雑学百夜 弥太郎の横顔
風が運んでくるのはむせるほどの火薬の匂いと耳をつんざくような兵どもの断末魔だった。
眼下に広がる平野の至る所では紅い華が咲き、そして散っている。
いずれ自分もあの中の一輪になるかもしれない。
僅かに、欠片程ではあるが感じたそんな恐怖が伝わってしまったのか、乗っていた馬はいななき身をよじるような仕草を何度か見せた。
何をしているのか。
馬だけならまだしも、もしこの恐れが後ろに控える幾千の配下に伝わってしまったら次期当主として立つ瀬が無いではないか。
私は一度兜の緒を固く締め直した後、右手を後ろに差し伸ばした。
「弥太……」
そう言い掛けるや否や、右の掌にそっと槍が乗せられた。
相変わらずの察しの良さだ。
その仕事ぶりに感心し思わず振り返った先には中間である“弥太郎”が幾本もの槍を背負いながら跪いていた。
弥太郎は私と目が合うとほんの少し恥ずかしそうにはにかみ笑った。
弥太郎とは幼い頃からの付き合いだ。
元々は武家に生まれた弥太郎だったが父を戦で亡くし、たったひとりの家族である母を病で喪い、天涯孤独の身となっていたところを我が父が嫌な言い方をすれば拾ったのだ。
それ以来、弥太郎は加藤家に中間として仕えるようになった。
中間……平たくいえば戦場の荷物持ちである。
刀や槍、幾人もの敵を切り倒し血糊で使い物にならなくなった時の代えの為に弥太郎は予備の武器を何本も背負い私の側に付き添ってくれる。
戦火の中においてその防具は軽装を極め、よもすれば寝巻きのようなその格好で戦場を東奔西走していく。
大変な仕事だ。他人事のように言ってしまうのが誠に申し訳ないが本当に心の底からそう思う。
だが弥太郎はそんな苦労をおくびにも出さない。それどころか「弥太郎のことなど放って若様は敵を薙ぎ払うことのみに専心下さいませ。そして武器が鈍になりましたら右の手を後ろに下さいませ。弥太郎は必ずや若様のご期待に添いますので」とはにかみ笑う。
それは決して大袈裟ではない。どんな激しい戦場にあって弥太郎は片時も私のそばから離れたことが無い。ろくに馬も与えられていないにも関わらず風の如く戦場を駆け、矢弾が何度頭を掠めようと、私が右手を後ろに伸ばせば必ず鉄の確かな重みを返してくれる。
その度私は妙な心持に襲われる。
武人として失格なのかもしれない。だが正直にいえば後ろに差し伸ばした掌に鉄の冷たさを感じる度、私は恐怖や焦りに苛まれていた。
功を獲れ。お前は全身を奮わせ誰よりも多く敵を屠れ。そんな声が聞こえてくる。
鞭を打たれている馬の心持ちだ。私はいななく代わりに力の限りに武具を振るった。
響く断末魔が偶々敵の物であったこと、今自分が死に損なっていること、戦場とは所詮その連環でしかなかった。
そよ風一つで矢弾の軌道も生死の結末も裁かれる。
馬上から槍の穂先を突き立てれば奴らはこちらを仰ぎ睨みながら死んでいく。中にはその柄を掴み私を引き摺り下ろそうとする者もいた。
地獄まで目下二尺も足らない世界。
慌てて槍を手放せば紅い華は地に沈む。
——恐ろしい。
元服を迎えた日から今日に至るまでこんな感傷が胸から剥がれる事がなかった。
もう戦いたくない。
そう言って、空いた手に受け取った矢刀をそのまま差し戻せば、弥太郎はどんな顔をするのだろう。
時々そんな夢想にうつつを抜かしてしまう……とどのつまり、そんなところが武人としての甘さだったのだろう。気付いたのは全て後になってからであった。
先の戦が始まり3日が経ったその日の夜半、同盟を組んでいたはずの松谷家が敵に寝返り、奇襲を仕掛けてきた。
機先を取られた我が軍はなす術も無く壊滅的被害を受け、私は今まさに決断を迫られていた。
「若様、東方からは敵が迫ってきているとの知らせが」
家老の田沼が耳打ちしてくる。
「若、ご決断を。これ以上は部下を抑えることも出来ませぬ」
煩い。分かっている。
私は振り返り、陣中の僅かな篝火の麓で暖を取る足軽からの刺すような視線を受け止めた。
所詮は戦時のみ駆り出される小百姓どもだ。利が無いことを確信すれば槍の穂先は易々と私の背に向かうだろう。
私の身を案じるように嘯くこの田沼だってそうだ。私が死ねば次に実権を握るのは誰だと思索すればこいつの言の葉だって素直に応じる気にはなれない。皺だらけのその左掌に脇差を隠し持っている可能性は十二分にある。
残酷だとは思わない。私だって策略、謀略の果てに今の位置にいる。文字通り寝首をかいたことだってあるのだ。女童ではあるまいし、今更に我が身の不幸を呪うほど世の理を知らぬ訳でもない。
ただ私は独りで、もうそれも今宵が限りというだけ。ただそれだけなのだ。
「田沼、西南の果てにある根津城まではぬしが指揮を執れ。信書はしたためた」
私は懐から取り出した藁半紙を田沼に託した。
「御意」
「……父上には申し訳がなかったと伝えてくれ」
「……御意」
田沼は一度深く頷きそう言うと部下に幟旗を掲げさせ早々に陣を組み立てた。
