1 はじまりは迷宮から
グアアアアアアアッ!
四つ足の怪物が吠える。黒い毛並みに覆われた体は、猫科の猛獣を思わせるようなしなやかさと力強さがあった。顔だけで人の上半身くらいあり、口は丸飲みにされてしまいようなくらい開かれている。
毛並みと同じ、黒い一本角が額から伸びていた。太く、歪んだ形の角に串刺しにされれば、常人はまず助からないだろう。
勢いよく吠えているが、その体は影から延びた帯によって地面に縛りつけられていた。身動き一つ取れずに吠えることしかできない。その様は見るものによれば滑稽と思うかもしれないが、ここまで劣性に陥っても戦意に陰りが見えないことに、むしろ称賛を覚えた。
元の世界にはあり得ない生物だが、ここでは現実に存在している。名前は「ブラックホーンパンサー」だったか。
「お見事です」
真後ろから抑揚のない声がかかる。振り向くと、機械のような無表情と目が合った。見事だと思うなら表情の一つくらい変えればいいのに。
俺の返事を待たず、無表情のまま彼女も振り向いた。少し離れた場所にいた面々に手招きする。
壁際に立っていた三人は、おっかなびっくり近づいてきた。
少年と、少女と、少年のような少女は、怪物から目を離さずに声をかけてくる。
「す、すごい……」
「こんなに大きな魔獣がいるなんて……」
「お、おい。ほんとに大丈夫なんだろうな」
冒険者の少年は感嘆の声を上げ、治癒術師の少女は恐ろしげな目を向け、男の子のように見える少女は警戒心もあらわに問いかけてきた。
「問題ありません」
「なんで勝手に答えるんだ。いや、大丈夫だけど」
保証を出すのは拘束している俺だろうに。
地下三〇階の大部屋で、迷宮全体から見ればそれほど深くはない。もっと下の階のコカトリスでさえ封じた影縛りだ。破られることはないだろう。
「では、早速始めるとしましょう」
相変わらず、淡々とした調子を崩さずに言う。その顔からは、胸の内は全く読み取れない。
開始を宣言された三人は、引いた顔で怪物と無表情の女を交互に見た。冗談ですよね、と誰かが言うのを待っているような、そんな空気が流れる。
もちろん、こいつは本気で言っている。
大変申し訳ないのは、俺も従う他にないということだ。早いところ慣れてもらうしかない。
怪物は絶えず叫び続けている。口も拘束するべきだろうか。そんなことを頭の片隅で思いつつ、ぼんやりと数日前のことを思い返した。
辻村太一郎という名の、何の変哲もない会社員である俺が、突然この世界に飛ばされてきて数日。
「やっぱりブロンブさんの飯は旨いな」
「はい! 今日も美味しかったです」
繁華街にある宿屋兼食堂、カナリアの止まり木亭にて食後のお茶を嗜んでいた。
店主一家と親しいその子は、自分が誉められたかのように笑顔を見せる。
にこにこと笑うのは治癒術師のレティシス。肩口まで伸びたやや癖のある金髪に、目尻の少し下がった青い瞳。頭には小さな白い帽子を乗せ、青いケープを羽織っている。
頭一つ以上低く子供のようにしか見えないが、この世界基準だと成人だ。こんな見た目だが先輩冒険者でもある。
俺にとっての第一村人……ならぬ第一異世界人で、縁があって一緒に行動していた。
「えへへー。美味しかった?」
看板娘のピリカが横から話しかけてきた。見た目より幼いレティと対照的に、九歳という年齢より大きく見える。朝には遅く昼には早い、半端な時間だからだろう。昨日よりも客は少なく、手が空いているようだ。
顔の緩みようからして聞こえていたようだが、直接言って貰いたいらしい。
「ああ、かなりな」
「美味しかったですよ」
期待通りの答えを貰い、目を輝かせるピリカ。リザードマンの血が混じっているため、見開かれた虹彩は縦に割れている。
「お父さんの料理は街一番だからね!」
鼻高々に胸を張っている様子を、レティは微笑ましい顔で見ている。
満足したのか、ピリカは俺の方を見て話題を変えた。
「お兄ちゃん、今日はヨロイつけてるんだね」
「ああ、どうだ?」
食事の前に、昨日こしらえた装備を取りに行った。魔獣素材の革鎧で、胸と胴回りを覆うように造られている。肩から先はむき出しで動きの邪魔にはならず、すね当てで足も保護されていた。調整も済んでサイズはぴったりだ。
せっかくなので装備したまま過ごしている。腰のベルトには革の鞘に入ったナイフもあり、どこから見ても冒険者スタイルだ。
感想を聞くと、うーんと指先を口に当てて考え、
「そうしてると、ちょっと冒険者っぽい!」
にこやかな顔で言い切られてしまった。っぽい、ではなく冒険者なんだが。しかもちょっとか。
武器も防具も身につけていて、まだ何が足りないのだろう。細い体と青白い肌が、いかにも新人っぽいからか?
