第一話 『メイドの朝は早い』
「………ッ!!!………………はあ……」
ぼんやりとした夢の中から鮮烈な朝の空気へと飛び起きる。時刻は5時5分。窓の外は仄暗い。
音消し(靴に付ける消音材)をはめて、長く大きな階段を慎重に下る。
外へ出るとまだ冬の冷気が居座っていたようなので、私は仕方なくマフラーを巻いた。手袋は、まあよかろう。どうせ冷え性だ。
屋敷の裏から出て、歩いて十数分の川へと歩く。八歳から続けている日課だ。
いつもの並木道、いつもの風、いつもの音、いつもの終着点。
夜と川が冷やした空気を灰の中いっぱいに吸い込んで、シィーーと口の横から長く吐く。
これで町娘アイリーンはレイノーツ領の守護羽になる。
五分の遅れを取り返すように足早に帰ってくると、いつも通り男衆が外で鍛練をしていた。今日という一日に備えて身体を温めるためにレイノーツ屋敷の男児は幼子から老人までが上裸での組手や木剣の素振りを毎日欠かさない。
慣れた光景を横目に貴族が住むにしては小さい、9人が暮らすにしては大きすぎる屋敷の扉を引いた。
次の瞬間、屋敷中に漂うスープの匂いに包まれる。
スゥ〜〜〜〜ッ
ブイヨンに葉野菜と根菜の味が更に滲んだ香り。前よりも野菜の扱いがずっと丁寧になってる。
もうちょっとで一気に美味しくなるだろう。だからこその………
「うーーん、64点!!」
辛めの採点に、ぐおおと悔しそうな声が返ってきた。ちなみに昨日の点数は62点である。
ガチャガチャと料理道具を片付け、小さい歩幅で駆けてくる小さいメイド。
「なんでなんでぇ!!今日は“かいしんのでき”だったのに!!」
「そうねぇ、今日は塩気が多いわね」
「量はきのうといっしょだよ?」
「砕き塩は場所によって濃さが違うんだから、削ったらなめてみないとね。これは二週間前にも言ったかしら」
二か月前にデイリー担当になった三女アイラは最近スープに伸び悩んでいる。子供よりも大人の方が塩に敏感なのもあるが、スープ、サラダ作り、パンと塩漬け肉の盛り付けなどの細かい作業にまだ頭と手が追い付いていないようだ。
うーんと唸りながら頭を抱えてしゃがみ込む。
「食べてみたら本当に64点くらいだからフシギだよ。お姉様はどうしてわかるの?」
「ま、経験ってやつね。食器の準備もしておきなさいね」
と言い、どや顔で階段を上がる。かくいう私もお母様に最後に貰ったのは99点だったので気持ちはよく分かる。暇が見つかればまた教えてあげよう。
そう心に留め足早に階段を上り切ると、白灰色の磨かれた石の床を奥へと続く四つの大きな扉。
一つ目の大きく分厚い扉の横に埋め込まれている靴箱にブーツをしまい、扉を引く。重々しい見た目通り、それなりに重量はあるが何年も開け続けるとなんとも感じない。
完全に締め切った部屋の中に、小さなクローゼット、小さな化粧台、少し大きなベッド、大きな机と本棚。それだけ。
ゆっくりとカーテンを開け、枕元にある紐で繋がっている天窓のカーテンも開けた。
天窓から朝の日が夜に溜まった冷えた空気を溶かしていくように優しく射す。
光に喘ぐ声が聴こえた。
「おはようございます。セーナ様」
「んんっ………おはよう、アイリーン。今朝も朝日が心地良いわね」
「本日は冷えますので厚めの物を」
「じぶんでできるわ。ありがとう」
そう言うと机の上の|湯沸かし器≪ファストポット≫に向かった。
どうやら熱めなものをご所望だった様だ。
部屋の隅の水瓶を持ってきてお渡しする。私の分まで淹れてくださった紅茶は、少し水っぽい味がした。
「……やっぱり今度から淹れてちょうだい」
「仰せのままに」
すっかり覚めたダークグリーンの瞳が味の不満を訴える。
「やっぱりアイリーンの味にはならないのよね」
「己に淹れるのと他者に淹れるのでは想いの込め方が違いますから」
私には一生わからないわと頬を膨らませる主を見て、私はようやく悪夢を忘れた。