第三十二話 ぽやぽや後輩に消毒液を持たせてはいけない
「いってぇ......」
土がついた擦り傷を他の場所に触れないようにしながら俺は保健室へと向かった。
「あんな広いゴールを素人のキーパーが守れるわけないだろうが」
一人で愚痴をこぼしても誰も反応しない授業中。少し暗くなった廊下はそれだけで寂しさを演出するのに俺だけの声が響くことによって更に寂しさが際立つ。
いつもなら俺の一言に十の言葉で打ち返すホームラン女王が横にいるのに。
「失礼しま......いないのか」
保健室の扉を開けると誰も居らずカーテンがいくつか閉まってるだけだった。
廊下に戻って扉やその周囲を確認しても外出の旨を知らせるものはなし。
「戻ってくるまで待つか」
中に入り適当な椅子に腰をかけた。
薬品の匂いが充満するこの教室。最後に来たのは高校一年必修の美術の時間だったか。
美術の時間で保健室行きの怪我といったらやっぱり彫刻刀だろう。俺は少なくともそうだった。
「血が出て大変だったなぁ」
血管を切ったのかびっくりするぐらい血が出たのを覚えている。
包丁で切ってもあんな血、出なかったのに。きっと全ての彫刻刀には出血デバフがついてるに違いない。
「先輩?」
「海原?」
俺が気持ち悪く独り言をブツブツ言っているとい閉まっていたカーテンが開かれ白い髪がだらんと垂れた。
「せんぱい、どーしたんですか?」
だがどうしてか様子がおかしい。
どうしてそんなにふにゃふにゃなんだ。
「お前、寝ぼけてるだろ」
「そんなことないですよぉ。ちょっとふりゃふりゃするだけです」
「それを世間一般では寝ぼけてるって言うんだよ。舌だって回ってないし」
「だいじょーぶ。ふふふ」
人のテンションが違うだけでこうも気持ち悪くなるのか。取り敢えず鳥肌凄いからそれ以上近づかないで欲しい。
「せんぱいはどーしたんですか?」
あ、始めに戻った。
「怪我したんだ。お前との逢瀬を見つかった後にちょっとな」
「なら、わたしのせい?」
そのこてんと首を傾げるのやめようか。可愛いくて思わず手が伸びちゃうから。
「わたしが消毒します!」
「いい。待つ。ちゃんと知識ある人にやってもらいたい。例え! 知識がなくても寝ぼけてる人間にやってもらいたいとは思わない」
「あ」
「ほら見ろ! 消毒する量じゃないんだよ!」
消毒液とガーゼを持った海原。多分ガーゼに液を染み込ませようとしたんだろうが寝ぼけてるせいか力加減が出来ず大量に海原の手に特有の刺激臭と共に出された。
「......大は小を兼ねる」
「その言葉で済むと思うな。消毒液に限っては例外だろうが! どう考えても!」
「わたしが優しくしてあげますよぉ~」
ぽやぽやな海原はその痛みを知らない。というか想像すらしていないだろう。
どんなに優しくされようと傷口に消毒液が触れれば痛い。流石に少しなら我慢できるがこぼれるほどの量はちょっと厳しい。クラスのドMな誰かにやってあげてはどうか。海原ならきっと金をとっても怒られないほどに美少女だ。
頼むから俺の傷口をそんなボーっとした目で見つめないで。
「えい」
「あぐっ......!」
肘に唐突な痛みと背筋に伝わる冷たさ。ぺたぺたと海原が触るたびに痛みに襲われる。
「もう大丈夫だ! あとは自分でやる! 助かったよ。ありがとう」
海原からガーゼを取り上げ傷口に当てる。本来、消毒液は直塗りするもんじゃないんだぞ。
べたべたになった肘を拭いていると前から影が迫ってきた。
「ちょお!」
海原が体重をかけてきた。残念なことに俺が座る椅子に背もたれはない。つまり俺の筋力で海原を支えてるわけだが当然人一人の体重を支えられるわけもなく俺は海原に組み敷かれる形となった。
ふわりと香るシャンプーの匂いとしっかりと分かってしまう体の肉付き。華奢な肩と硬いブレザー越しにかすかに分かる柔らかさ。
一瞬心臓が高鳴るがすぐに収まった。海原が寝ているならそこまで焦ることじゃない。
起きれるなら可及的速やかに引き剥がす必要がある。理由は調子に乗るから。
「寝るならベッドで寝ろよ......」
俺の耳元では「すぅすぅ」と寝息が聞こえる。疲れたのか、ただ単に寝不足なのかは分からないが寝かせておこう。ベッドでな。
一回海原を引き剥がし頭の後ろと膝裏に腕を差し込んで持ち上げた。
「軽い......でも重い」
漫画やアニメじゃひょいと持ち上げるがそんなこと出来ない。いや、イケメンなら出来るのかもしれない。重力を操作する系の能力がイケメンには生まれつき備わっているんだ。きっとそうに違いない。
「ふへぇ」
「人の苦労も知らないで気持ちよさそうに寝やがって」
海原を運び終える頃には肘の痛みは収まっていた。
そしてなにより心臓に悪いのは、ベッドに寝かせた海原はどこか嬉しそうで笑っていたことだ。可愛すぎる。




