ちゃんとやって行けたでしょ。食べ物に困る事も無かったでしょうに。どうして貧しくないのに盗むの」
「俺らは違い過ぎる。一緒に居るのは限界だろう。そもそも無理だったんだ」
オブは立ったままレオノラを見下ろし言う
「そんな事無いわ。貴方だって感じてたじゃないの、愛を」
「愛…」
オブは膝を突いてエレノアの顔を見た
「俺が感じたのが愛だったかどうかもわからねえ。俺はあの時、ハシリとあんたが仲良さそうだったのが気に食わなかった。だからあいつを追い出す為に護衛を受けたんだ。俺はあんたを奪いたかったのさ。それが愛か?」
レオノラは自分が感じた愛をそんな風に貶める目の前の男に憐れみを感じた
「それだけじゃない筈よ。一緒に薬草摘んだ時も、求婚の言葉を一生懸命考えてた時も、雨の降った日も…」
「俺が愛したって?」
オブの目に憎しみが光った
「あんたは知らないだろう。どんなに愛したと思った、大事だと思った相手が自分をころそうとするって」
オブはレオノラに顔を近づけ言う
「俺が初めてころしたのは親父だ。食い扶持減らす為に、子供の俺を間引きしようとしたのさ」
レオノラは動けない。心にひやりとする感触があった
「あんたは所詮きれい事だ。俺には無理なのさ。もう良いだろ、剣はどこだ」
「床板…あそこの床板外した下に…」
オブはレオノラの指差した少しだけ浮いた床板を外し、中から剣を取り出した
オブは鞘から剣を抜くと、その刃を検める
「懐かしいなあ、相棒。相変わらずきれいだ」
その剣を手にすると、もうオブは愛したオブではないように見え、レオノラは目を背けた
「じゃあ、元気でな。あんた良い女だった。俺も別れるのが辛いよ」
オブは座り込んだままのレオノラに屈んで口付けをした。レオノラは拒みたいと思ったができなかった。本当に、離れたくなかった。自分が思っていた以上に深くオブを愛していると気付いた
「待ってる…帰って来るのを待ってるわ」
戸に手を掛けたオブは振り返ると、言った
「待って無くて良い…待たない方が良い。忘れろ」
それは愛の言葉だった