揺らぐ地盤はお互い様
「これは関周殿。いかがなさった」
牙応が姿勢を正して言った。
官軍最強と言われる雷紹の部隊。その隊の軍監である関周には、やはりかなりの権力があるらしい。
「いや、牙応殿が――」
関周は燐夕をちらりと見てから、
「怪しげな動きを見せたと聞きましてな」
はは、と牙応はわざとらしく笑った。
「怪しげとは人聞きの悪い。私はただ……」
その後の言葉は続かない。娘を一人、兵士を使って拘束していた現場を目撃されたのだ。牙応としても、どう答えればいいのか分からないのだろう。
「聞いたところによるとこの娘は、煉州軍の将、燐牙の娘であるとか」
「それは、まあ……」
「娘を人質に取ったと書状を出して、燐牙を戦線から遠ざけようというところでしょうか」
牙応は反論しなかった。
「図星のようですな」
関周はそう言うと、兵士二人を押しのけて、燐夕の右手首を掴んだ。そのまま引っ張られ、燐夕は立ち上がった。
「こういった行動は、慎んでいただきたいですな」
関周は冷めた調子で言った。
「しかし、燐牙が戦線を離脱すれば、官軍が態勢を立て直すことも可能では?」
反発する牙応だったが、すぐに関周は、首を横に振った。
「確かに、それは正しい。しかしその後、官軍の評判はどうなりましょう」
牙応はハッとした表情を作った。
「煉の一州を退けるため、官軍は人質を使った。――このような噂が広まれば、ただでさえ落ちている官軍の評判は今まで以上に悪くなるでしょう。そうなったら、もはや慶王朝の再興はありえないと見る者が続出し、我々はさらに窮地に追い込まれる。そうは思いませんかな、牙応殿」
それだけ言うと、関周は反論を聞く前に歩き出した。
燐夕の手を引いて、牙応の部屋を出る。
廊下を通過して庭園まで戻り、足を止めることなく牙応邸を出た。
「あ、あの、関周様」
屋敷を離れたところで、燐夕はようやく声を出した。
関周は足を止める。
手入れの行き届いた民家の並んでいる通りだった。通りの一角に馬小屋があり、何頭かの馬がつながれている。
関周は一頭の馬に近寄り、鼻先を撫でてやりながら、
「なにか」
ようやく返事をよこした。
「その、本当にありがとうございました。関周様が現れなかったら、今頃私は指を切り落とされていたと思います」
燐夕としては正直な思いを口にしたつもりだった。が、関周はため息をついた。
「勘違いしてほしくないが」
「え?」
「牙応にその場しのぎであんなことをやられると、こちらが被害を受けるのだ。私も雷紹様も、それを避けようとしたまで。君のことはどうでもよかった」
あまりにも率直な物言いに、燐夕は返事ができなかった。
「それでも、評価できることはある」
「評価……」
「遙かに目上であるはずの牙応に対して、はっきり『無能』と言ったことは予想外だった」
関周は小屋から愛馬を引っ張り出した。栗色の、艶のある毛並みを持った馬だった。それに飛び乗ると、関周は燐夕を見下ろした。
「だが、その態度が自分の命を削ることになるということを学習したほうがいい」
では、と言って、関周はその場を去っていった。
後ろ姿を見ていたら、燐夕は今まで以上の不安に襲われた。
もしかしたら、ここ英都にとどまっていることは、恐ろしく危険なことではないのかと。
自分を助けてくれたはずの関周ですら、あんな冷たい態度をとるのだ。
煉州生まれであるということが、燐夕の命の灯火に風を吹きかけている。
英都にやってきた頃、彼女には一人、使用人がついていた。
数日を英都で過ごした後、その使用人とはあっさり切り離されてしまったことをはっきりと覚えている。
いつしか、宮女候補とされていたはずの燐夕は、一介の侍女という立場にまで落とされてしまった。
何がいけなかったのか、今では分かる。
短気で、すぐに反抗的な目を見せること。
しかし、どうしようもないことだった。それは生来からの癖なのだ。
煉州人は常に己を鍛えながら生きてきた。燐夕もそれを教わってきた。
しかし、英都ではその教えは全く役に立たなかった。煉州は優雅という言葉とはほど遠い位置にあり、文化人からは嫌われていたのだ。
そんな場所からやってきた人間が、すぐに溶け込めるはずがない。
「逃げたほうがいいかしら……」
燐夕はぽつりとつぶやいた。
その選択が、絶対に間違っているとは思えない。
だが、うまくいくだろうか。
四方の城門には兵士がついており、人々の出入りを監視している。声をかけられないで外に出られればいいが、脱出に勘づかれた場合、ありもしない疑いをかけられて処刑される可能性もある。
……もうちょっと、考えないと。
一人で納得して、燐夕は歩き出した。早く家に帰ろう。
†
「聞いたぞ、関周」
「と、申されますと」
「牙応が煉州の小娘を使って、燐牙を戦線から遠ざけようとしたとか」
「もうお耳に入りましたか」
「当然だ。わしを誰だと思っている」
「雷紹様でございます」
「そうだ。わしは耳がいいのでな。……それより、牙応の家はどうなっていた」
「は、至る所に黄金、黄金でうんざりするような家にございますな。見ようによっては陛下を挑発しているようにすら思えまする」
「だろう。おかしいとは思わなんだか」
「おかしいとは」
「牙応の奴、ここのところ妙に羽振りがよいのだ」
「ははあ。確かに、妙には感じておりました」
「だろう。牙応はあれでも軍監。十分に金は持っているだろうが、最近の浪費ぶりは密かな話題にもなっておる」
「……雷紹様は、どのように見ておいでなのです」
「わしは、牙応が反乱軍に情報を流しているのではないか、と疑っておる」
「なるほど」
「必ずしも煉州とは限らんぞ。情州や貫州も、すでに慶に対して牙を剥いた。陽州でも決起集会があったとのことだ。それを考えれば、敵軍の間者が牙応を味方に引き込もうとしている可能性は、無ではない」
「おっしゃる通りでございますな」
「どうする、関周。我々はいかにして対策を講ずべきか」
「まずは、牙応の屋敷を監視することが重要になるでしょう。怪しげな人物の出入りが確認された場合、すぐに密会の内容を把握できるように」
「よし。早速行動に移ろう」
「密偵のあてはございますか」
「うむ、まだ十五の若造だが、霊山で修行を積んだ者がいる」
「では、その者に」
「そうしよう。――それにしてもまぶしい日差しだ。幕を閉めてくれ」
「承知いたしました」




