第二十六話
「旦那、そろそろ術を解かないと坊ちゃんの体に障ります」
あかるさんにそう言われて、宮は先ほどよりも強い口調で“タケハの宮”に問うた。
「今、どこにいるのですか。迎えに行きます」
「まぁ、サクが死んだんじゃ、一度都帰らなきゃいけないな。いいぜ、俺自分で帰るから。別に迎えに来なくても」
「いいえ。あなたのことですから、いつ気が変わるか知れません。迎えに行きます。今どこですか」
アマツの宮の怒りに反省したとは思えなかったが、“タケハの宮”はすんなりと居場所を白状した。
「ケベの村ですか。わかりました。私が行くまで、くれぐれもそこを動かないようにお願いします」
「おっけー」
そう、“タケハの宮”が軽い返事を返した瞬間、カヤデの体がまた倒れた。
どうやら、ここまでが体の限界だったらしい。倒れこんだカヤデは、荒い息を吐き、肩を上下に激しく揺らしていた。
「カヤデ、大丈夫?」
急いでその体を起こした。顔色は青く、目もうつろだ。
呼びかけても反応はない。アマツの宮が額に手を当てた。
「熱が高いですね」
「やはり、血が近いとはいえ他人をその体に宿すということは重労働でしたか」
アリヨ殿が心配そうに言う。
「血が近かったからこそ、この程度で済んだのです。ですが、しばらくは動く事も億劫になるでしょう・・」
あかるさんも、ひどく疲れた顔をしていた。
腕の中で、カヤデは未だ落ち着かない息を吐き続け、額からは大量の汗を流していた。
あのアホ宮のせいで、カヤデがこんな目にあったのかと思うといたたまれない。
「とにかく、私は急ぎあのバカ・・・もとい、タケハを連れ戻してまいります。
表向きにはカヤデも共に都を去ったことにしておきますので、カヤデが気付いたら、これを付けてタケハに成りすまし一度天之宮に参内するように伝えてください」
アマツの宮は立ち上がると、懐から一枚の白い仮面を取り出した。
「わかりました。くれぐれも、お気をつけて」
仮面を受け取り、うなずいた。
「私も、協力できることは何でもいたします」
「ありがとうございます。アリヨ殿。カヤデの命を助ける為とはいえ、長らく事情も話さないままご協力していただいていたのにも係わらず、今回の事もご面倒をおかけして申し訳ございません」
「お気になさらないでください」
アリヨ殿にもう一度深く頭を下げると、アマツの宮は足早に部屋を出て行った。
「行ってしまわれましたね・・・」
あかるさんが呟いた。
必要なことだったとはいえ、今まで共に暮らしていた友人の姿が当分見られなくなるかもしれない、ということは想像していたものよりも辛いのかもしれない。
「宮様をお連れして戻って来られる頃には、きっと天帝も宮様達をお許しになっているでしょう。現実問題、今の天之宮が宮様達なしに長く均整を整えていることは不可能ですから」
良家の出身として天之宮の中枢を担う公卿の一人である、アリヨ殿にそう言われると、妙に安心した。実際、私もそんな気がしないでもない。
天界で共に暮らした日々はまだまだ浅いが、宮やカヤデがこの世界にとって必要不可欠な存在であることはよく考えれば容易に想像できたからだ。
亡くしてしまったとはいえ、もとは次期天帝の後見として立つはずだったアマツの宮様に寄せる天帝の信頼は深いものがあるのだろう。それは東宮妃の後ろだてに命じられているカヤデにも同じ事はいえる。
今は、信じて待とう。そう、考えた時だった。
―ふいに、腕の中でカヤデが苦しそうに身悶えた。
アリヨ殿も気がついたのか、カヤデを覗き込む。
体をこうして支えられ起こされているのも辛そうだ。床に寝かそうかとも思ったが、それはカヤデが首を振り拒んだ。
「予想外に体力の消耗が激しいようですね」
あかるさんもうなずいた。自身も決して体が楽ではないだろうに立ち上がってカヤデの様子を見に来てくれた。
「最近、坊ちゃんは寝る間も惜しんで、天之宮の後処理や、雑務に追われておいででしたから・・・」
額に汗で張り付いた前髪をそっと上に上げてやる。私の手が冷たかったのか、カヤデが目を開いた。やはりその瞳はおぼろげで定まっていない。
「大丈夫?水でも飲む?」
呼びかけると、小さく“いらない”と答えた。
ゆっくりと休ませてあげたいが、一日でも早く、天之宮にタケハの宮様として参内してもらわなければならない。
しかしこの様子では、自力で起き上がれるようになるまで何日かかるか知れない。
「何か、薬でも飲ませたほうがいいでしょうか」
この世界の薬がどれほど発達しているかは知らないが、気付け薬や、栄養剤の類はあるだろう。
