伝わる距離
僕は二階の寝室で、春の暖かな日差しに照らされていた。
この時期の陽光は心地よく、昼寝をするのに丁度良いのだ。
最近は晴れが続いているのもあって、日向ぼっこをしながら何時の間にか眠ってしまう、というのが習慣になりつつある。
瞼が重たさを持ちシャッターのようにゆっくりと閉じていく。
「何とか言ってくれよ‼」
静寂だった空気を断ち切るように、どこからか男の怒号が鳴り響いた。
眠気は一瞬にして消え去った。僕はその声に聞き覚えがある 。
「なぁ‼頼むよ‼」
立て続けに聞こえてきて確信する、これはエマの元彼であるブラッドリーのものだ。
不意に彼女の安否が心配になり、胸がざわついた。
僕はバネに跳ねられたように起き上がり急いで一階へと走っていく。
階段を降りる直前、玄関に二つのシルエットが見え一度立ち止まる。
こちらに背を向けている小柄な女性がエマで、その奥に立っているガッシリとした体付きの男がブラッドリーだとすぐ分かった。
彼女は俯きながら、怖いものから距離を取るように半歩後ろに下がる。
「お願い、今日は帰って」
「何でそんなこと言うんだよ、俺はお前の‼」
「帰って‼」
怒気がこめられた声に、思わず彼の顔もぎくりとなる。
「……クソ、俺、絶対お前取り戻すから」
そう言った後強引にドアを開け、そそくさと逃げていった。
エマは無事だろうか、心配で落ち着かない。
僕は階段を降り、驚かせないようにそっと彼女の視界に入った。
「あ!ごめんルイ、起こしちゃったね」
こわばった笑顔が向けられ、訳も分からずこっちまで悲しくなってしまう。
きっと、気を遣わせないために無理をしているんだ。
「ねぇ、大丈夫だった?怪我とかしてない?」
「……」
何も答えてくれないエマ、ただ僕の目線までしゃがんで、安心させるための笑顔だけは崩さず向けてくれる。
本当、不器用な優しさだ。
でも僕は、そんな彼女が大好きだった。
リビングで、僕はエマに膝枕されながら手当をしてもらっていた。
「ルイ良かったね、傷もだいぶ塞がってきてるよ、この調子で直していこうね」
腹の傷後を撫でられ、悪い気はしないが少しくすぐったいのと恥ずかしい。
彼女は毎回こんな感じで、傷が治りかけているのを見ては喜んでくれるのだ。
当然、喜ぶ彼女を見て自分も嬉しくなる。
こんな幸せな手当が始まったきっかけである、傷が出来たのは半年前。
エマと出会った話と重なる。
僕はスラム街で生まれ育った孤児だった。
物心が付き始めた頃、両親は既になく、一人ぼっち、そのお陰ですぐ気づけた。
自分の置かれている状況が思いのほか絶望的だということに。
だからそれ以降、生きる手段を選んでいた覚えがない。
人の家から勝手に物を盗み出したり、自分より弱いやつを狙って食べ物を奪ったりと、そんな事も何時しかやるようになっていた。
こんな風にして、その日暮らしの生活にも慣れ始めた、ある炎暑の日、僕に罰が下った。
大人、数人から本気の拳を何発も喰らったのだ。
傷はこの時の物。
真昼の太陽は地面を炙り、そこに倒れている僕は暑さと痛みで、気が狂いそうだった。
もう助かりはしないだろう、そう察せざるを負えない所まで来ていたその時、一つの影が自分を覆う。
「ねぇ!大丈夫!」
誰だか知らないが女である事は分かる。
何しに近づいてきたのだろう、もしかして、また僕を殴りに来たのか。
僕は一生懸命抵抗しようと立ち上がるも、すぐに膝から崩れ落ちる。
何回かそれを繰り返して、彼女に抱きつかれた。
「もう動かないで、これから家連れて行ってあげるから」
何か伝えようとしてきているのと、抱きかかえられ自分がどこかに連れて行かれているのは、薄れていく意識の中でも理解できた。
それから僕はエマとか言ったか、そいつのちょっと裕福な家で、看病を受け過ごした。
死と隣合わせの生活から一時的に開放されたのだろうが、何だかそれはそれで落ち着かなかった。
だから始めの二日間は、彼女の好意を素直に受け取れず、出されたご飯を食べなかったりと、無駄に警戒した。
それで怒られたりもしたが、仕方がないじゃやないかと僕は思う。
今まで信用出来る奴になんて、合ったことが無いのだから。
治療が終わり休日なのでやることも無いエマは、僕の隣で横になっていた。
「ルイは小柄で本当に可愛いね」
「可愛いより、カッコいい方が良いよ」
彼女はトロンとした目でこっちを見つめる。
「性格も可愛いし、うん、ルイの全部が可愛い‼」
こういう他愛のない会話は、名前を度々呼んでもらえるから好きだった。
僕はルイという名前が気に入っている。
あの時、拾われ三日目の夜、唐突に彼女は「ルイ」とキッチンから声を響かせた。
何事かと起きあがりキッチンへ向かうと、鼻歌を歌いながら調理をしている、そんな御機嫌な彼女が居たのを覚えている。
そして一度手を止め「ルイ、ご飯出来たよ」と僕に笑顔を近づけ言った。
何の事か分からない
しばらくその場でキョトンとしていると「貴方の名前、さっき決めたの」そう柔らかな声音で告げられ、戸惑いと嬉しさを同時に感じた。
