第三十六話
「これは、幼い頃私たちが交わした、婚約の証です」
紙に、子供の文字で“けっこんのやくそく”と書かれ、二人の名前が書かれていた。
こんなものを書いた記憶はない。だが、幼いながらもこれは私の字に間違いない。背筋がすっと寒くなる。私は、男ではなく女だったのか?そして子供の約束とはいえ、一度はこの男と将来を誓ったというのか。
「私は確かにエムサラ姫に“自分の娘”だと紹介されました。そして幼かったあなたと最後に会ったのは、あなたが九重の家に引き取られる少し前のことでした。その時姫は泣いていました。娘を上に取られる、と。自分と同じように政治の駒に使われてしまう、と」
『このまま行けば、この子は必ず東宮妃にされてしまう。私はいちには、いちが本当に好きになった人と結婚して欲しい。だから、無駄かもしれませんが私はこの子の性別を男に変えます。
そうすれば、さすがの天界や九重家もこの子を東宮妃にはできないでしょうから・・・!ですがイマチ。もしあなたが上の世界でこの子に会うことになったら、どうかこの子を助けてやって。私には、もうこれ以上何も出来ない』
「嘘」
私が、女だった?そんな馬鹿な話、誰が信じるものか。私は確かに男にしては線が細い。けれど、女ではない。
「嘘ではありません。姫はあなたの体を変えると同時に自分が“女性”であったことを封じる暗示もかけました。私は、エムサラ姫にその暗示の解き方と、いち姫をもとの体に戻す術を教えられています」
『イマチ、あなたといちが将来の約束を誓っているのは知っています。ですから、晴れていちが下界に戻り、普通の生活を送れるようになったなら、あなたの手で、私の術を解いてやって。そして二人で幸せになりなさい』
体が強張る。とんだ夢物語を、と笑い飛ばしてしまえばいいのに、何故かそれが出来ない。イマチの瞳があまりに真摯だからか、それとも自分自身思い出せないだけで、私の体がイマチの話に反応して昔を思い出しているのか。
「私は、あなたを私の妻にしたかった。でも、あなたは下界に帰されるどころか東宮妃になってしまった。こうなってしまえばあなたを手に入れるためには私が東宮になるほかは無い。この幼い頃の誓いを全うするために私は、ご存知の通り何でもしました」
いつもにも無く、殊勝な様子のイマチに私は戸惑った。これではまるで、今までしてきたことを後悔しているように見えてしまう。
サクの宮やかぐや姫を死に追いやり、カヤデやアマツの宮を下界に追放させた要因を作ったこの男が後悔なんて言葉を、知るはずがないと思っていたのに。
「では、あの舞の日私に話した初恋の相手は、私だというのか?」
「そうです。あなたです」
なんという声を出すのだろう。この男は。私は驚き戸惑った。今イマチが私に向けている目は、とても優しく穏やかで、愛おしい者を見るそれだ。そして、今まで聞いたことの無い真摯な声だった。
「あなたにかけられた術を、解いてもいいですか」
「どうして」
胸が高鳴るのが分かる。私は、この瞳を知っている。
「私は、本当のあなたに戻って欲しいのです。可愛らしいピンクのリボンが好きで、ハナミズキの花が大好きだった、あの頃のあなたに」
ここで、差し出された手を取ればイマチの言うとおり私は女に戻るのかもしれない、でも。
「私は、男です。どのような過去があろうと、私は今まで男として生きてきました。それに、私はどうしてもあなたがしてきたことを許すことが出来ない」
―だから、あなたの手を取ることはできない。
私は目の前に置かれた子供の“誓約書”に目を落とした。つたない文字で綴られたお互いの名前。例えこの時の私が心から誓ったのだとしても、10年以上の月日は私を変えた。
それはイマチも同じこと。いくら彼がこのときと変わらず優しい心を持っていたのだとしても、私にはそれを受け入れることは出来ない。
「そう・・・ですか」
イマチは、手を戻すと視線を下げた。
「私には、あなたしかいなかった。けれどあなたには私だけではなかった」
苦笑してまた、イマチは顔を上げた。
「私は、どんなにあなたに嫌われようとも、あなたを愛し続けます。その気持だけは、否定しないでください」
イマチは私の手を取り、そっと口付けた。