終章
「お前が待っていたのは彼女だったんだな。」
そう行徳に声を掛けられて、末姫は彼を見上げた。
「兄様は、兄様の世界の沙依に来て欲しかった?」
そう問い返されて、行徳はいやと答えた。
「どうせ来れないと思ってた。」
「来ない、じゃなくて来れないね。兄様は、兄様の世界の沙依は間に合わないと思ってたんだ。」
「そうだな。知ったところで答えは出せないだろ、あいつには。それに、泣きつかれたところで俺の意思は変わらない。お前の言うとおり、高英もあいつを丸め込む。俺の居た場所に俺のしようとすることを止める奴は誰もいない。」
そう言うと行徳は行くかと末姫の手をとり、開かれた扉へと向き直った。そして扉の向こうへと進もうとする行徳を制止し、末姫は自分の手を握る彼の手を外した。
「兄様はここまでだよ。ここまで。こっから先には連れて行かない。」
下を向いてそういう末姫に、行徳は困ったような顔をして、やっぱりお前は俺の思うようにはしてくれないなと呟いた。
「わたしは沙依が羨ましかった。わたしは兄様が欲しかった。でも、わたしが望んでいるのはこんなことじゃない。兄様を連れて行ってもわたしは満たされる事はない。」
「だから、俺の願いを聞くのをやめるのか?」
「うん。だって、兄様の願いを叶えても、兄様は幸せになれないから。わたしは兄様にちゃんと幸せになって欲しい。兄様がそれを望まなくても。兄様がそれを拒んでも。ちゃんと生きて、逃げないで、向き合って。いつか遠い未来で、自分が世界に在ることを受け入れられるようになって欲しい。わたしを逃げ道にしないで。兄様は、わたしの兄様で、沙依の養父さんでしょ。情けない姿は見たくない。」
そう言う末姫の言葉を聞いて、行徳は諦めたように溜め息を吐いた。
「それはお前の意思じゃないな。でも、そう思ってる奴が沢山いるんだな。俺の願いよりお前が優先させたくなるような、強い気持ちで神様にそれを願う奴が・・・。」
そんな行徳の呟きに末姫は申し訳なさそうな顔で、でもわたしの意思だよと返した。
「兄様。これで今度こそ本当に、兄様がわたしを認識することはできなくなる。でも、わたしはいつだって見守ってるよ。姿を見せることはできなくても、声を届けることができなくても、それでもわたしはここにいる。兄様の願いを叶える存在ではないかもしれない。でも、わたしはこれからもずっと兄様の味方だよ。何を置いても兄様が大切で、兄様だけがわたしの特別。だから、困ったことがあったら願って。わたしを頼って。いつだってわたしは兄様の力になるから。これは約束。」
「約束、な。俺のワガママはきいてくれないが、いつでも俺の助けにはなってくれるのか。それは心強い。が、神の加護を受けながら人の世で生き続けるというのは、些か俺には不都合すぎる気がするな。でも、それがお前の意思なら仕方がない。本当に、お前は俺の思うとおりにさせてくれなくて困る。」
優しく微笑んでそう言うと、行徳は愛しむように末姫の頭を撫でた。
「神だからと、俺はお前に随分酷いことを押しつけてきた。それでも兄と慕ってくれるお前の想いを蔑ろにするのは、兄としてあまりにも情けないことだな。それにこんなワガママ通したら、また次郎を酷く怒らせそうだ。ここは長兄として、ちゃんとするしかなそうだな。」
そう悪くない様子で言う行徳に末姫はありがとうと呟いた。
「末姫。これが最後だ。何かして欲しいことはあるか?叶えられることなら何でも叶えてやる。最後までとはいかなかったが、俺のワガママに付き合ってもらった礼だ。何でも言え。」
そう言われて末姫はじゃあと言葉を紡いだ。
「わたしにおまじないを掛けて欲しい。人になった方のわたしがしてもらっていた。独りぼっちでも大丈夫になるおまじない。何度もその場面は見てきた。でも、わたしは兄様にそれをしてもらったことがないから。」
そんな末姫の願いを聞いて、行徳は彼女の小さな手をその大きな手で包み込み、それをぎゅっと握った。
「末姫。俺の能力は解ってるな。俺はちゃんとお前の中にいる。俺の精神の一部をお前の中に残しておく。肉体は離れても傍にいるからな。だからお前は独りじゃない。これからもずっと、独りじゃない。」
そうおまじないを掛けてもらって、末姫は小さく笑った。
「兄様、大好き。兄様のいる世界を、わたしは絶対失わせない。」
そう言って抱きついてくる末姫を受け止めぎゅっと抱きしめて、行徳は任せたよと呟いた。
末姫が行徳から離れ、扉の中へと入っていく。扉がゆっくりと閉じていく中で、もう末姫が行徳の方を振り返ることはなかった。行徳も何も言わず、ただそれを眺めていた。そして扉が固く閉ざされるのを確認し、それが消えていくのを見守る。完全にその扉が消え去ったとき、行徳は自分のいた世界に戻ってきていた。あぁ、帰ってきてしまったな。そう思うと同時に行徳は、今度こそ腹をくくらなくてはいけないなと思った。見守っていると言うと聞こえは良いが、末の妹に常に見張られている現在、あまり情けないことはできないからな。そんなことを心の中で毒づいて、行徳は小さく笑った。