でも、やがて片方は緩やかに消えていき、後には愉快な高揚感だけが残っていた。
名前は自分にとって最高のプレゼントだったのだ。
そんな喜びに浸っている間、彼女は料理を盛り付け、それを僕に出してくれた。
「ほらこれ、ルイのご飯」
「……」
僕はその日、始めて彼女から出されたご飯を食べた。
疑ってた自分が馬鹿みたいに、それはこの上無く美味しかった。
それ以来、何かの境界線が壊れたみたいに、僕は彼女に心を開いて行った。
例えば、僕から彼女に話しかける回数が多くなった。
彼女の前では素直でいようと、今までのルールを忘れ、これからの生活にマナーを合わせるよう徹底した。
他にも幾つか努力のようなものをしたが、不思議とそういうのを苦とは思なかった。
そのようにして、夏は過ぎ、風が冷たさを帯びてきた秋頃、彼女を視界に映すだけで鼓動が激しくなったり、体臭がどうとか、そんな前なら心配しなかったような事も、するようになった。
それが恋心のせいだと気づくのには結構な時間がかかって、そんな事に長々と頭を使っていた自分に呆れて、でも、彼女が好きだったんだと自覚できて、幸せだった。
そんな想いは日に日に募り、それを自己完結させている事に限界がきたある冬の日、僕は衝動的に告白したことがあった。
しかしエマが困ってしまっただけで、僕の行動は失敗に終わった。
悲しかった、だから僕は言い訳の言葉をいっぱい見つけて自分を慰めた。
けっこう歳が離れているせいとか、まだ子供扱いをしているせいとか。
でもそれに飽きると気分を変え、何時かは心の距離も縮めていけるのだろうと、そう、なんの迷いもなく信じた。
僕はガツガツと大皿のご飯を頬張っていた。
薄窓一つ挟んだ外からは大雨粒の打撃音が響いている、時刻は夜9時過ぎで、何時もより少し遅めの夕食をエマと取っていた。
今日、彼女は残業だったらしくロボットのよう動きが重い。
無理もないと思った、ちょうど今日で七連勤目だし。
そんな感じで、彼女を気にかけていると突然、インターホンが鳴った。
こんな時間に誰だろう、なんだか不気味だ。
そう感じたのは僕だけではないようで、向かい側に座っているエマも応答するか、ためらっているようだった。
こちらを急かすように、もう一度インターホンが響く。
彼女は席を立ち、そろりと玄関に向かう。
「……どちらさま?」
聞こえていないのか返事はないが、インターホンは続けて押してくる。
僕は段々怖くなって、早く帰ってくれと願った。
しばらく三人の間に沈黙が流れ、そして先に痺れを切らしたのは来訪者だった。
「おいエマ‼開けろ‼開けててくれ‼」
エマと僕は瞬間に視線を合わせた、ブラッドリーの声だ。
彼女の表情が険しくなってゆく、そんなエマに僕は抱きかかえられた、取られたくないとでもいうように強い力で。
そうして僕を連れ寝室に向かう。
「待ってエマ‼何するの‼」
苦しそうに微笑み、クローゼットに僕を入れた。
「約束、私が良いって言うまでここから出ないこと、声を上げないこと」
エマ、と呼び止めようとした、しかし声にならなかった。
戸が締まる一瞬、彼女の瞳が潤んだ。
音だけでしか分からないが、あの後、ブラッドリーは強引に上がってきた。
何回か彼女の「帰って」という叫び声が聞こえて、それでもその場を動かない彼に強い意志を感じたのか、しかたなく話し合いで解決することにしたらしい。
だが、自分の思い通りにしか話を進ませる気がない男に会話は一方通行。
時間は無駄に過ぎていき、段々、エマの痛がる声が壁越しに聞こえてくるようになった。
僕は力んだ体を震わせ、ただ耐えているしか出来なかった。
きっと暴力を振られ、エマは辛がっている、でも助けに行けない。
そんな時間は、まるで悪意を持っているかのように、ゆっくりと僕の心を蝕んでいく。
「ここまで寄りを戻したいって言ってんのにまだ分からねぇか‼来い‼ここじゃ埒が明かねぇ‼」
怒号が轟く、酷く慌てた彼の声。
「ヤダヤダ!やめて!!」
「黙れ!!素直じゃないお前が悪いんだ!!」
エマが何処かへ連れて行かれてしまう。
気づけば僕は戸を開け、足は勝手には走り出していた。
「……あ?」
彼女の髪の毛を引っ張るブラッドリー、その背に僕は突っ込んでいった。
「エマから手を離せ」
ブラッドリーが吐き捨てるように言った。
「はぁ……はぁ……手間取らせやがって」
私、エマは仰向けに倒れたルイの元へ駆け寄る。
綺麗な毛並みは赤く染まっていて、長い舌は活力を失って伸びきっている。
とくとくと血が流れ出る腹を見て「あああ……ルイ‼」と叫んだ。
私は息を切らしている彼を見上げ、睨みつけた。
「……どうして……この子がこんな事に」
「……う、うるさい」
彼はびくつきながらそう言って、吹っ切れたかのようにまた怒鳴る。
「子犬が死んだ程度で喚くな‼」
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