第二章④
そこに辿り着いた時、開かれた扉の前には神様になった方の自分と、自分のいた世界ではもういなくなってしまった養父、青木行徳の姿だけがあって、沙依は少しだけ疑問に思った。
「別におかしいことじゃない。この場所に留まっていた彼女は、扉を開けさせるために鍵である彼を呼び寄せた。だから扉が開いた今、あの人達がここに留まる理由はない。今頃どこかで仲睦まじく束の間の逢瀬を楽しんでるんだろう。彼女の欠片と交流のあるあなたなら解るでしょ?あなたの意思を彼女も知っている。だから、彼女はわたしが軛になるとは思っていない。軛になったとしても、長くはもたないと思っている。だから、自由になっても直ぐに終わると思っているんだ。この世界がこの形を保つ事ができる時間が。」
そう神様になった方の自分である幼い姿の自分に言われ、沙依は返す言葉が見つからなかった。
「あなたの意思は解っているよ。軛になりたくない。世界から消えることもしたくない。それが沙依の意思。どの沙依も表面上は色々意見が分かれても、根底の意思は変わらない。覚悟の大きさは変わっても、その意思は変わらない。それが全て一つになった時、比率は確実にその意思に軍配が上がり、どれだけの数の沙依が世界の軛になる覚悟を決めていてもそれはひどく非力で役に立たないものに成り下がる。つまり、わたしは神の孤独に耐えることができなくなる。確実に。」
そう言う幼い姿の自分が一体何を考えているのか沙依には解らなかった。耐えられないから、軛になることをやめる。耐えられなから、このまま世界を終わらせることにする。そう受け取れなくもないが、目の前にいる彼女が選んだ答えがそんなモノではない気がして、沙依は何故か胸がざわついた。
「もしも自分が人として生きていく事ができていたら。兄様の計略で父様の贄にならずにすんだ自分。その自分に自分を重ね、ずっと人として生きる自分をなぞってきた。でも、思う。やはりわたしは人には成り得ないのだと。神にならなかった自分は、結局は自分自身ではないのだと。こうしてあなたと対面して余計に思う。わたしとあなたは全くの違うモノだ。いくら元が同じ存在で、今ここにいるあなたがほぼほぼわたしと同化していても、わたし達が一つの存在になる利は何もない。わたしは、あなた達人として生きるわたしという存在。沙依という存在の全てをわたしから切り離そうと思う。そして、ここにいるわたし、最初から神としてしか存在しなかった、一度も人になどなったことのないわたしが世界の軛になる。兄様と一緒に。兄様と一緒に沢山の事を視て、沢山のことを知って、沢山話し合って、それが良いと結論づけたんだ。だから、あなたは安心して自分の世界に戻れば良い。何も心配することはない。あなたの望み通り、世界は終えることはなく、あなたも消える事もない。そしてこの場所への鍵は失われ、世界は永遠に保たれることとなる。」
幼い姿の自分から語られたそれを聞いて、沙依は嘘だと呟いた。
「この場所への鍵が失われることはきっとない。世界は一に戻ることを望んでる。一に戻る手段を失うなんてそんなこと、世界が許すはずがない。わたしを切り離したところで、世界の理から逃れることなんてできない。わたしを切り離したところで、わたしを通して芽生えた感情が失われるわけじゃない。あなただっていつかきっと耐えられなくなる。」
そう言って沙依は考えた。軛になる上で彼女がわたしと同化する不利益は理解できる。もしわたしと同化して軛になったら、この場所への鍵となるのは絶対にナルだった。そして、ここにいるわたしは知っている。ナルは絶対、いつかわたしを解放しに来ると。それがどれだけ先になっても、絶対。わたしの世界のナルが来なくても、何処かのナルがわたしを助けにやってくる。わたしを解放するためにやってくる。それが解っているから、神様になったわたしはわたしを切り離すことにした。いや、ここに来る前に立ち寄った世界の自分、人により近い自分の言うように、感情を持ちすぎたわたしは神の孤独に耐えられない。だからそんなわたし全てと同化してしまえば、自分が軛でいられる時間が短いから切り離すことにしたんだろう。でも、人であるわたしを捨てるなら、神であるわたしが世界を継続させる意味が解らない。世界の摂理をねじ曲げて、世界を継続させる理由が解らない。人であるわたし、すなわち彼女の感情や願いを捨てるのであれば、世界を終わらせることに何も感じないはずなのに。神様は一に戻ることを望んでいるのだと思っていたのに。なのに、できるだけ永く世界をこの形で継続させようとする意味が解らない。そう思って、沙依はハッとして行徳の方を見た。
