1 突然の始まり
気がつくと見知らぬ洞窟に立っていた。
「は?」
右を見て左を見て、また右を見る。ごつごつした岩の壁に土の地面、円形の地形で天井は五メートルほど、広さは学校の体育館よりやや狭いくらいだろうか。
洞窟だ。何度見返しても。そのど真ん中に俺が突っ立っている。
なぜこんな場所にいるのかさっぱりだが、昨日はどうしていたかを思い出してみる。
辻村太一郎。よかった、名前は思い出せる。昨日三〇歳の誕生日を迎えたばかりの独り者だ。
ハッピバースディトゥーミーと口ずさみながら一人居酒屋で飲んだくれた。まあ、友人に祝ってもらうような歳でもない。彼女はいない!
帰り道ですっ転んで頭をぶつけた。酔っ払っているからかそれほど痛くもなかったし、そのまま帰宅した。今日が誕生日だろうと翌日は仕事が控えている、悲しき会社勤めだ。
シャワーは朝でいいかと、スーツやワイシャツを脱ぎ散らかしてぶっ倒れるように寝た。うん。間違いなく家で寝たはずだ。
「それがなんでこんな洞穴に?」
夢遊病? でも、歩いてこられるような場所に洞窟なんてないはずだが。
あと、さっきから気になっていることが一つ。
「なんで明かりもないのに奥まで見渡せるんだ?」
夜目が利くとか言うレベルではない。ほとんど昼間と変わらないくらい見渡せる。だが自然そのままな洞窟で、蛍光灯どころか非常灯もない。
夢でも見ているのかなと思いたいが、どうにも現実感が拭えない。固い地面、温い湿った空気、土の匂い……。
ドッキリだろうか。数少ない友人たちによるバースデードッキリ? でも、洞窟に置き去りにして放置するドッキリって新しすぎない?
ちょっと落ち着こうと胸に手を当て、混乱が加速する。
心臓が動いていない。
最近のドッキリって心臓まで止めるの?
「んなわけあるか!」
混乱が止まらない。頭の中は「?」で埋め尽くされているのに、心臓は止まったままで息も上がらないし冷や汗もかかない。というか、試しに呼吸を止めてみても全く苦しくなってこない。どうなっているんだ俺の体は。
「とにかく、この場所を出よう」
周りを見渡すと、壁に空いた穴が見えた。上へと続く階段になっているようだ。出口は一つだけ。
普通に考えれば、あそこから運び込まれたはずだ。誰が何のために? 気になるが、今は考えても分からない。水も食料もないこんな場所ではいずれ餓死してしまうだろう。
……呼吸もしないし汗もかかない、こんな体が栄養を求めるかどうかは分からないが。
「考えない考えない! 今は出ることだけ!」
首を降りながら時分に言い聞かせ、階段を上がっていく。そこで気づいたが、履いている靴は見たこともないごついブーツだ。服装は白いシャツと黒いスラックスだが、仕事用のスーツとは少し違う気がする。なんなら足も長く見える。
パンツ一枚で寝たはずの俺がなんでこんな格好を? 誰が着せたんだよ。一晩で足が伸びるのかよ。
考えたくないのにツッコミどころが多い! 誰か説明してくれ!
とまあ、そんなことを考えつつ階段を上って、このとんでもない現実に打ちのめされることになる。
階段を上がった先は、かなり広々とした空間だった。先ほどいた体育館くらいの場所に比べ、広さも高さも三倍以上ある。なぜかその空間は明るく感じた。壁や天井そのものが淡く光っているようだ。
その中心には、赤い鱗をしたトカゲのような生き物がいた。
「え……。いや、え?」
鱗に覆われた体、長く太い首に支えられた大きな顎、口元からは牙がのぞき、背中からは二対の翼のようなものが生えている。
そしてその体が、見上げるほどに大きい。小高い丘のようだ。まるで恐竜サイズ……というかこれって、
「ドラゴン、というやつでは?」
口に出してみて、その幼稚な響きに乾いた笑いが溢れる。
先ほどまでの混乱が全て吹き飛ぶほどの衝撃。それなのにやっぱり息は上がらず汗も流れない。心臓も不動を貫いている。
いっそ気を失えてしまえたら楽なのに、体は至って平気なままだ。自分が本当に混乱しているのかどうかも分からなくなってくる。
息苦しさとか心臓の早鐘って、生きているサインだったんだなぁ……。
グルル……。
「っ!?」
現実逃避していたら、ドラゴンの顔がこちらを向いた。
咄嗟に引き返そうと後ずさり、踵が壁に触れて振り向く。上ってきた階段が入り口ごと消えていた。
「なんで!?」
ゴアアアアアアッ!
