1 花嫁修行は大変です
王宮の西に位置する王子宮の二階には、王子の妃のために設えられた豪奢な部屋がある。その部屋の中に私は幾日も前から閉じ込められていた。
「もうダメ、許して……これ以上は無理」
「何を言うんだ。この程度で根をあげるなんて、君らしくない」
涙ぐむ私の髪をなでながら、王子が優しくささやく。
広い部屋の中には、彼と私の二人だけだ。逃れようとする私を胸の中に捕まえて、彼はイヤイヤをする私の手をそっと握った。
「だって、こんなの初めてなんです。もう入らない」
「大丈夫、あと少しだよ」
「婚約したばかりなのに、こんなことになるなんて」
「すまない、我慢してくれ。できるだけ優しくするから」
「嘘。そんなこと言って、逃してくれないじゃないですか」
「もう待てないんだ」
王子は顔をゆがめ、苦しげな表情で私を見つめる。宝石のように煌めく蒼玉の瞳に射抜かれて、私は言葉を失った。
彼は身体をこわばらせる私を背後から抱きしめる。王国騎士団総帥の鍛え抜かれた腕の中では、私は身動きもできずにふるえるだけ。
「そんな……」
「さあ、ここを開いて」
ああ、だめよ。これ以上は本当に壊れちゃう。
耳元でささやく美声とともに押しつけられた硬い感触に、私は耐えきれずに悲鳴をあげた。
「こんなにたくさん、頭に入んないわ。全部覚えろって言われても無理!」
いや、マジで無理だから!!
手渡された本を投げ出して、私はわっと机の上に突っ伏した。私の目の前には、分厚い本や資料が山のように積み上げられている。
そこへ更に両手に本を抱えたギルが入って来て、私の座っている机の上にどさりと置いた。
「恥ずかしい会話してないで、さっさと勉強してください」
「い〜や〜〜っ!!」
そう、私は今、恐怖の妃教育を受けさせられているのだ。
ジークフリート王子との婚約発表の宴からはや二ヶ月が過ぎ、私はロイエン王国の王宮に居候している。もちろんそれは、正式に結婚するまでの間に王子妃としての知識を身につけるため。
丁重にお断りはしてみたものの、やっぱり逃げる事はできなかった。私は宴の後ラウリッツ領に戻ることを許されず、有無をいわさず連れて来られたのだ。
ある程度は覚悟はしていたものの、この必要な知識というのがとんでもない量だった。毎日机に向かって歴史や地理、外国語での会話、貴族達の名前や周辺諸国の内情まで色々と教え込まれているのだが、ちっとも終わりゃしないのよ。
「そう言わないで頑張ってくれ」
王子がなだめるように私の肩を叩く。そのかたわらで本の山を片付けていたギルが、冷たい視線を送ってきた。
「王子は甘いです。クリムヒルト様がずっと逃げ回っていたからですよ。二週間後の陛下の生誕祭には、クリムヒルト様も王子の婚約者として参加されるのでしょう? これが各国からの来賓の名鑑と、その国の内情が書かれているものだそうです。きっちり覚えてくださいね」
「鬼! 悪魔!」
「悪魔はご自分でしょう」
「その悪魔じゃないわよ」
くそ、腹が立つ。私の異名を持ち出すんじゃない。
あいつ、本当に私の従者なのかしら? ギルを護衛騎士として連れて来たのは間違いだったわ。私は本を抱えてぎりりと奥歯を噛み締める。
王子の呪いを解くまでとはいえ、引き受けたからには王子妃として頑張ってやろうと決心した。しかし、妃教育はやはり厳しい。毎日カリキュラムがぎゅむぎゅむに詰め込まれているのにゾッとした私は、たびたび逃亡をくわだてた。
いや、全部サボってたわけじゃないのよ?
適当にはぶいてただけなんだけど。
でも、いなくなる令嬢に業をにやした教育係の伯爵夫人は、直接第二王子に文句を言いに行った。未来の夫が相手ならば素直に言うことを聞くだろうという侍女長の発案だ。
そして王子自ら私の監督にあたるというこの状況が生まれたというわけ。ついでに私の護衛騎士としてついてきたギルも一緒だ。
主人に忠実な部下なら無理に探し出そうとはしないはず。しかも、私はかりそめの婚約者。そんなに一生懸命にやる必要はないだろう。
しかし、王子に頼まれたギルはそんな主人をあっさり裏切った。
私の身体の中に魔剣がある限り、その守護者である神獣には居所がバレてしまう。
とっ捕まった私はこの数日間、朝から晩まで勉強だ。もう私の小さな脳みそがパンパンよ。少し叩くとせっかく覚えた内容がこぼれ出てしまいそうだわ。
怒っている私を見ながら、王子はくつくつと肩をふるわせて笑っている。
「殿下、笑い事じゃないですよ。この本の山、二ヶ月やそこいらで覚えられる量ではないですよ」
「そうだな。本来なら数年かけて学ぶ量だから」
なんですって?
驚く私に王子はにっこり笑ってみせる。
「早く式を挙げてクリムヒルトと結婚したいから、なるべく詰め込むように頼んだんだ」
「冗談はよしてください。私達は呪いが解けるまでの、仮の婚約者じゃないですか!」
「またそんな事を。一体お前はいつになったら俺が本気だと信じてくれるんだろうか」
わざとらしくため息をついてみせる王子に、私はあきれて持っていたペンを投げた。
本当の悪魔はこっちにいたわ。
「そんな甘ったるい言葉には騙されませんよ」
「おや手厳しい」
軽くにらむと王子は肩をすくめる。
「少し休憩にするか? 詰め込みすぎてもかえって効率が悪い。甘いものでも持って来させよう」
「では息抜きがてら手合わせしてください」
「構わないが、騎士団の演習場は人目が多いからやめた方がいいぞ。ヒルデだとバレるのはまずいだろう?」
クリムヒルトが赤眼の悪魔と呼ばれる騎士隊長ヒルデ・ブランドと同一人物であると知っているのは、この王宮の中ではジークフリート王子とローザリンデ王女だけだ。
素性を偽って陛下から騎士の爵位をもらってしまったもので、正体を知られるのはマズい。なるべく疑われないようにと、クリムヒルトの姿でいる時にはお淑やかな令嬢に見えるように心がけていた。
だけど、こう座ってばかりでは身体がなまって仕方ない。
「ラウリッツ領ではもともとクリムヒルトとしても従軍してましたし、少しくらい大丈夫でしょう」
「そうなのか? クリムヒルト嬢は病弱だと聞いているが」
「誰よ、そんな噂を流したのは」
「クリムヒルト様ご自身です。ジークフリート王子の婚約者になりたくないと言って、病気を言い訳に王都に行かなかったじゃないですか」
「……それね」
ギルの冷たい返答に私はがっくりと肩を落とした。




