呈州軍、強襲
「しかしなぁ……」
「どうした紀流」
紀流のつぶやきを、隣にいた聘左が鋭く聞き取った。
聘左は全体的に筋肉質で、頭にも筋肉が詰まっているのでは、と他人に言わせるほど好戦的な男だった。
そんな男と組まされたのでは戦わざるを得ない。
できることなら、平地で貫州軍と戦いを交えることは避けたかった。
紀流は〈拠点防衛術〉を学んだことがあり、城の守備には自信があったのだ。
呈州軍の配置はこうだ。
広北湖東の森に三千の兵が伏せてある。そこから街道に沿って北に進むと、さらに七千の兵が待機している。この七千の兵の指揮をとるのは慈沖という将だ。
貫州軍は水の補給をすると読んで、紀流達はこの場所に兵を伏せている。
間もなく夜。やってきた貫州軍は湖の周辺で野営する可能性が高い。紀流達はそこを強襲するつもりだ。
さすがに二月の夕刻。雪で湿った森はひどく冷え込んでいる。紀流は体の震えを必死で抑えなければならなかった。
「聘左殿」
「うむ、どうした」
「やはり聘左殿は後方七千の隊を指揮した方がよかったのではありませぬか」
「馬鹿を言うな。この俺がなぜ後方で待機しなければならん。敵は前線で倒してこそ価値があるというもの」
「さようで」
さすがは聘左。彼とは三年ほどのつきあいになるが、全く変化がない。
それはそうと、貫州軍が広北湖まで下りてきている。兵士は各々が筒に水を溜めて、長い行軍に備えようとしていた。
……行くとしたら、そろそろだな。
紀流は地面に置いてある槍に手を伸ばした。
貫州軍の兵士達は、湖岸周辺に腰を下ろして休憩を始めた。
その中には、将と思わしき騎兵の姿も見える。
「紀流、参るぞ」
しばらく待ってから、聘左が言った。
「……承知いたしました」
聘左と頷き合うと、紀流は後方の兵士達に向かって合図を飛ばした。もしもこの強襲が失敗に終わった時は、待機している慈沖に任せよう。
すでに太陽は沈みきっており、残照がうっすらと辺りを照らしているに過ぎない。奇襲には十分な時間帯だ。
「作戦に移る」
紀流が一声かけると、兵士達は静かに動き始めた。
夕闇に紛れて、紀流は慎重に歩を進める。
南岸を回って接近した呈州軍は、貫州軍と目と鼻の先までの距離に達した。
「突撃ッ!」
隣の聘左が怒声を挙げた。
その瞬間、背後からついてきた兵士達が一斉に声をあげ、突撃を始めた。
紀流も遅れるものかと走り出し、貫州軍の真っ只中へと飛び込んでいった。
目の前に剣をかまえた貫州兵が現れる。相手が剣を振るう前に、紀流は槍で突き倒した。
他の呈州兵も貫州軍と激突。戦闘が本格的に開始された。
聘左が貫州兵をまとめて三人葬り、雄叫びを上げた。
貫州軍は突然の襲撃に戸惑っている様子だ。立ち向かってくる兵士よりも逃げていく兵士のほうが多い。
まず第一撃は成功したと見てもいいだろう。
紀流も気分が高揚してきて、吼える。
軍を相手にする戦闘は初めてなのだ。それがこうしてうまくいっていることに、激しく興奮していた。
「俺は呈州軍の紀流だ! 俺の首を取ってやろうと思う者はいないか! 相手になるぞ!」
槍を構えたまま叫ぶと、紀流の目の前に一人の男が現れた。
武器は短槍で、鎧は纏っていない。おそらく一兵卒、よくて伍長というところだろう。
「俺が相手をする!」
「おう、名乗ってみろ!」
「貫州軍の健郎だ!」
「よし、参るぞ!」
紀流が槍を突き出すと、健郎は素早く身をひねってかわし、接近してくる。半歩踏み出して、健郎が刺突を放ってきた。
――遅い。