けたたましい雄叫びを上げ、開いた大口をこちらに向けてくる。次の瞬間、口の中から真っ赤な炎を吐き出した。やけにゆっくりと見えた。
一歩も動けないまま立ち尽くす。リアルに死を感じて、時間が引き伸ばされたような錯覚を覚える。眼前に広がる炎が俺を飲み込み、
「のわ! あっち、あっちぃ!」
あまりの熱さに床を転がる。火の範囲から逃れ、体についた火も消えた。
生きてる? いや、なんで「あっちぃ」で済んでいるんだ。
袖口からのぞく手は焼け爛れていたが、みるみるうちに元通りになっていく。服は焦げてすらいない!
どしん、と音を立てドラゴンが近づいてきた。無事でいる俺を見て不機嫌そうに目を細める。プライドが傷ついたとでも言わんばかりの表情だ。
眼前に迫り来るドラゴンを見て、その絶対的な存在感に圧倒される。
また物凄い雄叫びを上げた。声にまで圧力があるようだ。後ろに倒れそうになるのを必死に堪える。
前肢を振りかざして殴りかかってきた。いや、爪を見るに斬撃だろうか。爪一本一本が人の胴ほどもあり、あんなもので振り抜かれたらバラバラに引き裂かれてしまいそうだ。
そう分かっているのに身動きが取れない。状況を受け止めるのに精一杯だ。
ボッ、という音と共にドラゴンの爪が俺を斬り払い、上半身が吹き飛んだ。
と思ったら、次の瞬間には同じ場所に立っていた。
「な、なんだ今の感覚」
爪が当たった瞬間に体が霧状に変化し、すぐに戻った。斬り払われたのではなく、すり抜けた?
ドラゴンは後退し、グルルと喉を鳴らす。戸惑っているようだ。俺もだと言いたい。
ただ、向こうの戸惑いに呼応し、少し、ほんの少しだけ冷静になってきた。突っ立っているだけでは解決しない。
ビタン! という音が二、三度鳴り響いた。尻尾を床に打ちつけているようだ。その尻尾を持ち上げ、半回転するようにこちらへ叩きつけてくる。
今度は尻尾か! 咄嗟に腕を上げて顔をかばう。意味があるかは分からないが、また都合よく霧状になってかわせる保証はない。
果たして、霧にはならなかった。腕に衝撃を感じ……吹き飛ぶ。
ドラゴンが。
そう、俺ではなくドラゴンの方が吹っ飛んだ。
壁にぶち当たり、聞いたこともないような轟音が響いた。洞窟が揺れる。
何がなんだか分からないが、こちらには傷一つないのにドラゴンは昏倒している。
ゆっくりと首をもたげる。動きは緩慢だが、まだ戦う意志は潰えないらしい。
口を開き、大きく息を吸い込む。火炎が来る! 俺は咄嗟に横へ跳んだ。自分の体とは思えないくらい軽く、素早い。
この時点で予感があった。……ドラゴンを吹き飛ばしたのが俺の力ならば。
なけなしの勇気を振り絞って接近する。数十メートルの距離が一瞬で詰まり、慌てて上へ跳ぶ。
「危なっ」
天井付近まで跳び上がり、頭をぶつけそうになった。真下に、炎を吐き続けているドラゴンが見える。
落下の勢いのまま頭を踏みつけ、口が強制的に閉じさせた。口内で炎が爆ぜたのか、足の下でびくんと跳ねる。
倒れたドラゴンはぴくりとも動かなくなった。息絶えたらしい。上顎の鱗は俺の足の形で踏み割られている。
やっぱりか。やっぱりそうか。
予感が確信に変わり、胸の上から動かない心臓を押さえる。
どうやら俺は異世界に来て、化け物になったらしい。