「こーら、邪魔しちゃ駄目でしょう」
「あ、お母さん」
ピリカの後ろから、おっとりとした声がかかった。エプロンを身につけ、髪の毛を後ろでまとめている。
注意されたピリカは嬉しそうに母親に抱きついた。見た目は大きくとも言動はまだ子供だ。
「こんにちは、エトレさん」
「いらっしゃい、レティシスちゃん。そちらは……タイチロウさん、でいいのかしら?」
「ええ」
レティと挨拶を交わし、こちらにも目を向けてきたので軽く頭を下げた。名前を知っているのはピリカかブロンブが教えたからだろう。
気安く話してちょうだいね、と言われたのでそうさせてもらう。
「ほら、お父さんを手伝ってらっしゃい」
「はあい」
ぎゅうぎゅう抱きついていたピリカの肩を押しながら指示する。言われたピリカも素直に従い、ぱたぱたと、カウンターの奥へ小走りで向かった。それを見送るエトレの目は優しさで満ちている。
つい、ちらりとレティの顔を見てしまう。特に変わった様子はなく、にこにことピリカの方を見ていた。
エトレはレティに顔を向け、ほっとしたように息を吐く。
「元気そうで安心したわ。物騒な話を聞いたから……」
「物騒?」
レティに向けての言葉だが、つい横から聞き返してしまう。エトレは「ええ」と頷き、神妙な顔で言った。
「昨日、冒険者の人が別の冒険者に斬られたって」
「ああ……」
それは多分、若い冒険者モーグの件だろう。
死にかけたものの、治癒術によって治されて一命を取り止めている。その場に居合わせたので記憶に新しい。
「お客さんの間でも、最近変わったことをする人がいるって噂になってるわ。気をつけてね」
呪術で操られていた人たちだろうか。解決済みだが、俺は関わっていないことになっている。そのまま伝えるわけにもいかない。
「その件なら、神殿騎士か誰かがもう解決したらしいぞ」
「あら、そうなの?」
「そんな噂を小耳に挟んだんだ」
言いながらお茶に手を伸ばす。もちろん嘘だが、呪術師が消えた以上、呪術による性格の変容や異常行動はなくなるはずだ。今のうちから流しておいても支障はあるまい。
「それならよかったけど……魔族がやったなんて噂もあったし、ちょっと怖かったわ」
意図して表情を動かさないように努めた。俺よりも、向かいに座るレティの方が緊張していてはらはらする。
カップを置いて言葉を返した。
「街は結界があるし、そうそう魔族なんて入り込めないさ」
少々心苦しいが、街の騒動が本当に魔族の仕業であると伝えるわけにはいかない。
いわんや、俺自身が魔族であることをや。
それとなく用事があることを伝え、店を出たところでレティと別れた。ギルドへ戻るようで、乗り合い馬車の停留所へ歩いていく。
俺の用事について詳しくは聞いてこなかった。こちらから話す、という約束を待っているのだろう。そろそろ、打ち明けられることは打ち明けたい。
昼に近づき、段々と人通りが増えてきた。ふらっと商店街を見て回り、適当なところで横道に逸れた。
細い道を歩き、更に折れて人通りのない方ない方へと向かう。特に汚れているわけではないが、淀んだ空気を感じるのは雰囲気のせいか。
路地裏の行き止まりで立ち止まった。喧騒が遠い。
「……いるんだろう。出てきてくれ」
振り向いて、俺を尾行しているであろう人物を待つ。五秒、十秒と経ち、あれ? と思ったところで、
「お待たせしました」
「どうっ」
真後ろから声がかかった。思わず飛び退きながら振り向く。行き止まりで壁を背に立っていたのに、どこから現れた!