「御武運を」
それだけを残し田沼と幾百に減ってしまった部下達は根津へ向けて歩みを進めていった。
一寸先も見えぬほどの砂埃が晴れた後、私は月を見上げた。
林冠の隙間から覗く今生最期になるであろうその月は何とも半端な三日月だった。
まるで似合いだ。
私はひとり笑ってみせた。
私は独り笑ってみせた。
「若様……」
緑陰の奥から声がした。
「弥太郎……貴様まだここにいたのか?」
月明かりにおずおずと現れたのは背に幾本もの槍・刀剣を携えた弥太郎だった。
「手遅れになる前に貴様も根津へ向かえ。其方の足なら直ぐにでも追いつくだろう」
だが弥太郎はまるで動く気配が無かった。
「どうした?」
「……いえ」
歯切れ悪く答えたまま弥太郎は深く俯く。
「……急げよ」
そう言い弥太郎に背を向けた後、ふと思い出し言った。
「あぁそうだ。弥太郎」
右の手を後ろに伸ばす。弥太郎はぱっと顔を綻ばせ「あっ、はいっ!」と即座に渡してくれたのは太刀だった。
確かな重みが返ってくる。
「……いや弥太郎。もう小脇差でよい。それだけ残して後はそなたもここから去れ」
私はそれだけを言い残し、再び弥太郎に背を向けた。
弥太郎には最後までこの背中を見せていたい。
臆病な風になど吹かれず、強く生き、潔く散っていった。それが弥太郎の見る私の最後の背中でありたい。
「若様……」
「何をしている。急げ」
いつもなら阿吽の呼吸で武器を渡してくれる弥太郎がその刻は何故か躊躇いを見せてきた。
「……早くしろ!! 命に背く気か!!」
怒鳴ってしまった。
自分の余裕の無さに幾許の情けなさを感じながら、思わず後ろを振り返ると、弥太郎は小脇差を胸に強く抱きながら肩を震わせていた。
「若様、弥太郎はもう若様の言うことを聞けませぬ」
「何を言っている。早く! 渡せ!」
「出来ませぬ!!」
「弥太郎!!」
「若様!! お考え直しを!!」
弥太郎の声が夜の森にこだました。烏が二羽三羽近くの木々から飛び立つ。
「……時間が無いのだ」
私は先刻弥太郎が渡してきていた手元の太刀を鞘からゆっくり抜いた。
「……弥太郎、軽々しく物を言うなよ。戦局は既に決している。私はもう死に方を選べる身ではない」
刀の峰が月明かりを反射し鈍く光る。
「長い付き合いに勘違いするな。私とお前では立場が違う。たかが中間の身のお前と違って私は家の名誉のためここで敗北の責務を果たさなねばならぬ身なのだ」
舌触りの悪い言葉ばかりを並べた。
性根の優しい弥太郎にはここまで言わねば分かって貰えない。そんな事はそれこそ童の頃からの長い付き合いで知っていたことだ。
弥太郎は悲しそうな顔でじっとこちらを見てくる。
「ここで生恥を晒せと言うのか?」
「若様……」
「弥太郎。分かれ。分かってくれ……」
構えていた刀の切っ先が震えてしまった。チラチラと水晶のような瞬きが夜の闇に揺れて、消える。
慌てて私は弥太郎に背を向けた。
だがもう遅かった。心の天蓋は外れ、想いはただ瀑布の如く零れ溢れ出してしまった。
「弥太郎……どうすれば良い? 震えが止まらぬのだ……」
握っていた太刀をぽとりと落とす。冷たい玉鋼の音が夜の帷に響く。
————私は、何をしているのだろう。
武士道とは死中に見たり。
そんな決まり文句を今まで屠ってきた敵の数だけ心身に刻み、次は自分の番であることを指折り数えずっと待ってきたはずだった。
だが、私は臆病者だったのだ。
戦に出向いたのは父に見放されぬようにだった。
敵を斬り捨ててきたのは、自身が斬られぬようにだった。
弥太郎を中間として置いたのは、自分が戦場で独りにならぬようにだった。代えの槍も刀も本当は只の一本も要らなかったのだ。
弥太郎……私は……私は……
「若様、私はここにおります故」
背後から弥太郎の声が聴こえた。
そして、ダラリとぶら下がっていた自分の右の掌が柔らかく温かな感触に包まれた。
鉄とは比べ物にならぬほどの温もり。振り返ると弥太郎は両の手で私の手を握ってくれていた。
「弥太郎……」
弥太郎はいつもと変わらぬ笑顔を浮かべている。
「若様、共に逃げましょう」
「……いや、しかし……」
「貴方様はもう剛健な武人でもなければ、賢しさに長けた将でもありませぬ」
弥太郎は小首を傾げ笑う。
「只の私の幼馴染みであります。さぁ」
弥太郎は私の右手をそっと引いてくれた。
枯れ枝を踏みながら私達は一歩また一歩と宵闇の中を駆けた。
私はふと思い出していた。童の頃私と弥太郎はよくこうやって手を繋ぎながら歩いた。どこを目指すわけでなく、どちらが先を行くわけでなく、ただふたり並んで笑い合っていた。
森の奥深くから馬の地を鳴らす音が近付いてくる。
野兎が二羽、私達の先を行った。
その夜私が初めて戦場で覗き見た弥太郎の横顔は、これまで見てきたどんな華よりも美しくそして儚く思えた。
雑学 戦国時代には『中間』と呼ばれる主君に仕える荷物持ちがいた。
戦時は主君の為の予備の槍や刀を持ったが、平時は馬の世話や家の雑務を担った。