「世界を継続させるのは行徳さんの意思。あなたは、なにをおいても行徳さんの意思を尊重しようとしているの?」
そんな沙依の呟きに、神様になった方の沙依、末姫は目を伏せた。
「わたしは兄様と約束した。兄様の願いの為に、わたしは最善を尽くすと。兄様は一方的に願わない。わたしに願う代わりに、わたしの願いを叶えてくれる。わたしと一緒に来てくれる。」
そう呟く末姫に違和感を覚え、沙依は口を開いた。
「嘘だ。わたしは知ってる。感情の薄いわたし以上にあなたは何も感じない。あなたが本当に行徳さんに一緒に来てくれなんて言うはずがない。あなたは独りぼっちでも平気なんだから。」
「そうだよ。わたしは独りぼっちが怖くない。全然、独りぼっちに何も感じない。あなたとは違う。父様に連れられて、人の世を後にして。家族とも、世界とも切り離されて、父様に異常な執着を向けられてもわたしは何も感じなかった。父様の存在さえわたしにはどうでも良いものだった。完全に神様になってしまえば、父様もわたしも差はない、同じ存在。神の領域では二人でいても独りと同じだった。最初に神様になった時、わたしはただ、いつかこの時のため、そのためだけに存在するただの概念と成りはてた。兄様が、わたしを人にしようなどと画策するまでは。何処かの時間のわたしが、兄様の手で人の世に留まらされて、わたしは自我を芽生えさせた。個としての意思を持ち、軛という概念以外の、末姫という意味を持つことを許された。それでもわたしは神様。何も変わらない。わたしにとってあなたたちの辿った人生、辿る人生の全てがただそこに在るだけの意味を持たないものだった。同じ存在なのに全く違うあなたに、わたしは嫉妬というものを覚えた。初めてわたしに本当に芽生えた感情はそれだった。沢山知れば他にも何か解るかもしれないと、ひたすらに人としてのわたしという存在を継続させた。数多の選択を、流れを経験させた。でも、知れば知るほど、そこにあるわたしはわたしとは違うものだった。わたしではありえなかった。最初のわたし、ここにいるわたしは、他のどのわたしとも違う。わたしは家族から愛情などもらわなかった。人と絆など結ばなかった。人の領域に存在していた時から、わたしはただの概念だった。人の領域にあっても、わたしが人だった時間なんて一瞬もありはしない。あなたはあなた。わたしはあなたではありえない。同じ存在と言うのもおこがましいと思うほど、あなたとわたしは別のもの。でも、わたしは今までそれを認めなかった。あなたを切り離すことをしなかった。今になって思う。それは執着だったのだと。あなたとわたしが同じものであると言い張ることで、自分が得られなかった全てを、あなたが持つ全ても自分のものだと自分に言いきかせ、自分を慰めていたのだと。兄様から与えられた末姫という概念は厄介だ。その概念が、わたしに完全なる概念としてだけ存在することを拒ませ、わたしという個を産んでしまった。それが一に戻ろうとする世界の意思によるものだとしたら、きっと抗いようのないものなのだったのだろう。でも、だからこそわたしにもあるんだよ。自分の意思や想いが。どれだけ人より薄く、希薄で、あなたから見れば無いのと等しい程度のものだったとしても。わたしも自分の感情を持っている。」
そう語って末姫は、沙依に視線を向けた。