紀流は半身を左にひねってかわしながら、相手の槍を左手で掴んだ。そのまま力ずくで槍を奪い取る。
武器を奪い取られた健郎は大きくよろめき、体勢を崩した。
紀流は相手を蹴り飛ばすと、その心臓に槍を突き入れた。
健郎は「ぐう」とうめいて地面に膝をつく。紀流は槍を横にねじるようにしながら引き抜いた。それがとどめとなったか、健郎は地に伏した。
わざわざ名乗ったわりにはたいしたことのない奴だ。
紀流は失望を覚えながら、さらに戦場深くに入っていく。
岸辺はすでに乱戦状態になっており、湖に落ちて水面を朱に染める者が続出した。
貫州軍はほうほうの体で来た道を逆戻りしていく。
――もしや俺は貫州軍を買いかぶりすぎていたのだろうか。
重なり合う喚声に包まれた戦場の高揚感は、紀流にそんな思いを抱かせる。
「そうかもしれないな」
つぶやきながら、紀流はまた一人、兵士を突き倒す。
――貫州軍が砦を落とすことができたのは、民兵が味方についたからだ。そうでなければもっと時間がかかっていたに違いない。
「追撃だ! 追撃しろ!」
乱戦の中で、聘左が声を張って命令を下した。呈州兵が大声を上げて反応し、追撃にかかった。
自分たちが圧倒的優位に立っているという事実が、彼らから恐怖心を取り除いていた。
逃げる貫州軍に追撃を仕掛ける呈州軍。
紀流もその流れに乗って、貫州兵の背中に槍を突き立てていく。広北湖街道に貫州軍の死体が増えていった。
と、そんな時だった。
「紀流殿か聘左殿はいずこに!」
後方からものすごい叫び声が飛んで来た。
紀流はその声をかろうじて聞き取り、後方を見た。一騎の騎兵が、追撃をしている呈州兵の遙か後方にいる。
何か報告があるのだろうか。後方からやってきたということは、呈央城からの使いである可能性が高い。慈沖が何を言ってきたのだろう。
紀流はいったん追撃の列から離れ、騎兵のもとまで駆けていった。
「どうした、何事だ!?」
「おお、紀流殿! 一大事にございます! 呈央城が貫州軍の襲撃を受けました!」
「なんだと!?」
高揚が一瞬で冷めた。
「馬鹿な、貫州軍は目の前にいる! どうやって現れたというのだ!?」
「おそらく街道を外れて山道を抜けてきたのではないかと!」
ますますおかしい。
貫州軍が山道という抜け道を知っているはずがない。
「いや……」
貫州軍には呈州の人間が混じっているのではなかったか?
紀流の顔が真っ青になる。
「い、いかがなされます」
「呈央城に現れた貫州軍の戦力はどのくらいだ」
「五千程度かと。ただ、夕闇に紛れての不意討ちのため、こちらの戦列が乱れている状態でございまして」
……五千か。
万単位の兵力が現れたわけではないと知って、紀流はわずかに安堵した。さすがの貫州軍も、大勢を連れての電撃的行動はできなかったと見える。
「我らは眼前の貫州軍を叩く。撤退はそれから――」
紀流が言い終わる前に、前方から怒号が上がった。
街道の地面が盛り上がり、そこからわらわらと兵士が姿を現したのだ。
「伏兵だ」
紀流は力の抜けた声でつぶやいた。
土の色をした布でもかぶって待機していたのだろう。呈州軍は完全に踊らされていた。
新たに出現した貫州軍は、雪崩を打って、追撃に走った呈州軍に襲いかかる。
まだ戦っておらず、全く疲弊していない貫州軍の新手。
呈州軍はたちまちのうちに押されはじめる。さらに、敗走していた貫州兵も再び戦列に加わったため、戦況は一気に逆転してしまった。
「甘かった……」
紀流は呆然とつぶやいた。