「呼びかけておいて驚くとは不思議な人ですね」
こいつに不思議と言われるのは心外すぎる。というか、
「いつの間に後ろにいたのかはともかく、後ろから声かける意味ないよな? 驚かせるためだけだよな?」
「毎回新鮮な反応をくれますね」
「やかましい」
予想外な現れ方をしたが、出てきたのは予想通りの人物だった。
切りそろえられた薄青い長髪にギルド職員の服装。人を食ったような物言いの割に、表情は作り物のように動かない。
クロアレムル。冒険者ギルドの諜報員にして、聖女の側近という相反する肩書きを持つ少女。
俺の素性を知っているギルドは彼女を監視につけている。二つ目の肩書きを考えると、これ以上ないレベルの人選ミスだ。
正しくは、聖女の側近はクロアであってクロアではない。ギルドには伏せているようだし、仕方のないことではある。
「時間をくれって言ってたけど、時間も場所も決めてなかったろう」
朝にギルドを出る前、伝えないことがあるから時間を空けろと言われていた。だが落ち合う場所も時間も分からず、俺はクロアの位置すらつかめない。
それでわざわざ、人目につかないところまで誘導したのだ。クロアも承知の上で着いてきたはずだ。
尾行されていなかったり、されていても相手がクロアでなければ無駄足だったけれど。
「お手数をおかけします」
意外にも素直に頭を下げた。これからする話の真剣度がうかがえる。
……いや、それなら初っ端でからかってきたのはおかしいけど。
「それで、伝えたいことってなんなんだ?」
「お話の前に」
一拍置いて、なんでもないように続けた。
「あなたを教会までお連れしたいと思っています」
「……ここじゃ駄目なのか?」
魔族排斥をうたう集団「神殿」の拠点に、魔族である俺がのこのこと出向くのは抵抗がある。
クロアの仕える聖女は、神殿所属でありながら上層部とは微妙な関係にある。それを思えば罠にかけられるなんてことはないだろうが……。
「すみませんが、お話があるのは私ではないのです」
では誰が、とは聞くまでもない。
俺に話があるのが聖女自身だとすれば、確かに出歩くのは難しいだろう。俺が出向く他にない。
息を吐いて頭をかく。
「条件は忘れてないよな」
「はい」
レティの安全と、俺の正体の秘匿。それが彼女らに力を貸す上での絶対条件だ。
珍しく言葉少なく、ただしっかりと頷いた。表情はやっぱり読めないが、真っ直ぐな瞳は嘘をついているようには思えない。
信じるしかないか。
「ならいいけど、どうやって向かうんだ? 堂々と乗り込むのはまずいだろう」
魔族とまでは見抜かれていないが、俺が怪しい人物と見られていると教えてくれたのはクロア自身だ。彼女も表向きはギルドの諜報員だし、正面切って向かうのはいろいろ問題があろう。
ちゃんと案はあったようで、一つ頷いて言った。
「考えがあります」