「兄様だけがわたしの特別。兄様だけがわたしという存在を認め、認識し、その世界に在る人の領域に存在するどのわたしでもなく、神の領域にいるわたしと諍いを続けていた。兄様とだけわたしはずっと交流してた。神としてではなく、末姫として。わたしはあなたが羨ましかった。わたしも誰かが欲しかった。特別な誰か。わたしを想ってくれる誰か。わたしが兄様を連れて行くのは神様の孤独に耐えられないからじゃない。例え兄様の意思の裏にどんな思いがあったとしても、兄様がわたしと一緒に軛になってくれると言ってくれた。そうやって兄様がわたしに与えてくれる全てが嬉しくて、兄様の全てが欲しいと思った。だから連れて行く。それだけ。」
「嘘だ。解る。まだわたしはあなたに切り離されてないから。あなたは自分の持つ希薄な感情に、縛られて縋り、しがみついて手放せないほどの執着は持ち合わせてない。行徳さんが特別なのは本当だと思う。でも、そこまで強行する意思を、なにがなんでも我を通すほどの強い想いをあなたは持ってない。できればこうだったら良いな、でもそうならなくても別にいいやくらいの軽い気持ちしかないはずだよ。それはあなたの意思じゃなくて、行徳さんの意思でしょ?ここにいる行徳さんは、あなたが彼を連れてきた世界のわたしに、あなたの意思の下邪魔をされ、全ての罪を背負って消えてしまうとこが叶わなかった。だからここにいる行徳さんは、あなたの神の孤独を癒やすためという大義名分の下、清算することができなくなった罪から逃げたいだけじゃないの?それを解ってて連れて行くの?あなたは、兄様も皆と一緒に幸せになる未来が視たかったんじゃなかったの?」
そう投げかけて、それでもと返してくる末姫の静かな声に、沙依はなんとも言えないもどかしさを感じた。
「あなたの言うとおり、わたしの意思なんて軽いから。兄様がそう願うなら、わたしは兄様の意思を尊重する。あなたが来る前に、兄様と沢山話し合ったって言ったでしょ?あなたを切り離しわたしが軛になれば、鍵になるのは兄様だった。でも、その兄様を連れて行ってしまえば、鍵は兄様が意思を託した高英に移される。でも、高英はああいう人だから、絶対に扉を開けたりしない。自分が鍵であることを誰かに明かしたりもしない。それを知っているあなたが働きかけたとしても、それが兄貴の意思だと彼に言われたら?もっともらしい言葉を重ねられればあなたはたやすく丸め込まれる。兄様がどういう人か解ってるから。迎えに行ったところで、出てきはしないと思うから。扉を開けるためには兄様を説得しなくてはいけない、でも兄様を説得できる言葉が思いつかない。だからあなたも諦める。諦め切れなくても、それが思いつくまでは何もしないでしょ。そしてそんなもの、自分に思いつけると思う?いつか何処かでそれを思いつくことができるとしても、それまでには永遠に近い時間がかかるとは思わない?だから、これが最善の選択。兄様とわたしで話し合った、これが一番時間稼ぎができる方法。」
そう言われてしまえばもう何も返すことができなくて、沙依は途方に暮れたような気持ちになった。そして呟く。じゃあ、なんでわたしを待っていたの?と。話し合って決めたなら、もうそう決断していたのなら、わたしを待つ必要なんてなかった。行動してしまえば良かった。世界の境目を薄れさせても、世界が一に戻る時間を進めさせてまで、待つ必要が何処にあったのか。それが本当に知りたいわけではなかった。でも、消化しきれない自分の中の納得できないモヤモヤをごまかすように、沙依はその疑問を口に出した。
「知っていて欲しかった。のかな。」
そう言って末姫が困ったような顔で笑った。それは初めて見る彼女の人間らしい表情で、それは彼女もまた完全なる神ではいられなかったのだと実感を伴って理解させるに充分なことだった。人にはなれなかった。でも、完全なる神にはなれないまま、多少でも感情をもったまま軛になる。感情を持ったまま、世界から切り離され、世界の誰もから認識されずともただ世界を見守り続ける存在になる。何を想っても、誰にもそれは伝わらない。何を願っても、何もすることができない。ただ世界の行く末を見つめ、一方的に恩恵と厄災を振りまく存在になる。彼女の起こすそれを誰も彼女がやったと認識することがでずただ受け入れるだけ。それを寂しいと感じる心は、行徳さんがついていくことで軽減されるのだろうか。ただの利害関係で、心を支え合うことはできるのだろうか。二人でいても独りぼっち。それは、父様とじゃなくても同じじゃないのかな。行徳さんと一緒でも同じじゃないのかな。そう思うと沙依は少しだけ、目の前の幼い姿の自分が悲しくなった。