そう思い、ただ単純に私は質問しただけだった。しかしその時、アリヨ殿とあかるさんが困ったようにお互いの顔を見た。
―もしかして、薬はないのだろうか。
「薬は、あるにはあるのですが、下界で使用していたものとは少し観念が違うのです。ましてや、今回は病気ではなく、ただ体力を著しく失っただけなので・・・」
どうにも煮え切らない風に話すアリヨ殿の代わりにあかるさんが説明してくれた。
「今、坊ちゃんに必要なことは、休息はもちろんのこと、人の“気”です。“気”とは、人間の精神力を表すものと、古くからシビラの民に語り継がれています。
病は気から、とも申しますように、“気”は決して欠かしてはならない重要な物。それを消費して、他人の精神を宿すのが依代なのです」
「では、どうすればその“気”を補充することが出来るのですか?」
「“気”は人の口や鼻より大気から取り込まれ、同様に汚れたものを排出します。
坊ちゃんのように高貴な生まれの方には、それなりに見合った方の気を与える方が回復も早いです。そう、例えば天帝の后妃・・・など」
「私がカヤデに気を分けてあげられるのですか?」
もしそうならば、遠慮なく私の気をカヤデに送りたい。どうせ私は次に呼び出されるまでは屋敷に篭りきりになるのだし、少しくらい体調を崩してしまっても問題はない。
しかし、直接私の名前を出すのではなく、“天帝の后妃”と、遠まわしに言ったことが気になった。もしかして、気を分けるという作業は難しいものなのだろうか。
「はい。口付け・・・を、していただければ、姫様の口を通して坊ちゃんの体に気が送り込まれます・・」
なるほど、そういう事か。だから言いにくそうな表情を二人ともしていたのか。
私は首を振った。
「私は、将来の天帝の后になる身です。ですから、容易に天帝以外の方とそういうこと・・をしてはいけないのだということも知っています。ですが、今カヤデをそのままにしておくことはできません。天界のためにも」
カヤデが、タケハの宮様として参内してくれたら、私がイマチのもとへ行く可能性はぐっと低くなる。私は、自分の進退が決るまでは、ここでみんなと暮らしていたい。
腕の中のカヤデを見た。何も言わずに、私を見つめている。きっと今私がここでカヤデに気を分けることを拒んだとしても、彼は何も思わないだろう。
むしろ、気を分けた時こそカヤデが気にしそうだ。
なにせあの晩、“サクの宮を裏切りたくない”と、一度はアマツの宮の指示を断った優しい人なのだから・・・。
「それに、私自身、キスひとつくらい気になりませんから」
努めて明るく言った。私の笑顔を見て安心したのか、アリヨ殿が言った。
「ありがとうございます、姫。感謝いたします。私たちは後ろを向いていますのでその間にお願いいたします。なるべくゆっくりと、静かに息を吐くような気持ちで」
「はい。わかりました」
改めて、カヤデを見る。相変わらずの無表情だったけれどその瞳が、躊躇していることを伝えてくる。
「ごめんね、カヤデ」
ゆっくりと、顔を近づける。カヤデは、目を閉じなかった。黙ってじっと私の瞳を見つめていた。だからだろうか、私も目を開けたままその唇に触れた。
カヤデとこうして唇を交わすことは初めてではないが、触れた瞬間、私のほうが緊張に震えていたことに気がついた。
水分を無くし、乾ききった唇は初めこそ硬く結ばれていたが、やがてカヤデはゆるゆるとその楔を解いた。
頬が火照る。男同士なのだから、別に気にする必要などないはずなのに。
「・・・・んっ」
カヤデの瞳が一瞬潤んだように見えた。
キスの仕方など知らない私だ。無理に口を塞いで苦しかったのだろうか。
そう思い、顔を上げようとした時、カヤデの腕がそれを拒んだ。
後頭部にその手を回し、引き寄せられた。結果より深くその唇を交わらせることになり私のほうが苦しくなってくる。
「っ・・・あっ・・」
いつまでこうしていればいいのかわからない。じっと見つめられたまま何度も、何度も口を吸われ、私は羞恥心に喘いだ。
けれど、今ここで私が拒んでしまったら気が十分に与えきれないような気がしてそれもできない。
漸く開放された時、私の心臓の鼓動は今にも壊れてしまうのではないかと思うほどに速かった。
「ありがとう・・」
そのカヤデの言葉に急に体中の力が抜け、今度は逆に私のほうがカヤデに支えられてしまった。
「元気になった。いち殿のお蔭だ」
振り返ったあかるさんたちに向って、カヤデはすっかりいつも通りになった声で言った。
「坊ちゃん・・」
あかるさんが、何か言いたげにその名を呼んだが、苦笑して首を振っただけだった。