「わたしはただの概念になりたくなかった。末姫という意味を持ったときからわたしは、自分の意思を否定され、ただ存在するだけのものになりたくなかった。兄様だけが特別だった。兄様だけがわたしをわたしとし見てくれた。でも、その兄様ももういなくなるから。だから、あなたに覚えていて欲しかった。あなたがわたしの一部だったこと。わたしがあなたの一部だったこと。これからは別の存在だけれど、わたしたちは一つの存在だった。わたしというあなたがいたことを忘れないで。そして、わたしと切り離されれば、わたしの恩恵はなくなるけれど。それでもほとんど神様になりかけているあなたは、今の境界が薄れた世界を自由に行き来できる、わたしが軛となった後の新しい世界での神様というにふさわしい存在になる。結局はあなたはあなたが神様であるということからは逃げられないよ。だからこれで自分の役目から逃れられたなんて思わないで。いつか遠い未来で、もしまたこの扉が開かれる事があったとき、その時この決断をするのは、今度は、いや、今度こそは本当にあなたの番だよ。他のどの沙依でもない。あなただよ。」
そう言うと末姫は沙依にさようならと告げた。
そして気が付くと、沙依は特異点となっている世界に戻ってきていた。自分のいた世界ではなくここに戻ってきたということは、ここにいるわたしに顛末を伝えろと言うことだろうか。そう考えて、そして、自分が神になった方の自分と切り離され、あの場所の扉が閉められたことを感じる。また、世界が一に戻る時は止まった。世界の境界も保たれたまま、でも薄なってしまったそれは以前よりずっとたやすく越えられることだろう。これからは予期せず自分のいた世界とは違う世界に迷い込んでしまう者も、意図して時空を越える者も増えるだろう。本来それは神だからこそできる事。それを生身の人に気軽に行われるのは厄介だと思う。今のうちに邪魔をしておこう。そう考えて沙依は、たやすく境界を越えることができないように、自らの能力でそこに至るまでの道のりに様々な厄災を配置した。これで神様か、神様により近い存在でもない限り、余程の強運と、そしてどうしてもそれを成さねばならいという強固な意志、それが叶うまで諦めない心と、強靱な肉体、全て持ちあわせなければ意図的に越えることはできない。いや、抜け道がない訳ではないし、たまに何の因果か意図せず越えてしまう者も昔から存在するから、絶対に越えられないというわけではないけれど。どうしようか。そう考えるも、そこまでは別に網羅して防がなくても良いかと思う。そしてふと、この時間軸に自分以外にも別の時間軸から来てしまっている者達がいることを思いだし、沙依はあちゃーと思った。生身の人間が境界を越えるのが難しくしっちゃったんだから、ここにいる人達はわたしがちゃんと元の場所に帰してあげないと。そう考えて、ここにいる自分に事の顛末を伝える以外にもこの世界で自分がやらねばならないことが色々ありそうだなと思って、沙依は大きな溜め息を一つ吐くと空を見上げた。
今回、世界の終焉は訪れなかった。でもいずれ、永遠に近い時の先であの扉が再び開かれることがあるかもしれない。そうしたら、その時はわたしの番。わたしが決断し、わたしが行動しなくてはいけない時が来る。そんな時はこなければ良い。そう思うが、絶対なんてありえないから、覚悟はしておかなくては思う。そして、沙依は自分の世界にいる自分の夫に思いを馳せた。
ナル。いつかその時がきたら。誰にも何も教えないまま、二人で世界を終わらせてしまっても良いよね。そう心の中で呟いて、沙依はなんともいえない微妙な顔で笑った。